8-11.名残
「チッチチチッ、ツィーツィー」
(……ラックルだ)
久しぶりに聞く、森の小鳥の声と目の前にある温かい感触に、フィルは寝ぼけたまま微笑む。
「?」
幸せな微睡みの中、鼻腔に届いたのは自分のものではない香り。それと背に触れている腕の感触に小さく疑問が頭を掠めた。ぼんやりと目を開け……、
「っ」
薄明の中、目に映った素肌と鍛えられた胸板に露骨に動揺した。
全身を緊張に固くしながら、恐々と視線を上方に向ければ、鍛えられた首と引き締まった顎のラインが視界に入る。
「……っ」
その瞬間、昨夜の出来事を思い出して、フィルは一気に顔を赤らめた。
昨晩、今までに感じたことのない痛みと、それと同じくらい強い快感に戸惑いながら薄目を開いて見た先。炎に照らされて額に汗を浮かべ、熱に浮かされたような目でアレックスはフィルを見つめていた。視線が交わってどこか苦しそうな顔で、でも、微かに笑ってくれてキスを落としてくれて……。
思い出したその光景が恥ずかしくて、でも、なんだかちょっと嬉しい気がしなくもなくて、ますます居たたまれなくなる。
なんとか動揺を沈めようと、もう一度アレックスの胸に顔を押し付ける。
「……う」
――隔てる布がないことで、あえなく失敗した。
(こ、こういう時って、どうしたらいいんだろう……)
そわそわしつつ、アレックスを再度うかがえば、冷たく見えるほど整った端正な顔が目に入った。
いざとなれば即逃げ出せるよう身構えつつ観察すれば、規則正しい寝息が響いてくる。
(……そういえば、アレックス、朝に弱いんだったっけ)
そう思い出して、フィルはようやく息を吐き出した。
じっと彼を見つめる。まだ日が上っていないのだろう。小屋の中は薄暗く、全体に青みががって見える。
本当に青いはずの彼の目は当然ながら閉じたままだ。どう反応したらいいかわからない今、助かったと思う一方で、すぐに開いて欲しいという気持ちもある。それでいつものように優しく笑って欲しい。
(……やっぱり全然違う)
目の前の顎はすっきりしていて、鋭利な感じがする。フィルの背に回されている腕も、太いというほど太くはないのに重く感じるし、胸板だってずっと厚い。肩にも首にもちゃんと筋肉が付いていて、手だってフィルのもののよりずっと大きくて筋張っている。
(男の人、だ)
最初はよく、自分も男だったらこんな風になれてもっと強くなれたかもしれないのに、と思っていたけれど、こうしてアレックスの側にいると、自分がこうなのは自然だと思えてくるから不思議だ。
「……」
(な、なんか、い、いけないことしてる……?)
アレックスを見つめ続けているうちに、昨夜体に与えられた感覚が甦るような気がしてきて、なんだか肌がざわざわし出した。
とたんに恥ずかしくなってきて、とりあえず服を着たほうがよさそうだと、フィルはアレックスから身を離した。
「っ」
が、いきなり抱き寄せられて、再び素肌が密着してしまう。
(お、起きてる……って、それより何より恥ずかし過ぎる……っ)
「んー……」
だが、アレックスはフィルの羞恥に気付いてくれない。寝惚けたような声を出しつつ、顔をフィルの首筋に埋めてきた。
「っ」
動揺する間に、彼の手が腰を撫で上げる。それにビクリと体を震わせると、フィルは上がりそうになった声を、慌てて喉で押しとどめた。
「……あ」
だが、首筋を這い始めた唇の感触についに声を漏れる。
「っ」
(だ、誰の声、これ)
それに驚いて、急いで自分の口を手で押さえる。
駄目だ、このままこんなことをしていたら、どこかの血管が切れて死んでしまう――。
「……ア、アレックス」
「ん」
「その、放して、いただけませんか」
「嫌だ」
小声ながらようやく口にした願いは、即却下された。
頭が真っ白になってそのまま固まれば、くすっという笑い声が鼓膜を打った。
続いて耳に、頬に、額に、唇にキスが降る。優しい感触がくすぐったくて思わず身を捩る。
「おはよう、フィル」
「お、おはよう、ございます」
いつも通りのアレックスの声だ。なのに、何かが違って聞こえる。
私がどこかおかしいせいかも、と顔を俯ければ、アレックスは低い声でさらに笑う。
(な、なんかやっぱり違う……)
いつもなら安心するその音に、今度は指先まで赤く染まってしまって呻きたくなった。
「フィル、体はどうだ?」
「? 体……?」
(そういえば、違和感が……)
下半身に重さと鈍い痛みを感じ、確かめるために身動ぎして、新たな異常を発見する。
「……え、血?」
だって、月のものはまだ先の予定のはずだ。
「それは気にしなくていい。月のじゃないし、病気でも異常でもない」
困惑するフィルに、アレックスははっきり上機嫌とわかる笑顔を見せ、再び口付けを落としてきた。
「次からはもうないし……最初だけ、だ」
そうしてぎゅっと抱き締められた。
「え、ええと……」
なんだかよくわからない。
けれど、アレックスは妙に嬉しそうで、子供みたいに見える。
(……まあいいか)
惚れた弱みってこういうことをいうのかな、とちょっと思って一人また赤くなってしまった。
横たわったまま、髪を梳かれたり、頬を撫でられたりしながら、軽いキスが何度も何度も繰り返された。
「放したくないけど、すべきことがたくさんあるからな……」
小屋の戸の隙間から朝日が差し込んできたのを合図に、アレックスがため息と共に身を離した。フィルは、知らない間に詰めていた息を思わず吐き出す。
するとその音にだろうか、アレックスが少し拗ねたような表情を見せた。
(こんな顔するんだ、意外、かも……)
「……まあ、無理もさせたくないし」
目をみはるフィルに、アレックスは不機嫌を引っ込めて、意味深な笑みを浮かべた。首を傾げれば、彼は再び耳元へと口を寄せてくる。
「昨日みたいなこと。俺はもっとしたいんだが、フィルはまだつらいだろう?」
(それって……)
妙な艶を含んだ声にやはり赤面してしまって、慌ててアレックスから身を離す。
(な、ななななんか、やっぱりどこかおかしい。いや、私も大概だけど、アレックス、な、なんか、色々危ない感じが……)
「っ」
警戒を露わにしているのに、彼はそれを気にした様子もなく、再びフィルを抱き寄せようとする。
(――まずい、絶対に近寄らないほうがいい)
いつにない強引さに戦慄しつつ、フィルは慌てて彼の腕から抜け出した。
ちなみに、背後から響いてきた不満そうなため息は、聞こえないふりをした。
「多分この先に白岩村があるから、そこで馬を手に入れてタンタールの警護隊の要塞に向かおう。夕刻には着けるはずだ」
「はい。皆、きっと心配してますね」
体に残っていた違和感もそのうち気にならなくなって、フィルはアレックスと今日の予定について話をしながら、乾いた服に袖を通した。川水を吸い込んで、炎の熱で乾かされたそれは少しごわごわした。そんなシャツのボタンを留めようとして、身体中に赤い斑点が出来ているのに気付く。
「?」
川の中に何か虫でもいたのかと思い、横で同じように服を身に付けていっているアレックスの広い背を見る。
(……切り傷はあるけど、斑点はない)
その一つを撫でてみて、痒みも痛みも腫れもないことを確認する。
(それなら、あと思い当たることと言えば……あれだ。昨日の晩だ)
「……」
訊くか訊かざるか――なんとなく恥ずかしいことのような気がするし、薮蛇って言葉もあった気がする。
フィルはもう一度アレックスを横目にうかがって……訊かざるに決定した。あのおかしな空気がまた生じたら、今度こそまずい気がする。
ちなみに、これは剣士の恥、逃避じゃない。むしろ生存に不可欠なことのはずだ。ただでさえなんだか恥ずかしくて死にそうなのに、これ以上情報が増えたら、自分は今日使い物にならなくなるに違いないのだから。
曙光が木々の合間から射し込む中、フィルはアレックスと共に猟師小屋から伸びる細道を辿り始めた。
いったん服を着て小屋を出てしまえば、彼は普段どおりで――とはいっても小屋を出る前に散々キスされたけど――フィルはほっと息を吐き出した。
あんな感じのアレックスといたら、絶対に普通ではいられない。その状態で、あの異様なグリフィスに遭遇すれば、瞬殺されてしまう。
その辺も含めてフィルの方は普段通りに、とはいかなくて、彼と目を合わせるのが少しつらかったけど、それでも心地いい高原の朝の空気に少しずつ調子を取り戻した。
途中見つけたメツナの実を二人で分けて空腹を満たしつつ、小一時間ほど歩いた。
森には昨日とは変わって晴れた空から、明るい日差しが差し込んできていて、木漏れ日がきらきらと足元の地面に落ちる。
「……」
ふとアレックスへと視線を向ければ、目が合った。そのまま魅入られたように彼を見つめれば、綺麗な青を包むそれが緩やかに弧を描いて形を変える。知らず口元が綻ぶ。
本当にアレクと同じ、そう思った瞬間に何かが頭を掠めた。
『フィルっ!』
(あの声……私、あの時、)
「どうした?」
アレックスに穏やかに問いかけられて、話す内容を考えてもいないはずなのに口が開く。
(あの時、あの声を前にもって……)
「っ」
だが、風の中に異常を感じ、フィルは全神経を行く手へと振り向けた。




