8-12.残骸
「血です」
風上、辿っている小道の先から漂ってくるのは、むせ返るような血の匂いと覚えのある腐臭だった。
「――グリフィスがいる」
緊張に声を低めれば、アレックスの空気も一瞬で変わった。警戒を露わに剣を引き抜く。
(……? 新しい匂いじゃない……)
辺りに注意を払いながら進んでいけば、森の終わりが見えた。木立の向こうは、ありふれた感じの田舎の小さな集落だった。
けれど、そこは今、異様な静寂に支配されている。朝の忙しなさゆえに人々が言い合う声も、子供たちの元気な笑い声も、農作業に出る牛の鳴き声も、何一つ聞こえない。
どの家の煙突からも煙は上がっておらず、よく見れば、家の壁や窓が無残に壊されている。
「これ、は……」
村の中に足を踏み入れたフィルは、視界に入った決定的な異状に唇を引き結ぶ。
血だまりだ。地面に大きく広がって、既に赤黒く変色し、乾き始めている。周辺には、黒いドロッとした液体が散乱していて、臭気が鼻をついた。
それらの少し向こうにあるのは――千切れた人の腕と足首だ。
「……」
不気味なまでの静けさの中に漂う、害意と恐怖の名残、絶望と死の臭いに、全身が総毛立つ。
『フィル、人は人以外の生き物をとかく下等とみなしたがるがの、どの生き物も生き延びるために必要な合理性としたたかさを持っとる』
「……グリフィスに襲われたのか」
アレックスが顔を大きく歪めた。
『例えば、グリフィスはなぜ人を狙うと思う? 熊の方が人より大きいのに。鹿の方が人よりたくさん見つかるのに。人のように集団で歯向かったりせんのに』
(じゃあ、昨日、殺した三体の腹の中に入っていたのは……)
『奴らにとって、産卵に備えるにも、その後弱った体を回復させるにも、幼体の餌とするにも、柔らかく、脂肪の多い人の肉は理想なんじゃろう。つまり、危険を冒すだけの価値があると判断しておる。その証拠に秋以外の季節は滅多に襲ってこんじゃろ?』
(ひょっとしてここの……)
「っ」
そう思いついた瞬間、怖気と吐き気が込み上げてきた。
「――フィル」
「っ」
いち早く正気に戻ったらしいアレックスが、硬い声を掛けてきた。フィルはなんとか動揺を飲み込むと、剣を構え直し、警戒を再び高める。
「生存者を探すぞ」
「はい」
アレックスの厳しくも現実的な言葉に眉間をぎゅっと寄せつつ、フィルはひどい暴力で部分部分を破壊された家々へと足を向けた。
「……」
どの家にも遺体らしい遺体はなかった。けれど、逃げ切った、何もなかったなどという楽観が到底出来ないほどの血痕が床に、壁に、家具に付着している。
「……」
冷静であれ、と自分に言いきかせて体を動かしていたが、集落の中ほどにある民家で限界に達した。フィルは唇を噛みしめ、床を見つめて立ち尽くす。
木張りの床に残った赤黒い線。引きずられて付いたようなその線の起点に無慈悲に残っているのは、五指の鮮やかな手形だ。
立てこもって家人が抵抗した跡なのだろう。そこかしこに血だらけの鍬や鎌、ナイフが落ちていて、戸口の付近には、家具が乱雑に積まれていた。そこに魔物たちが執拗に攻撃したことを示す無数の爪と牙、尾と毒液の痕跡がある。
壊れた椅子の下には、血の海が広がっていて、その端に噛み切られた男性の腕が落ちていた。
(この場で……。そうでない人たちは餌として運び去られた……)
行き着いた思考に体の芯から形容し難い震えが湧きあがって、フィルはぎっと奥歯を噛み締める。
頭を冷やそうと、絶望の痕跡色濃いその家屋から外に出た。
虚しいまでに対照的に明るい光に目を馴らすと、身を屈めて今度は地面に残った魔物の足跡を調べ始める。
大きさ、歩行パターン、指の間隔、それぞれの重なり具合、地面の凹み具合――おそらくすべて「ザルアの悪魔」だ。最低でも八体いる。
ここを襲った彼らも単体ではないと断定してフィルは呻いた。
「なんでこの時期に……」
グリフィスが卵を産むのは普通秋の終わり。人を襲うのもそれに応じて晩夏から秋にかけてだとロギア爺が言っていたし、事実フィルと祖父、そして弟弟子がグリフィス狩りに駆り出されるのもいつもそれぐらいだった。
(大体なんで『ザルア』の悪魔がこんなところに、しかも『集団』でいるんだ……?)
ザルアの悪魔について語ってくれた恩師であり、友人でもある彼の話を具に思い返してみたが、答えになりそうなものが見つからない。
「フィルっ」
「っ!」
疑問に浸っていたところに、張り詰めた声で名を呼ばれた。フィルはその方向に瞬時に駆け出す。
「アレックスっ、何かありま、し……」
そうして行き着いた先。別の家屋から出てきたアレックスの腕の中で、小さな子供が二人、震えていた。女の子だ。
「……」
無言のまま、悲痛に眉をひそめて彼女たちを見つめているアレックス同様、フィルも咄嗟に言葉が出てこない。
「……」
姉妹なのだろうか。似ている気がするが、顔が埃と土、血に塗れていてよくわからない。年長の方の一人はガタガタ震えたまま、手の甲を白くして年少の方の耳を抑えている。相当痛いだろうに、そのもう一人は表情を一切失っていた。
(……この子たち、見たんだ、ここで起きたこと……)
「っ」
唐突にそう悟った。同時に叫びたくなった。なんてひどいことを、と。
だが、それを瞬時に抑えつけた。荒れてしまっている心中を子供たちに気付かれないように深呼吸する。
(しっかりしろ、それは今私がすることじゃない)
動揺で腕が震えてしまわないよう、気力を総動員すると、年長の子の強張った腕にゆっくりと添えた。そこを可能な限りそっと解して、自由になった小さい方の子を抱き上げる。胸の中に抱え込み、その背中をさすり始めた。
(――落ち着け、本当に泣き出したいのも、叫びたいのも私じゃない)
声に憤りが出ないよう、そう自分に言い聞かせながら、必死で取り繕う。
「……怖かったね。良く頑張った、えらいね」
横でアレックスが、腕の中で震えたままの年長の子を顔の高さへと抱えあげた。そして、頭を繰り返し撫でる。
「もう大丈夫だ」
目を合わせた後、少女に向けられた優しい声に、フィルまで泣きたくなる。
「うん、もう大丈夫」
幼い子の柔らかい感触と高めの体温、頭と背の小ささに胸が締め付けられた。こんな小さな子達に、なんてことが起きたのだろう。
身を屈めて顔を見られないように小さな体をぎゅっと抱きしめて、触れられる限りの場所をひたすら撫で続ける。
「……ふ……ぇ」
どれぐらいの間、そうしていただろう。フィルの胸の中で小さな嗚咽が漏れた。それが徐々に大きくなり、アレックスの腕の中にも広がる――その音量に胸が掻き毟られる。
「……」
凄まじい力でこちらへとしがみ付いてくる少女を、抱きしめ返しながらきつく下唇を噛み締めると、今は忌々しいとしか形容できない血の味が口内に漂った。




