8-17.思慮
「……」
マリーとニッカが預けられている部屋の前で、アレックスが扉に手の甲をかざして止まった。フィルだけじゃない、アレックスも『ザルアの悪魔』と対するより、魔物使いを追い詰めるより、よほど緊張しているように思う。
ここに来たのは二人の顔を見るためと、彼女たちの村を襲った魔物をすべて退治したこと、だから二度と彼女たちの前に現れないことを知らせるためだ。
思い出させるのはひどいことなのかもしれないと二人で悩んだ。そっとしておく方がいいのかなとも思って……アレックスの腕の中で最初に見たマリーの姿を思い出して伝えようと決めた。
もちろん、それで彼女たちの両親や慣れ親しんだ村人たちが蘇るわけではないけれど、あの魔物がもういないという事実を知っていて欲しい。夜うなされて起きても、目覚めてしまえば、もういないんだと思えるように。
皆がその話に触れなければ、もっと心の中に抱え込んでしまうかもしれないから、それはさせたくない。怖いことなんて思い出さなくていい、ではなくて、怖い目に遭ったねと言って、でももう大丈夫と伝えよう。
そう決めたのだが、それがいいことなのか本人でなくてはわからない、とも思って堂々巡りになる。
微妙に息を殺しつつ扉を叩けば、二人を見ていてくれたという、ここの警備隊員の奥さんが出迎えてくれた。
彼女は二人の様子について説明した後、「自分たちこそ不安なのでしょうに、あなたたちをずっと心配していたわ。顔を見せて安心させてあげて」と言って出ていった。
「お兄ちゃんっ、お姉ちゃんっ」
直後に、思いのほか元気な声と姿で姉妹が部屋の奥から走り出てくる。
「っ」
(お、おねえちゃんはまずい)
フィルは彼女たちを抱きとめると、慌てて中に入って扉を閉めた。
偏見がないからなのか、彼女たちは最初からフィルを『お姉ちゃん』と呼んだ。傷ついているのだろう彼女たちに嘘をつくのは気が引けて、それに自分の胸へと安心したように擦り寄ってくる感触がなんだか愛しくて、敢えて訂正してこなかったのだけれど……。
「ええと、できたら、お姉ちゃんじゃなくて、フィルと呼んでくれると……」
切実に。特にロンデール副団長が間近にいる今は本当に勘弁して欲しい。
「フィルお姉ちゃん?」
「あ、いや、フィル、で……」
顔を輝かせたマリーが一転して、哀しそうに顔を曇らせた。
「ルナお姉ちゃんみたいに呼んじゃ駄目なの……」
マリーが沈んだ顔を見せたことで、固まった。ルナお姉ちゃんとは確か彼女の近所の子のはずだ。長子のマリーは、彼女を本当の姉のように慕っているようだった。「ニッカには私がお姉ちゃんだけど、私にはルナお姉ちゃんがいるから」と。
(そうだ、この子にはそうやってお姉ちゃんと呼べる人もいなくなってしまったんだ……)
「……いや。マリーがその方がいいならいいよ」
それに比べたら、自分の問題なんて些細なことだ。あきらめをつけてそう口にしたフィルの頭を、アレックスがポンと叩いてくれた。
「マリー、ニッカ、誰かの前でフィルのことをお姉ちゃんと呼んだか?」
それからアレックスは少し真剣な顔で少女たちの目線へと身を屈めた。
「うん、黒いひげのおじさんと、赤い髪の顔に傷のあるおじさんと、ヒンギスさんと茶髪の綺麗なお兄ちゃん」
あっさり頷かれただけでも息を飲んだのに、続いて出てきた人たちの多さに眩暈を覚えた。
(ボルトさんとウェズ小隊長と、ヒンギスさんは知らないけど、茶髪はアッセン。でも、綺麗となれば……ロ、ロンデール副団長……)
フィルは蒼褪める。
「――茶髪のお兄さんの目は何色だった?」
「?」
アレックスの声の調子が一段と低くなった。自身動揺しつつも、フィルは彼の顔をうかがい、
「薄い緑色! お姉ちゃんのこと色々訊いてたよ、元気ですっごく優しいって言っといたからね」
マリーの元気な声に視界を滲ませた。ロンデール副団長で決定だ。
(突っ込んでこられないように、明日から接触を避けよう……)
それでも、マリーたちの「いいことしたでしょう?」という嬉しそうな顔を見たら結局笑ってしまった。まあ何とかなるかと思うことにする。
改めて彼女たちに向き直った。
「マリーたちに報告があるんだ」
なるべく平静に見えるように全神経を使いながら、あの魔物たちをすべて始末したことを告げる。
「……」
「お姉ちゃん?」
青ざめて表情を失ったマリーと、まだよく意味がわからないらしくて、不安そうな顔をしてその姉を見上げるニッカ。二つの表情にやはり間違ったのか、という後悔が湧きあがって、フィルは顔を歪めた。
今まで色んな人の生死に触れてきた。
剣で奪った、救えた、もしくは救えなかった命と人生――祖父は剣を持つ以上、それから目を離すなと言った。離した瞬間から、剣はただの人殺しの道具になる、と。
それらを見ていて、悲しみというのは喜びや怒りよりずっと複雑な感情なのだろうと思う。
悲しい時に泣く人もいれば、悲しいからこそ泣けない人もいる。
悲しいからこそ何も手につかないという人がいれば、悲しいからこそ動いていないとやりきれないという人がいる。
悲しみから一時なりと目を逸らして乗り切ろうとする人もいれば、悲しくて目を逸らすことすら出来ないという人もいる。
自分とは違う悲しみ方をされた場合に、その悲しみの深さを想像するのはとても難しくて、時々その人がどれだけ傷ついているのかを見失いそうになる。
まして幼い子が相手の場合は、本当にそれがわかりにくくて……。
短くない時間が経ち、応じてニッカの顔が不安に染まっていく。泣く寸前だ、そう感じた瞬間に、それまでずっと黙っていたマリーが口を開いた。
「じゃあ……追いかけてこない?」
「うん、どこにもあれはいない。もう追いかけてこないよ」
小さく、奇妙なまでに平坦な声とその問いの意味する残酷さに、気管が震えた。
「じゃあ、ニッカはもう大丈夫?」
「ああ、マリーも大丈夫だ」
声が出てこなくなったフィルを助けるように、アレックスが答えた。
マリーはこちらを無表情に見つめている。
子供は大人が思うより色々なことを知っていて、大人が思うより多くのことを、大人が思うより深く考える。きっとその小さい頭の中で色々なことが廻っているのだろう、とフィルは緊張にこぶしを握り締めた。
「……出てきちゃ駄目って……耳を塞いで目も閉じてなさいって、パパが言ったの」
「っ」
「……」
小さな呟きにフィルだけではなく、アレックスも顔を歪めた。
「誰も教えてくれないの、」
およそ子どもらしくない、静かな声に胸が締め付けられる。
「ママも、パパも、おばあちゃんも……もうどこにもいないのね? ルナお姉ちゃんもホアンもサヤも」
怯えたような、でもどこか意を決したかのような顔を見せるマリーに、フィルとアレックスは同時に息を止めた。
どう答えよう、と逡巡して……、
「…………うん」
結局それしか答えを思い付けなかった。
理解しているのかいないのか、とにかく泣き始めたニッカをアレックスが抱えあげ、背を撫でる。
目に涙を溜めて、なのに唇をかみ締めたまま動かないマリーの姿に、フィルは唇を引き結ぶ。
「村にフィルお姉ちゃんたちみたいな人がいればよかったのに……」
「マリー……」
彼女よりずっと大人なはずなのに、何一つ言葉が思い浮かばない。「なぜもっと早く来なかった」と責めてくれたっていいのに、と思うと、唇が戦慄いた。
情けなさをかみ締めながら、フィルは彼女へと両腕を伸ばす。その身のあまりの小ささに呼吸がさらに苦しくなる。
「……お姉ちゃん、私、頑張ったら、お姉ちゃんみたいになれる? ニッカを守ってやりたい」
幼い彼女がフィルの胸の中でそう呟いた。
(ああ、やっぱりそう考える子なんだ……)
あの時マリーが塞いでいたのは、自分のではなくてニッカの耳だった。
「なれるよ」
人のために頑張ろうとする優しさが嬉しくて、同時に悲しくなる。この子は、この上にきっと色々なものを背負い込むのだろう。
「でも、頑張りすぎるのは駄目。それは許さない」
悲愴な顔をしていたマリーが、フィルを見上げてきた。その目はまん丸で、フィルはそれで少しだけ微笑んで見せることができた。
「変なの、頑張るって言ったら、パパもママも褒めてくれるのよ?」
「だってマリーは放っておいても頑張りそうだから」
きっと彼女は人のためにどこまでもそうするだろう、そんな気がするから……。
「いいかい、マリー、辛い時は頑張っては駄目。約束して――そういう時はいっぱい泣いて、いっぱい休んで、元気になってからゆっくり頑張るって」
「……変なの」
同じ言葉を呟いた幼い彼女の顔が、少しずつ歪み始める。そして、フィルの胸に再びその顔が埋まった。
「……」
小さく震えながら、マリーが泣き声を漏らし始める。ぎゅっと縋り付いてくる彼女によって濡れていく胸の感触に、フィルは詰めていた息をようやく吐き出すことができた。




