8-15.悪魔
ズグリ、という音が男の鼓膜をまた揺らした。
「……」
(なんだ、あの生き物は)
咆哮が轟き、引き抜かれた剣の軌跡を追って、緑の液体が噴き出した。
地響きを立てて崩れ落ちた魔物の向こうに見えるのは、線の細い、金髪の騎士だ。肉塊と化したグリフィスを冷静に見下ろし、もう一度剣を振り上げると、止めを刺した。
(あれは本当に人、なのか……)
這いつくばって命乞いするべき卑小な人間のはずだ。なのに、彼はザルアの悪魔を前にした時もそれに襲い掛かられた時も、欠片の恐怖も見せなかった。
勝利した今も無表情のまま、歓喜する気配すらない。全身を緑に染めていながら、見た目といい動作といい、人外であるかのように乱れがないのだ。
動揺する魔物使いの目の前で、その騎士は淡々と剣を構え直し、次なるグリフィスへと身を躍らせた。
別の騎士と対峙していたグリフィスが、横から突っ込んできた金髪の騎士に気付き、スパイクのついた尾を振り回した。跳躍して攻撃を避けた騎士は、魔物の懐に潜り込むなり、腹めがけて下から剣を突き上げる。
そんなことになんの意味もない、と老魔物使いはようやく余裕を取り戻した。グリフィスの全身は、首の後ろの弱点以外はすべて硬質の鱗でおおわれている。剣など刺さらない。
「愚かな」
せせら笑いを顔に浮かべた老人の視線の先で、グリフィスが動きを止めた。口から呻き声を漏らしつつ、前肢で金髪の騎士を攻撃するが、ひどく動きが鈍い。
騎士はグリフィスの腹を蹴り飛ばして、飛び後退った。ブシュッと音を立てて、黒い消化液が斜め下方に噴き出す。絶叫と肉の爛れる嫌な臭いが魔物の身から立ち上る。
(刺さった……? なぜ……)
自分の知らない知識を見せ付けられて、男は呆然と口を開けた。
のた打ち回り始めた魔物の首の付け根に、別の騎士が正確そのものの所作で剣を差し込む。痙攣の後に、それは一切の動きを止めた。
目の前の光景は、悪夢だろうか……?
王太子とその従者たちが虐殺される様を間近で見ようと地に降りていた魔物使いの顔は、今や蒼白となっていた。開けっ放しの口から水分が逃げていく。どう口腔を潤すのだったか、どう口を閉じるのだったか、思い出せない。掌にも額にも汗が滲んでいる。
騎士と魔物の混戦は続いている。だが、どう見ても分が悪い。数でも体格でも魔物の方が圧倒しているはずなのに。
「っ」
対方に、数名の護衛を従えた王太子を見つけて、魔物使いは顔を歪める。あっちは同じ場を、余裕そのものの様相で観察している。
「あの男を狙えっ、殺せっ」
魔物使いの手の動きに合わせて、数体のグリフィスたちが王太子へと向かった。
応じて移動した騎士たちの一人、背の高い黒髪の騎士が、先頭の一体の口内へと剣を突き込んだ。両手を添えると低い声を吐き出しながら半身を捻る。
唸り声と共にグリフィスの鉤づめが彼の頭部を襲う……が、攻撃が到達する前に、グリフィスの顔面はゴリッという鈍い音と共に、真っ二つに割れた。
そこから緑に染まった物体の数々が飛び出す。
王太子の周囲の人間が顔をしかめる。対照的に、黒髪をはじめとする騎士たちの表情に変化はない。
手塩にかけて育てたザルアの悪魔が次々に倒されていく。
「こんな、こんなはずは……」
身体が震え出した。
レメントが幻と化し、ドラゴンが滅んだ今、『ザルアの悪魔』は最強の魔物で、その集団を操れる自分こそがこの世の絶対的強者のはずだ。
『ザルアの悪魔』の軍団を作り上げ、英知溢れる魔獣学を悪魔の学問と蔑み、後ろ指をさした者たちに、許しを乞わせる。その上で、可能な限りの苦痛を与えて弄り殺す。そうして、恐怖で人々を支配していき、ゆくゆくはこの世のすべてを自分に服従させる。
手始めに、この国の太子フェルドリック・シルニア・カザックを血祭りに上げる――遠くない未来にこの大陸を支配する自分に相応しい幕開けだった。
声高にその強さを謳われるこの国の騎士団とて、『ザルアの悪魔』の前では赤子のようなものだと証明することもできる。
だからこそ、この国の王になりたいなどという身の程知らずな野心を抱えるハフトリーの依頼に応じてやったのだ。
なのに、なぜこんなことに――。
魔物使いは黄色く濁った目を、グリフィスに対している金と黒の髪の騎士に向けた。
(……そう、だ、あの二人、あの、二人さえいなければ……)
残るグリフィスは五体。やられた十体の多くをあの二人が殺したのだから、あの二人さえ殺せば……。
「……」
男はナイフを握り締め、少し先で自分に背を向けている金髪の騎士へとふらりと足を踏み出した。
大陸中をさ迷い歩いてグリフィス、『ザルアの悪魔』の秘密を掴んだ。
産卵時の母体の栄養状態と孵化後の幼体の餌、幼体の集団育成、攻撃性と執着の維持など、五十年もの年月をかけて、毒液に右目の視力を失い、右腕を義手にして、やっと、やっと理想の『ザルアの悪魔』を作り上げることに成功したのだ。
こんなところで終わるわけにはいかない――。
最大の『ザルアの悪魔』を傍らにしていた魔物使いは、その一体を付き従わせることも忘れて、ふらふらと目的に近寄る。
(殺してやる、わしの邪魔をするものはこの世に存在してはならない、すべて、すべて殺して……)
「あの人に近寄らないでもらいましょう」
横から白刃が突きつけられた。
濃い茶色の美しい髪と新緑色の淡い目。大人の男の精悍さを備えた美貌と身上に、彼を「貴族」と認識し、魔物使いは憎憎しげに顔を歪めた。憤怒で我と目の前の刃を忘れ、唾を飛ばしつつ罵倒を口にする。
「わしに命令するなっ、お前も王太子もいずれあのハフトリーもみな殺してやるっ。貴き身の上などとぬかして、人を蔑みおっ――っ」
怒鳴る魔物使いと貴族へと『悪魔』の巨躯が倒れ込んできた。貴族の男は危なげなく身をかわす。
かろうじて直撃は免れたものの、舞い上がった森床の枝葉や小石が魔物使いの顔をビシビシと打った。悶える魔物の尾が腹を掠めて、呻きながら身をかがめる。
「……ひ」
その魔物に止めを刺しに来た黒髪の騎士と目が合った。殺気に全身が凍りつく。同時に情けない呼気が口から漏れた。
――シヌ
「っ」
啓示のように脳裏に生じた言葉と恐怖を打ち消そうと、魔物使いは胸元に垂らした犬笛をわたわたと引き出し、必死に吹いた。だが、相変わらず反応はない。
「くそっ、くそ……っ、ハフトリーっ、そもそもあいつが質の悪い鎖と実験場しか提供しなかったせいじゃ、逃げた九体は傑作中の傑作じゃったのにっ、あいつらさえいれば、こんな目には……っ」
これまで無表情だった黒髪の騎士が、激怒を顔に乗せた。老人は焦りで笛を取り落とす。
「――その九体なら既にこの世にいない」
緑の体液にまみれ、怒りを湛えて歪んだ顔は、元の造りのせいか、凄絶さがさらに際立っていた。
「ぁ……」
彼の空気に鳥肌が立ち、老人は後ろへとよろける。続いて言葉の意味を理解し……愕然とした。
(今、なんと言った……? 既にいない? まさ、か……まさか、あれらまで……)
「白岩村はやはりお前とハフトリーのせいか」
金髪の騎士が『悪魔』の一匹に対峙したまま、呟いた。
次の瞬間、毒液と右腕の一撃をかわし、その腕を踏み台に跳躍する。そして、魔物の右目に剣を突き刺した。
「……ふうん、やっぱりここも弱点か」
眼球から脳を刺し貫かれたその一体もあえなく動きを止め、身を崩す。その騎士は剣に両手を添えると、声を吐き出しながら、グリフィスの鼻から上顎を真っ二つに押し割った。
「いくら頑丈な骨でも縫合部はやはり弱いね」
緑色の返り血に全身を染め、無表情に振り返ると、魔物使いへと向かってくる。
「――さて、地獄に行く準備はすんだか」
そして、その美しい顔の口元だけに歪な笑みを浮かべた。
「ぁ……ぐ……」
ぞわり、と虫が全身を這い出したかのような感覚が生じた。
――コロサレル
「っ」
身を翻し、老人は自分に付き従っていた『始祖』――最初に彼が育て上げた『ザルアの悪魔』の元へと駆け戻る。
「始祖っ、始祖よっ、殺せっ、すべて殺してしまえっ」
その緑の硬い鱗に縋りつきながら、狂ったように叫ぶ。
「お前ならば造作もないことだっ。そうだ、わしとわしのザルアの悪魔が、こんな下等な者たちに負けるはずはない、そんなことはありえない……っ」
目は血走り、口からは泡とよだれが飛び散った。
「違えるな、小僧どもっ。地獄を見るのはお前たちだっ」
そうしてけたたましい笑い声を上げた男の横で、巨体がゆっくり前へと傾いた。
動き始めた始祖に男はさらに笑いを深め……覚えた違和感に目を見開いた。
動きに続くべきなのに止まったままの足。歩みにしては不自然なまでの前傾。がたりと前へと折られたままの首――それは男の目にはひどくゆっくりに映った。
「……始祖?」
土煙と枯れ葉、特有の香りを巻き起こしながら、巨体が森床に倒れ落ちる。
何が起きているかわからず、魔物使いは始祖の傍らに立ち尽くした。
「実に見苦しいなあ。まあ、それでこそ悪役ってもんか」
返り血ひとつ無いまま、顔に傷のある赤髪の騎士が、土煙の向こうから涼しい顔をして現れた。その言葉の軽さとは裏腹の恐ろしい目で、「お前の育てた魔物のせいで、村が一つ滅んだ」と男を睨んだ。
(こんな、こんなはずは……)
ただ呆然とその赤い目を見つめ返す男の頭に浮かぶのは、現実の拒絶だった。
「っ」
突然、とん、と背後を叩かれ、次いで鈍い音と共に男は右肩に激痛を感じた。
目の前にいた赤髪の男の顔が引きつったのが一瞬視界に入り、だが次の瞬間、視界は黒いもので覆われる。
「う、うああっ」
目に、鼻に、口に甘苦くて吐き気のする土が入り込む。
「いたいいたいいたいいたい……っ、ぎゃあっ」
苦悶に身をよじりながら身を返すと、今度は左手が熱く燃えた。
反射で引こうとしたというのに、それはごりっという音と強烈な痛みと共に完全に地面に縫い止められた。
男の絶叫が響き渡る。
「お前にそんな声を上げる資格など無いはずだ」
黒髪の騎士が自分を見下ろしている。冷厳とした目つきに、悲鳴さえも凍りついた。鳥肌が立ち、歯がカチカチと音を立てる。
「……ぁ、ぁ……ぎゃっ」
本能のまま、尻をついた状態で何とか後退ろうとするも、また別の焼付けが走った。右膝に剣が突き刺さっている。
「人の心はないのに痛覚はあるのか」
「ぅ……ぁ……」
剣を引き戻した金色の髪の騎士が皮肉を口に、魔物使いの目の前に屈んだ。
睨まれて全身を大きく震わせると、老人は残る足で地を蹴り、なんとか彼から距離を取ろうと試みる。が、足は土の表層を上滑った。
「ああ、そうか、片足では不便だな」
微笑んだ金髪の騎士は、腕を振り上げ、今度は剣の柄で左膝を皿ごと叩き砕いた。
魔物使いの絶叫以外の音が完全に断たれ、まるで何事もなかったかのように再び静まり返った森の中。
「随分と丁重な扱いだな」
金と黒の豹を思わせる二人の騎士の向こうから、更なる畏怖が届いた。魔物使いを睨んだまま、騎士たちが左右に退く。
「舌と脳だけがしばらく動けばいい」
太陽の光そのもののような髪、緑のような金のような不思議な色に輝く瞳、完璧にバランスの取れた肢体、全ての上に立つことを約束された者のみが持つことを許される傲慢な空気。そして罪あるものを断罪する怜悧な眼差し。
「……」
視界が揺らぎ出す。
「お前の雇い主も、今頃はプレビカの居城で同じ目に遭っている頃だ。公平だろう」
人を惑する完全美を持った存在が、魔物使いの目の前にやってきてゆっくりと笑った。
「とはいえ、私は寛容だ。話の如何では、お前の処遇も考慮してやろう」
残酷なまでに美しい微笑が自分へと注がれて、男は思考も恐怖も放棄してただただそれに魅入られた。
「即死か嬲り殺しか、地獄に行く前の待遇を選びたいなら、なけなしの知恵を絞ってせいぜい私の機嫌をとるといい」
「……」
耳朶を打つ美しい声に、あろうことか微かな歓喜すら湧き上がる。
「ちなみに、死罪を免れる道もある――白岩村の者たちを蘇らせられるならな」
汚物を見る以下の目線を向けられているというのに。
宝石のような瞳が逸れた。踵を返して遠ざかっていく。後を追う騎士たちによって、その背はすぐに魔物使いの視界から消える。
その瞬間、すべてを悟った。
(死ぬ、のか……、何一つ成せないまま……)
自分に残された道が一つしかないことを唐突に理解し、男は絶望と共にガクリと頭を垂れた。




