9-9.実感
「頑張ったのに」
「戦死者は結局ゼロだったのに」
「役に立たない峠と古い砦がちょっと壊れただけなのに」
「……」
最後の一つはどうだろう、と思う。ちょっとどころではなく、間違いなく全壊。大掛かりな復旧なしには廃棄する以外ないというぐらいに。それを『だけ』と言い切っていいものか……。
野営用のテントの中、アレックスは片膝を曲げてそこに頬杖をつき、横のフィルを眺める。さっきから彼女はむくれ顔で、ぶつぶつ文句を言いながら、寝袋の上でごろごろと転がっていた。
「それに……」
そう呟くなり、フィルは抱えていた枕に顔を押し付けて体をぎゅっと丸めた。そのまま静止してしまって、テント内は静寂に包まれる。
日は完全に落ちてしまったが、野営の中心地付近では、祝いを兼ねた大篝火が焚かれ、興奮冷めやらない兵士たちが浮かれ騒いでいた。うるさいほどに騒々しいが、周辺に町があるわけでなし、騎士たちはおろか、フェルドリックもポトマック副騎士団長も咎める気はないようだ。
「……メッセン小隊長だろう、あの作戦は?」
聞こえないかと思ったのに、フィルは目を見開き、ばっと上体を起こした。その睫が濡れているのを認めてアレックスは苦笑する。やはり泣いていた、と。
手を伸ばして指で目元を拭い、彼女の身を抱き寄せた。
「……っ」
間近になった緑の目からボロボロと滴が落ちていき、フィルはそれに応じて顔を歪ませる。
彼女が泣く時はいつもこうだ。声を抑えて静かに泣く。なのにその表情が、痛い、悲しい、とはっきりと伝えてくる。
胸の中に包み込んで背を撫で始めれば、フィルがアレックスのシャツをぎゅっと握った。柔らかい身体が、胸に嗚咽の振動だけを伝えてくる。
短くない時間、アレックスはただ彼女をあやし続けた。
『フォルデリーク、君はあの子のことを知っているのだね』
フィルが入団してきて半月ほど経った、ある日の午後のことだった。白髪のメッセン小隊長は、アレックスを前に穏やかにそう口にした。
『……はい』
どう答えたものか迷ったが、不思議なことにその視線に嘘をついてはいけない気がした。
メッセンは愛想のかけらもないアレックスのその返事に、微笑んだ。
『懐かしいな』
それから横の鍛錬場で剣を振るうフィルを見て、子供のように笑った。
『憧れそのままだ』
そう言ってそのまますれ違っていった。
西日に照らされたその顔が、脳裏に鮮明に焼きついている。
――自分たちのいる場所は、死と隣り合わせだ。自分の、そして側にいる誰かの。
腕の中のフィルを自分の身へとさらに強く抱き寄せる。
(次に失うのが彼女でない保証なんてどこにもない……)
しゃっくりに全身を震わせている彼女の顔を横からのぞき込んで、宥めるように口付ける。
けれど、目蓋に、額に、頬に、鼻に、口元に、唇に、何度も触れるうちにその目的を忘れて、目の前の彼女の存在に溺れていく。
今回だって失ってしまっても不思議じゃない状況だった。彼女が無事に自分の元に戻ってきてくれたこと、それに自分こそが命拾いしたような気がする。
衝動に促されるままにキスを徐々に深めていく。戸惑って逃げようとする舌を自らのそれで捕らえ、摺り寄せる。
「フィル……」
彼女の身体が時折跳ねるのを押さえつけながら口蓋を、歯茎を、内頬を丁寧に舐めあげる。
そうして左手を後ろ髪へと梳き入れて後頭部を押さえ、角度を変えながら上から覆い被さるように彼女の口内を愛撫し続けた。
軽く目を開けると、目の前の金の睫が震えているのが目に入った。
押し返そうと胸に当たっていた手は、いつの間にかまたアレックスのシャツを握っている。すべてが愛しくて、キスの合い間に滑らかな頬を何度も撫でる。
毎晩、いや可能であれば昼日中にだって、フィルに触れたい、抱きたい、そう思っている。
だが、遠征に出て半月以上、その間はずっと野営で、周囲に気取られる可能性を考えれば、思うままにフィルに触れることは当然できず、かなりの苦痛を強いられている。
そんな事情を察しているのか、フィルのほうも事ある毎に何気ない仕草で距離をとろうとしていて、それが結構面白くなかったのだが……。
今、彼女が真っ赤になりつつも逃げないでいてくれることに、なおのこと欲望がかきたてられた。
無事だろうかと気が狂うくらいに心配した。メッセンが無事ではないらしいと聞いてからは特に。だから、全身が彼女を欲してしまっている。
口付けを終えて、赤く濡れてしまっている唇へと指を這わせながら、フィルの顔を覗き込む。
「……アレックス」
小声で俺の名を呼ぶと、フィルは許しを請うような、潤んだ瞳を向けてくる。多分欲望を察知されているのだろう。
「死にそうなぐらい心配したんだ。全身で生きていると、フィルを感じたい」
「……」
指の先まで赤く染め上げ、フィルが呻き声を上げた。困ったように視線を揺らし、泣きそうな顔になる。
(……ここまでだな)
「冗談」
困ってくれただけで十分――そう思って額にキスを落とすと体を離した。が、シャツが引っ張られた。
「その……わ、たし、も同じように思ってます……」
消え入りそうな呟きを耳が確かに拾った。その瞬間、アレックスは再び腕を伸ばす。
「……」
が、フィルの方が上手だった。
ざっと音を立てて飛びのくと、「でもそれはそれ、これはこれです、今はないです」とまるで猫の子のように警戒を露わにした。
しばらく絶妙な距離で見つめ合った。
「……何もしない。抱き締めるだけ」
「……」
「……嘘をついた、キスだけ」
「……」
「そこは誓う」
「そこ『は』……?」
顔を引きつらせた後、迂闊に近寄ったら「シャーッ」とでも言い出しそうな表情で見られて、アレックスは吹き出した。
(ああ、そうだ、フィルは昔からこんなふうだ、予想どおりにも思いどおりにもならない、でも生きている、そう感じさせてくれる――)
笑い続けるアレックスに呆気に取られていたフィルが、口を尖らせた。警戒が緩んだ隙に腕を引き、その身を胸の中に取り戻す。
「しない、キスだけ」
そう繰り返して髪に、こめかみに、額に、瞼に、頬に、鼻に、余すところなく口づけを落とした。
伝わってくる体温に、吐息に、身じろぐ振動に、香りに、体の柔らかさに溺れていく。
「本当に無事でよかった」
こんな場所に二人居るのに、フィルが傷つけば、いなくなってしまえば、おかしくなってしまう、そんな予感を持ってしまった。
彼女がいない、自分で思いついただけのその状況に、愚かなことだと思うのに、今でさえ顔が歪んでしまう。
「……その、そんな場合じゃない、って怒られるかも、とも思うんですけど、」
フィルの細い指がアレックスの顎に、たどたどしく触れた。両の腕が後頭部へと回されて、物言いたげな表情となった彼女へと引き寄せられた。
そして耳元で小声が響く。
「私、も心配でした、アレックスのこと。あと、その……すごく、すごく会いたかった、です」
「っ」
気管が震えた。彼女の胸元に顔を埋めたまま、ぐっと抱き締める。抱きつぶしてしまわないようにしなくてはいけないと思うのに、うまく加減ができているか、まったくわからない。
背にフィルの両腕がおずおずと回された。緩やかな締めつけを感じた瞬間、目頭が熱くなった。泣きそうになっていることに、フィルが気づかないでいてくれるといい。
* * *
「ん……」
テントの中、アレックスの腕に抱かれた状態で、フィルは目を覚ました。
二日間まともに寝ていなかったせいだろう、いつのまにか寝てしまっていたようだ。
「……」
それからおそるおそる視線を下に動かして衣服の状態を確認し、ほっとする。
次いで、その発想に赤面し、それもこれもアレックスのせいだ、とこっそり責任を転嫁する。
一人百面相を繰り広げるフィルの耳に、賑やかな笑い声が聞こえてきた。
視線をそちらに向ければ、テントの幕越しにぼんやりと炎の明かりが見えた。まだみんな浮かれているようだ。
視線をアレックスに戻す。じっと見つめた後、その頬に指で触れた。
(……アレックスだ)
ちゃんと彼の側にいる――その事実を再確認してフィルは微笑むと、目の前の厚い胸板にぎゅっと抱きついた。
「ん……」
寝惚けつつも彼が抱きしめ返してくれたことで、顔全体を綻ばせる。
山肌に露出している岩を崩し落として、峠道を破壊する。同時に、古い軍事用の建造物の構造上の欠点を逆手に取り、砦の基礎を壊して、敵を巻き添えにする。
メッセン小隊長の「山」という言葉と、昔祖父に教えてもらった知識に助けられて思いついた作戦だったが、ヘンリックもロデルセンも当初絶句した。チラパ砦の警備隊員もクホートの警護隊員も然り。
だが、メッセンも同じことを考えていたと思うし、実際それしかなかった。もっと言うなら、それでも戦況はかなり危うかったと思う。
用兵学の授業でさんざん言われていたとおり、兵士たちにばれないよう余裕なふりをしていたけれど、本当は……怖かった。ヘンリックが、ロデルセンが、私たちに協力すると言ってくれた兵士たちがメッセン小隊長のように死んだらどうしよう、フィル自身が死んで大事な人達に、特にアレックスやアレクに会えなかったらどうしよう、とずっと怯えていた。
冗談を言ったり、笑ったりの演技を続けたまま、夜陰に乗じて山と砦に細工をして、世明けを迎える。そして、日が昇った頃、敵が動き出して作戦は開始された。
砦を守るようなそぶりで交戦しつつ、徐々に戦線を後退させていく。そうして敵の半数ほどが砦内に入った頃合いを見計らって、一気に自軍の兵を引き上げ、同時に工兵たちに合図を送った。
崩れ落ちた砦が立てる砂煙の中、自ら先頭に立って敵の残党に突っ込む。敵はそれでも二倍。こちらの兵の質があまり良くない一方で、敵にはシャダの正規兵が思いの他多くいた。
感覚的にまずい、と焦りを覚えた時だった。瓦礫の向こうからアレックスたちが現れたのは。
彼の声に、戦闘の最中だというのに自分でもおかしくなるほどの安堵を覚えて、後はいつも通り――負ける気がまったくしなくなって、その通りカザックは勝利した。ヘンリックもロデルセンも警護隊員たちも生き延びて……。
「っ、うぅ」
勝利の後に思いを馳せて、フィルは再び赤面する。
戦闘の終結が兵士の末端にまで行き届いて場が落ち着いた後、アレックスは自分と目が合って一瞬泣きそうな顔をした。その顔に動揺している間に、息も出来なくなるくらい彼にきつく抱きしめられて……やってはいけないと思ったのに、結局自分も彼を抱きしめ返してしまった。その後キスされた時には恥ずかしいとすら考えられなくなっていた。
さっきもそうだ。生きて彼の側にいる――そう告げてくる、全身に生じた感覚に、ただただ浸ってしまっていた。
『全身で生きていると、フィルを感じたい』
もしあの後、アレックスが引いてくれなかったら――。
フィルは全身を真っ赤に染めると、慌てて顔をアレックスに押し付ける。
『フィルが俺に馴染んでいっている、それだけの話だ』
遠征前にアレックスの言っていたとおりだ。でも、体だけじゃない、心まで彼なしでいられなくなっていっている――。
(不思議かも……)
アレックスを好きだと自覚してから三ヶ月。触れ合うようになってからほんの一ヵ月程度だ。
彼に自分のことを相変わらず話せていない。それでも顔を押し当てた胸から伝わってくる鼓動を聞いていると安心してしまう。抱きしめてくれる腕の力強い感触に、彼がいれば自分は大丈夫、そう思ってしまう。
そのせいか最近アレクのことをあまり考えなくなった。彼女に会いたいとは相変わらず思うけれど、嬉しい時に思い浮かべるのも苦しい時に思い浮かべるのも、アレックスであることが増えていっている。
「……」
規則正しい心音と呼吸の音、そして、伝わってくる体温に目蓋が再び重くなってくる。
(幸せ、だよね……?)
こうして、生きて彼の側でその温もりに浸れる――そのことに感謝しよう。




