「明日の朝」
「クゥ………?」
「起きたか。怪我の具合はどうだ?」
リシャットが肩に氷の入った袋を当てながら欄丸に訊く。
『問題ない。走るのは難しいだろうが』
「痛みがないならいいよ。俺が近くに居ればすぐ治るだろうし」
だらりと右腕の力を完全にいれずにただ押さえ続けるリシャット。
『貴様の腕は』
「俺の腕は………もう駄目かもしれない」
氷の袋を退かすと、何かの模様が黒ずんだ皮膚の上に浮かんでいる。
「あんまり使いたくなかったんだけど………魔方陣を簡略化したものでさ。傷に効くはずなんだけど」
よくみてみると模様の中心には以前撃たれた痕がくっきりと残っており、みるからに痛々しい。
「これ使っても効果があんまりない。正直、ここまで悪化してるとどうしようもないかもしれない」
目を伏せて小さく言葉を溢す。
「それに………ちょっと派手にやり過ぎちゃったし」
何かを諦めた顔をして、静かに悲しい笑みを浮かべる。
「ここ………出てくよ」
欄丸が目を見開く。
『何故だ! 出ていく意味がわからぬ!』
「……………」
欄丸はリシャットの脆く、壊れそうなガラスのような目をみる。
『………限界………なのか?』
小さく、それでいてハッキリと頭を縦に振った。
「前から言っていただろう? ………俺にはやることがあるって。少し予定より早くなってしまったけど」
目を横に向ける。自分の物を詰め込んだ鞄がすでに用意してあった。
『もう………決めたのか?』
また、小さく頷く。申し訳なさそうな表情で困ったような笑みを浮かべていた。
「俺は……本当はこの世にいてはいけないから」
ため息のような、そんな言葉だった。独り言だったのかもしれない。
「だから……ここでお別れだ。欄丸。お前はお前の好きなようにやるといい」
『ヨシフは』
「………え?」
『ミラは。リズは。キルサンは。………皆に言ったのか?』
「……言ってない。言えるはずが、ないだろ………」
欄丸はリシャットの左手に食いついた。
「いっ………!?」
『ならば我も貴様を止める。皆に言ってからでないと我はこの腕を離さぬぞ!』
「欄丸…………」
欄丸は必死にリシャットの腕を離すまいと食らいつく。リシャットは勿論本気を出せばいくらでも無理矢理逃げることは可能なのだが、それをしない。出来ない。
「やめてくれ欄丸………」
『やめてなるものか! 貴様、あれほど慕っていた家族を見捨てる気か‼』
「………違うよ。欄丸」
『なにが――――』
「俺はきっと家族にはなれていなかったから」
その言葉を聞き、欄丸が固まった。
『どういうことだ、貴様……何を言っているのかわかっておるのか』
「わかってるさ。俺はこの家に拾われて本当に嬉しかった。………楽しかった。隔たりもない、素敵な場所だ」
ハクアの家族は、確かにハクア本人の家族だ。だが、どこか他人行儀なところもほんの少しあって、人の本来の力量を軽く超越するハクアに少しだけ、距離を置いていた。
家族にはそれぞれのルールがある。そのなかで、ごくごく一般的にありうるほどの距離だ。別に不自然でもなんでもない。
だが、白亜は違った。鮮明に思い出せるのは両親が死んだ瞬間くらいでそれ以前は覚えていることさえ少ない。
だが、全く距離を置かない、仲睦まじい家庭だったことは薄ぼんやりと覚えている。
この家は、白亜の家族に似ていたのだ。
出来ることは自分でさせ、出来なければヒントを出しつつ手伝う。よく言えば懇切丁寧、悪く言えば面倒くさい家族だ。
リシャットととして暮らすなかで、何度も夢にみるあの光景を何度も今の状態と重ねてしまう。
「怖いんだ………怖いんだよ。俺が………俺が悪い気がしてしょうがない……。もう……失くすのは、怖いんだ………。俺はもう一度あの時と同じことが起こったら……自分を保てなくなる」
一粒、涙を床に落としながら途切れ途切れの言葉を繋いでそう言った。
そう。リシャットは怖かったのだ。戦場で死の間際に立っても堂々と笑える人なのだが。よくも悪くも慣れない恐怖に敏感すぎるのだ。
またあの時と同じことが起こるかもしれないという環境にいることが。
「右腕が動かないなんて………もうどうしようもないだろ。俺は俺のまま………なにも変わっちゃいない。力も無いのに唯一の頼りも使えない。どうしろって言うんだよ………」
悲痛な響きを持つ声に欄丸は何も言えなかった。
その日の晩、部屋の片付けや掃除をするリシャットを欄丸はぼんやりと見ていた。
『……いつ行くのだ?』
「明日の朝」
何でもないことのように淡々とそう言うリシャットを暫く見つめ、大きくため息をはいた。
「………なんだよ」
『…………我も行こう』
「は?」
ここに残るものだとばかり考えていたリシャットはその言葉に唖然とする。
「なんでまた………。お前はここから出る理由はないだろ」
『行くといっているのだ』
「………お前、寂しいのか?」
『なっ……!? そんなわけなかろう!』
「へぇ……」
玩具を見つけた子供のような笑みを浮かべるリシャットに牙を剥いて唸る。
『そんなわけないと言ってるではないか!』
「はいはい」
小さく笑うリシャットに不満の声をぶつけつつ、リシャットの様子をうかがう。
「でも……狼は流石に連れてけないかな……」
『? つれていく方法、あるじゃないですか』
「シアン……急に話しかけないでくれ」
『その点は申し訳ありません。ですが、つれていく方法ならいくらでもあるではないですか』
シアンがそう言うと欄丸が目を輝かせる。
『ほら! シアンもこう言っておるであろう‼』
「えー………でもあの方法は」
『良いじゃないですか。どちらにせよ子供一人だと怪しすぎます』
「そうだけど……」
【面白そうですね。私も混ぜてください】
「ややこしくなるからパスで」
【パスってなんですか!?】
リシャットは欄丸を見詰めて小さくため息をついた。
「本気でついてくる気?」
「ウォン!」
「………俺ができるのはお前を人間にするって方法だ」
「?」
「ちょっと面倒な方法だけど………その魔法自体は結構な持続力があるから問題ない」
欄丸は問題ない、とでも言いたげに首を縦に動かす。
「はぁ………わかった。お前もつれていこう。だけど言葉わかるか?」
『どういう意味だ?』
「俺が今から行こうとしてるのは日本だぞ?」
『………にほん?』




