午後八時4
その日の夜、濡れた髪をドライヤーで乾かしながら、風呂上がりのクラリーチェは鏡に映る自分と睨めっこしていた。
「むー、むむむ……」
笑顔、泣き顔、拗ねた顔、おまけに怒った顔を付け足して。万華鏡のようにくるりくるりと表情を切り替えながらクラリーチェはむぅとうなる。
「カナ君は私のどの表情を見て平常じゃないと思ったのやら」
ベルゼットとの関係を説明して驚かれる事までは想定内。
だがあれほどまでの反応をされたこと、特に彼方にあんな表情と言われたことはクラリーチェの予想外だった。
平行世界のベルゼットはクラリーチェを産んですぐ命を落としている。だからベルゼットが自らの母親であったという事実しか知らない。文字だけ書かれた歴史の教科書のようなもので、まるで実感を伴わない知識だ。
並行世界とこの世界、同じ人物、同じ遺伝子でも全くの別人。それは言うなればクラリーチェがこの世界生きていくための前提。そうでなければ自分を知らない顔見知りを見る度に心は傷ついてしまうことだろう。
だからこちらのベルゼットとも赤の他人、そうでなければならない。
にも拘わらず、彼方が予感めいたものを持っていたというのなら、はたして自分はどんな表情をしていたのだろうか。
「まあ……。信仰時計とベルゼットを見たとき、私は愛されてたんだなって少しだけ思ったけど」
ウィッチの庭園は自らの深層心理を反映した形状と性質を形作る。
並行世界のベルゼットにとってもこの懐中時計は非常に大切なもので、それをクラリーチェに遺したと言う事は、間違いなく自らをを愛して自分の遺せる限りを遺してくれたと言う証なのだ。
「ま、同い年の実娘なんて向こうからしたら悪夢だもんね。そんなことより嫁力高めていかないとですよ」
クラリーチェは雑念を払うようにスキンケアしたての顔をぺちぺちと叩いて活を入れる。
共鳴機関の件で彼方に対して偉そうなことを言ったのだ。自らもそれに相応しい振舞いをしなければならない。お互いに高めあう関係を望む以上、クラリーチェも彼方に相応しいのか常に試されているのだ。
と、丁度その時、インターホンが鳴った。
「おんやぁ……まさかカナ君じゃないよね?」
狙いすましたタイミングに少しだけ胸が高鳴る。何しろここがクラリーチェの自宅だと知る者は彼方しかいない。時刻は午後八時を僅かに過ぎた所で少し遅いが来ても不思議はない。
しかし彼方は今頃自宅で共鳴機関について調べているはず、更に言えばこんな土砂降りの雨の日にわざわざ来ないだろう。
そうは分かっていてもついしてしまう淡い期待。クラリーチェは急いで身だしなみを整えて、小走りで玄関に向かう。
インターホンのカメラパネルを起動する前にまずは一呼吸、玄関に置いてある手鏡で身だしなみを最終チェック。ちゃんと人様にお見せできる身だしなみになっていることを確認し、改めてカメラパネルを起動。
「ぶふぁっ!?」
直後、思わず噴出した。
映っていたのは全身白装束の一団。昨今、B級映画でもここまであからさまに怪しい輩にはそうそうお目に掛かれまい。
「はーい、夜分遅くにこんばんはでございますよ。少し家庭訪問したいのでございますが」
「嫌です」
クラリーチェは呆れ顔で即答する。
嫌でも一発で分かってしまった、白装束の中身はベルゼットと魔法騎士団の面々に間違いない。
彼方がファントムと協力関係なのは知れ渡っている。ならば近くに居る自分がファントムとして疑われるのは道理だろう。だからそこまでは分かる。
しかし、丁寧に偽装してあるこのマンションをこうも早く割り出せたのは不可解だ。
「何故でございますかっ!? 怪しい者ではないでございますよ! お蕎麦、お蕎麦もあるでございますよ!?」
「いや、怪しいし、お蕎麦は引越しだからね。っていうかベルゼットさんでしょ中身」
クラリーチェはカメラパネルに冷たい眼差しを向けてため息をつく。
「ぎくぅ! そ、そんなことないでございますよ。愉快で楽しいハロウィン一座でございますよー」
白装束の中でぴこぴこと両手を動かすベルゼット。
「ハロウィンって……もう少しまともな言い訳しなよ。季節が真逆ですからね、もう少し頭使おっか?」
カメラの向こうで動揺の舞を踊っているベルゼットに対し、クラリーチェは少しトゲのある口調で言う。
平行世界の存在ではあるが、自らの母親と同じ存在がこんな情けないことをしているのはどうにもいたたまれない。
と、そこでクラリーチェも納得する。彼方達が心配したのも至極当然のこと、どうやら自分は無意識でこの少女との血縁を強く意識しているようだ。
「ぐぐぐ、思ったよりも毒舌家でございますね」
「いやいや、毒舌家っていうか言われるだけの格好だからね? 君、鏡で自分の姿見たら腰を抜かすよ」
「分かったもういいでございます。もうベルゼットさん舌戦で勝つのは止めにするでございますからね、覚悟するでございますよっ!」
「はあ、何をどう覚悟すればいいの? 確かにそこで騒がれるとご近所に迷惑掛かって困るけれど」
「ふふーん、そんなことより致命的でございますよ。ズバリ、貴方がファントムでございますよね!?」
カメラに向かって力強く指差すベルゼット。
やはりベルゼットは自らをファントムだと疑っている。おぼろげだった脅威が明確になったことで緩んでいたクラリーチェの思考が一気に引き締まった。
「ファントムってどの?」
だからと言って対応を変える訳にはいかない。変えてしまえば自らがファントムだと認めるようなもの、努めて表情に出さないように心がけてクラリーチェが言い返す。
「ウィッチのアレ以外にあるとでも言うでございますか? だからわざわざここまで出向いてみたでございますよ」
「それはわざわざご苦労様です。でも私はファントムじゃありませんから、そもそもウィッチですらないし」
「その割りに信仰時計の影響を受けていない様子でございますが? 今、この一帯には信仰時計が張られているのでございますよ」
「…………え?」
クラリーチェは内心で舌打ちする。昨日の勢力圏内から距離のあるここが信仰時計の影響下だとは予想していなかった。
クラリーチェの庭園は間違いなく最強。浅く広い庭園である信仰時計の影響などどう頑張っても受けるはずが無い。その影響に気がつけというのは酷な話だ。
「えーと、カナ君に習ってちょっとロッドが得意な女の子だからね。そもそも私がファントムなら君達みたいな怪しい連中は一網打尽にしちゃうから」
「おお、怖い怖い。そんなことしたら正体がばれて一生皆の人気者でございますねぇ。なんならそこで試してみるでございますか?」
「むぅ……!」
図星を突かれてクラリーチェの気勢が弱まる。一度ファントムだとばれてしまえば今回のような事件に一生つきまとわれることだろう。
彼方と出会ってあれこれ妄想した人生設計が飽くなき闘争の世界に上書きされること必至、いつも不意の襲来に怯える日々の出来上がりだ。絶対に正体はばらせない。
故にクラリーチェがファントムであろうとなかろうと、ベルゼット達が負ける心配はない。それを分かった上でベルゼットも強気に出ているのだろう。
「ちょっと、本気? それこそ本当に近所迷惑じゃない。秩序を守る側がそんなことしちゃダメでしょ」
「くーっくっくっくっのくでございますよ。ご近所さん達は迷惑でないと言っているのでございます。さあ、覚悟するがいいでございますよっ!」
ベルゼットの一方的な宣言の後、切れるカメラパネルの映像。
直後、階下でぞわりと渦巻く因果の流れ。
「うわあ最低……。本気でやるつもりだよ」
白装束の一団は武器を携えて間もなくここにやってくることだろう。抵抗の手段を封じられている以上、クラリーチェは逃げる以外の選択肢を残されていない。
クラリーチェは足元にあったサンダルを拾い上げて窓へと駆け出すと、そのまま迷いなくベランダから飛び降りた。
物理法則を制御して道路へ着地。ここまでは彼方もよくやっている、ロッドだと言い張って言い訳の効く範囲のはずだ。
「むーっ、酷い雨! どうしてこんな天気の日に限って来るかな! 酷くない!?」
風呂上りの綺麗な体を土砂降りの雨で台無しにしつつ、クラリーチェは灯りのついたままの自室を見上げて恨み節を吐く。
しかし、ぼんやり見上げている暇は無い。魔法を制限された状態でウィッチの一団を振り切らなければならないのだ。
手にしたサンダルを急いで履くと、クラリーチェは夜の街へと走り出す。
と、走り出して早々、何かに躓いてつんのめった。
「ふわっ!?」
クラリーチェはなんとか転ぶ寸前で態勢を立て直し、足元を見る。
足元にはスーツ姿の男が雨に打たれながらうずくまっていた。
「え、ええっ……」
トラブルは重なるものだと嘆息し、クラリーチェは一瞬だけ途方に暮れそうになる。
だが、考えるまでもなくやるべきことは決まっている。緊急事態の真っ只中だが急病人なら見捨てる訳にはいかない。
クラリーチェは小さく首を振って自らの弱い心を追い出すと、しゃがみこんで男に声を掛けた。
「もしもし、そこの人、大丈夫ですか?」
重篤な症状でないですように、そう心の中で祈る。
ウィッチと言えども万能ではない。生物を破壊することは容易でも、別の生物に作り替えるような魔法は総じて不可能に近い。
それでも自らの肉体ならば健常な状態に戻すことも可能だが、病気の他人を健康体に作り替えることなどは多大な困難を伴う。行うのがクラリーチェだとしても限りなく分の悪い賭けになることだろう。
「ふ、ふ、ふ……」
男はうずくまったままガタガタと震えだす。
「困ったなぁ……。どうみても大丈夫じゃないよね、この人」
この格好では補導されそうだが救急車を呼ぶために交番に駆け込むしかない。そうクラリーチェが考えたその時──
「ふぁんとむ、げっとダゼエェェェェ!」
うずくまっていた男が狂気じみた叫びと共に跳ね上がり、クラリーチェに襲い掛かった。
「ふひゃああっ!?」
突然のことに驚いたクラリーチェは思わず空間を捻じ曲げて距離を取ろうとしてしまうが、それを何とか理性で押さえつつ身を躱す。
「ぴょぴょぴょぴょむぽんぴ!」
男は飛び掛かった勢いそのままに再び濡れた道路にダイブ、間髪入れずに再び跳ね上がってクラリーチェに飛び掛かった。
「な、何これ!?」
「モケエエエエ!! まじかるたいもももォ!! だんす、だんす、だぁんす! おーけー、れっつふぃーばーたーいむ! どどどどぅ!」
男は意味不明な言葉を口走りながら打ち上げられたマグロのように飛び跳ねる。
「ふえぇっ!?」
両腕を広げて更に飛び掛かる男。
クラリーチェは男に向かってポリバケツを投げつけ、その横をすり抜けて一目散に逃げだした。
後ろからはまだ獣のような唸り声が聞こえている。恐らくあの男のものだろう。だが振り返ってそれを確かめる気など毛頭起こらない。
何とかこの恐怖から逃げようと、クラリーチェは滑りこむように十字路を曲がる。
しかし曲がった十字路の先、
「ヲヲヲヲヲヲォ! ふぁんとむウゥゥゥウ!」
「ひええっ!?」
寝巻き姿の老婆が猛ダッシュで駆けつけて来ていた。リミッターが外れているのか現役の陸上選手のような猛スピードだ。しかも白目を剥いている。
慄き一歩後退するその横では、二階の窓から這い出た少女がクラリーチェに狙いを定めていた。
「「「「おんおんおんおんおんおおんおん!」」」」
老婆の後ろには部活帰りの学生や、ビルの作業員、挙句は同じマンションの住民までも集結し、誰も彼もが獣のような咆哮と共にクラリーチェへと迫っていた。
ゾンビ映画さながらのおぞましい光景。ここまでくれば全て信仰時計の影響に間違いない。ベルゼットはこれを総動員してクラリーチェの居場所を突き止めたのだ。
「うやあああっ!? これトラウマになるからっ!?」
わらわらと襲い掛かる人の群れ。クラリーチェは右往左往しながらひたすらに逃げ回るしかなかった。




