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午後八時6


「な、な、なんなのですかこれは!?」


 そして翌朝、彼方は遥の絶叫で目を覚ます。

 その尋常ならざる様子に、彼方は慌てて跳び起きると扉をゆっくり開けて隣の部屋の様子を窺う。

 ベッドの上には寝起きのクラリーチェとエリスが座っていて、遥はそれと相対するように仁王立ちし、怒りに肩をわなわなと震わせていた。


「なんという、なんという、なんという! 三匹の子豚ですらレンガの家までは逃げ惑う慎ましさを持ち合わせていると言うのに、この雌豚共は! 卑しい! 際限なく卑しいッ!!」


 遥が掴んでいる椅子の背中がメキメキと音を立てる。

 一触即発の空気を察知し、彼方は急いで遥と二人の間に割って入った。


「は、遥! お前が想像しているようなことはない! 勘違いだ!」


 そして、これ以上遥を刺激しないように入念に言葉を選びながら事のあらましを説明していく。


「……なるほど。私が土砂降りの中を駆けずり回っていた頃、貴方達二人はお兄様のお部屋で楽しくお泊りしていたのですね」


 説明が功を奏したのか、一応の落ち着きを取り戻した遥が言う。

 最初の嫌疑は晴れたものの、実際起こった出来事も彼女にとっては承服しかねる出来事だったようだ。


「義妹さん、流石に昨日は君が想像してるような楽しいイベントは本当に何もなかったからね。ひと段落つく頃には時間も遅かったし、私も疲労困憊だったから」


 遥を刺激しないようベッドに留まっていたクラリーチェが、ベッドからゆっくりと降りながら言う。


「そうよね、私とクラリーチェで彼方さんのベッドを借りて寝ただけだわ。誰かと一緒に寝るのは新鮮ではあったけれど」


 遥が何を怒っていたのか図りかね、終始小首を傾げっぱなしだったエリスもクラリーチェに続いた。


「ぐぬぬ……エリス、それは勝者の余裕です! お兄様のベッドで寝るなど立派なイベントではないですか! ずるい! 私もお兄様の使用済みベッドで寝て、お兄様成分が多大に含まれた大気を吸い込んで幸せな眠りにつきたい!」


 遥はこの世の終わりのような表情で再度絶叫する。


「ああああ、私は多大に傷つきました。もう魔女担当大臣も七荻会長も辞めます。私も一人の女としてお兄様の御許に転がり込むことにします。雌豚、ハッ最高ではないですか!」


 遥はよろよろと彼方の前まで歩いていくと、彼方の胸にぼすんと顔を埋めて抱きついた。

 彼方はその様子にただ苦笑いする他はない。未だに尾を引いている英知の塔の後遺症でメンタル面も本調子ではないのだろう。そう無理やり納得した。否、するしかない。


「すまん遥、お前に多大な負担を掛けていることは謝る。だが、今は魔女担当大臣としてのお前の力を貸してくれないか」

「……他ならぬお兄様の頼み、協力するのはやぶさかではありません。ですが今の私には不足しているお兄様成分の大量摂取が必要なのです。もう暫くお待ちいただけませんか」

「できれば早くに頼む。二人が泊まり込んでる状況が長く続いては俺の身が持たない」

「は?」


 抱きつく遥の手に力が入り、彼方が「うぐっ」と小さくうめく。


「エリス……貴方、あの女共々お兄様の部屋に泊まり続けるつもりなのですか?」

「ええ、この事件が解決するまでは家に戻らないって決めているの」


 クラリーチェから受け取った紅茶をすすりながらエリスが答える。


「私もこの状況じゃ家に帰れないから暫くご厄介になるしかないねぇ」


 言って、クラリーチェも自らの紅茶に口をつけた。


「…………」


 エリスとクラリーチェの言葉に遥は何の返答もしない。ただ全身から迸る怒気だけがその心中を物語っていた。

 不穏な沈黙が部屋を支配すること数分、遥はゆっくりと彼方から離れると、


「よく分かりました。私の全身全霊を持って滅ぼしましょう、ロウフェラーもウィズダリアも武力で木っ端微塵です。それが一番手っ取り早い」


 凛然とした表情でそう言って、椅子の背中を握りつぶした。


「は、遥!? それは止めて欲しいわ! 距離を置いているとはいえ、ウィズダリアは私の実家なのだけれど!?」

「そうだよ、義妹さん! 君なら本当にやりかねないって思っちゃうからね!?」


 紅茶をテーブルに置いて、二人が大慌てで遥を押しとどめに入った。


「……全く、冗談に決まっているでしょう。私とてお兄様の不興を買った上に数少ない友人を失うような愚は犯しません」


 そんな様子に、遥は呆れ顔でやれやれと肩を竦めてみせた。


「ですが捨て置けないのは事実です。お兄様のお部屋にエリスやあの女が泊まり続けるなど言語道断。一刻も早く偽ファントムを倒さなければなりません」


 遥は歯を噛みしめ握り拳を震わせる。

 再び昂る遥の様子を見たエリスが慌てて台所へと向かい、リラックス効果のあるハーブティーを作りはじめる。

 不慣れな様子でハーブティーを作るエリスを見るに見かね、クラリーチェも続いて台所へと入っていく。


「……ああ、俺もそれで今回の一件は解決すると思う」

「お兄様、その口ぶりだと何か懸念が?」


 エリスから完成したハーブティーを受け取って遥がようやく椅子に腰かける。

 このハーブティーは遥が昔から好んでいる銘柄、彼方だけでなくエリスも遥の取り扱いを心得ていると言うことだ。


「クラリーチェがファントムだと疑われる限り、こんな事件は今後も起こり得ると言うことだ」

「一理あります。現状、ファントムの正体を知る者にはきつく口止めをしてありますが、お兄様がファントムと親交があるのは一部では知られたこと。となればあの女がファントムであると疑われるのは避けられぬ展開でしょう」

「だから信仰時計を止めるのと並行して、クラリーチェがファントムであると言う疑念も消しておきたい」

「そりゃそんな疑惑は消えてもらうに越したことはないよ。でもさ、実際問題どうやるつもりなの?」


 台所から戻ったクラリーチェはそう言って自らの指定席に腰掛ける。


「偽物には偽物を、だ。お前の目の前でファントムが現れ、襲ってくるウィッチを軽々と倒して見せたのなら、相手はそっちが本物だと思うだろう?」

「うぅん、下手をすれば三文芝居だけど、上手くやれば私とファントムをイコールでは結べなくなるかもしれない……かなぁ? 現状既に疑われているし、やってみる価値はあるかもね」

「でも彼方さん。その作戦にはもの凄く強いウィッチが必要だと思うのだけれど、魔女議会にそんな人が居るのかしら」


 立ったまま話を聞いていたエリスが、小首を傾げながら小さく手をあげる。


「ファントムだと相手に誤解させるようなウィッチなんて、私の目の前に居る一人だけしか知らないよ」

「クラリーチェの目の前? この場に遥とクラリーチェ以外のウィッチなんて居たかしら?」


 エリスは自らの後ろを振り返り、誰も居ないことを確認すると、再びクラリーチェの視線を確かめる。

 ようやく察したエリスは小さく自分を指差して、


「はわわわ、わ、わたしっ!? 私なのねっ!?」


 その場で思い切り飛び上がった。






 その日の夜、エリスは七荻ビルでタキシードを着せられていた。


「んー、んーっ!」


 白いシャツを着せられているエリスが、バンザイのポーズを取りながらぎこちなく手を動かす。


「動かないでエリス、動くとボタンが掛からないから!」

「既製服って不便なのね! 腰回りはこんなに余裕があるのに、胸はこんなにも窮屈だなんて」

「そう思うのなら胸だけダイエットしたらどうなのですか」

「いやいやいや、義妹さんそれ滅茶苦茶な要求だからね? 自分の胸囲(じょうしき)に他人を合わせようとしちゃ駄目だって。そもそも義妹さんの安いプライドでシャツのサイズを小さくしたのが原因でしょうに」

「くぐっ、乳牛共め……! 来るべき氷河期に備え、よくもまあここまで胸部にだけ脂肪を蓄えたものです!」


 現在三人が悪戦苦闘しているのはエリスの胸。どうやら彼女の胸は遥の見立てよりも大きく育まれていたらしい。


「……全く、三人とも俺が居ることを忘れているんじゃないか」


 つい立の向こうで背を向けた彼方が深々とため息をつく。

 ここは遥が自らの専用としている更衣室。七荻総帥と魔女担当大臣の兼任をしている遥が、その切り替えとして着替えを行う部屋だ。

 彼方としては外で待っていればいいと思うのだが、どういう訳か無理やり連れ込まれてしまっていた。


「あら、忘れていないわよ。どうかしら彼方さん、変じゃないかしら?」


 ようやく胸のボタンがかかったエリスが、つい立の向こうからひょっこりと姿を現す。


「ああ、大丈夫だ。似合ってる」


 照れくさそうに彼方が言う。

 確かにエリスの金髪にシャツの白が映え実に似合っている。……のだが、それよりも散々悪戦苦闘していた胸のボタンが今にも弾け飛びそうで気が気でない。


「良かったわ。彼方さんがそう言ってくれるならきっと大丈夫ね」


 エリスは嬉しそうにそう言うと、自らも格好を確認する為にその身をよじる。そして、その無防備な挙動がボタンに致命的な負荷を与えた。

 彼方の目の前で勢いよく胸のボタンが弾け飛び、ブラと共にその豊かな胸が露わになった。


「エリス、ボタンが飛んだぞ!」


 彼方が視線を逸らし、つい立の向こうから伸びたクラリーチェの手がエリスの手を引っ張って回収していく。


「義妹さん、やっぱりこのサイズじゃ無理があったって。私が先に選んでた方を取って来ないと」

「ええい、嫌味のように繰り返さなくとも分かっています!」


 言い争いながらクラリーチェと遥が揃って更衣室を飛び出していく。


「いつも思うのだけれど、遥とクラリーチェって仲がいいわよね」


 二人が出て行ったのを見送って、残されたエリスがのんきにそう話しかけてくる。


「あれを仲がいいと言っていいのか少し悩むんだがな」

「そうかしら? クラリーチェって割と色々隠したがるタイプだから、忌憚なく言い争いをするのは仲が良い証拠だと思うのだけれど」

「む、確かに……言われてみれば確かにそうだな」


 壁に軽く背を預けながら彼方はふむと納得する。

 長い付き合いで分かっていたことではあるが、のほほんとしつつもエリスはしっかりと他人を観察しているようだ。


「でも、本当に隠したい所は無理をして隠し続けるだろうから、彼方さんはちゃんとクラリーチェのこと注意しないとダメよ?」


 つい立から顔を出し、エリスは付け加える様にそう言った。


「ベルゼットのことだな」

「ええ、クラリーチェのお母様だって聞いて驚いたわ。本人はあくまで他人って言っているけれど、特別な関係を他人と簡単に言ってのけるのは逆に不自然よね」

「ああ、そうだな」


 彼方も同意する。

 クラリーチェの様子に一抹の不安を感じた理由は恐らくそれだ。

 例え並行世界での母親だとしても複雑な感情が入り混じって当然。それを気持ちの整理ができているとかではなく、完全に他人だから大丈夫と言ってのけるのは不自然極まりない。

 一人この世界にやって来たことに罪悪感を抱くような彼女の性格を鑑みれば尚更だ。


「だからクラリーチェが困った時は助けてあげられるよう、私達はしっかりしておきましょうね」

「それは勿論なんだが、お前とウィズダリアの方は大丈夫なのか? 俺としては同じぐらい心配なんだがな」


 むっふと意気込むエリスに、心配そうな顔をして彼方が苦言を呈する。


「大丈夫よ、そっちもちゃんと考えての行動だもの。彼方さんのお手伝いをした方が良い結果になると思ったの。ソフィアは彼方さんに似ているし」

「俺に似ている?」

「ええ、正義感強い所とか真面目な所とか」


 勿論彼方さんの方が素敵だけれど。と、はにかみながらエリスはそう付け加える。


「そうなのか……。エリス、お前の意見はちゃんとソフィア王女に言ってやったか?」

「正しいとは思わないとは言ったわ」

「多分それでは足りないな。お前の意見をもっとちゃんと言ってやった方がいい。俺に似てるならはっきり言ってやらないと反省しないぞ」


 いつもクラリーチェにされていることを思い出しながら彼方が言う。

 彼女が強引に軌道修正してくれることがいかに彼方の助けになっているか、それはちゃんと理解しているつもりだ。


「そう言うものなのかしら?」

「ああ、面倒で残念なことだが俺とよく似ているのならそうだろう」


 唇に人差し指を当てて考えるエリスに、苦笑いしながら彼方が言う。


「分かったわ。クラリーチェみたいにはいかないだろうけれど、私も頑張ってみるわ。でも、お話する前にまずは今夜頑張らないといけないのよね!」


 つい立から更に身を乗り出して意気込むエリス。

 それに合わせてつい立から下着姿の上半身が露わになった。


「おい、エリス! いきなりしっかりしていないぞ!」


 彼方は可能な限り視線を外し、エリスの両肩を持ってつい立の向こうに押し戻していく。


「ご、ごめんなさい。でも、どうせお嫁さんにして貰うのだし、私は別に彼方さんになら見られてもいいのだけれど」

「……エリス? 今クラリーチェのような人生設計プランが聞こえた気がしたんだが」

「クラリーチェのような人生設計プラン?」


 小首を傾げるエリスに、彼方が今の発言の真意を問いただそうとした丁度その時、


「エリス! その恰好でつい立から出てはいけません。発情期のようなはしたない真似はよしなさい!」

「いやいや義妹さん、その発言の方がはしたなく見えるからね」


 出て行った時と同じ調子で二人が戻って来る。

 手には先程とは別のシャツが握られている。クラリーチェの言っていたサイズ違いのシャツだろう。


「カナ君、今からエリスにタキシード着せるから話はあとでいいかな?」

「そうね、彼方さんは少しそこで待っていて欲しいわ」

「……いや、外に出て待っている。終わったら言ってくれ」


 ため息混じりに彼方が答える。この場に留まってもさっきのようなトラブルが巻き起こるだけだろう、最初からそうしておけばよかったと言う多大な後悔と共に彼方は部屋を後にした。


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