第4話:ささやかな雪解け
バルトさんの拳と、ガワンさんの硬化した腕が、ぶつかる寸前で止まった。
止めたのは二人ではなかった。柵の向こうの音だ。
虫の声がやんでいた。
草むらを揺らす風とは違う、湿った地面を踏み砕くような重い響きが、足の裏から伝わってくる。
「……おい」
胸倉を掴んだまま、バルトさんが柵のほうへ顔を向けた。
次の瞬間、丸太の柵が内側へ弾け飛んだ。
泥を鎧のように固めた四足の中型生体兵器だった。やや短めの四肢に盛り上がった背中。口元から湾曲して生えた二本の牙。突進攻撃を多用する「猪型」だと聞いたことがある。
さっきの小さな獣とは比べものにならない威圧感。血走った目が広場を舐め、一番近くにいた二人へ、まっすぐに向かった。
まだ互いの服を掴んだままの、バルトさんとガワンさんへ。
「――どけっ!」
最初に動いたのが、どちらの手だったのかはわからない。
バルトさんがガワンさんを突き飛ばし、ガワンさんもバルトさんを突き飛ばしていた。二人の体が左右に分かれ、そのあいだを泥の塊が駆け抜ける。柵の破片が頭上を舞った。
猪は止まらない。向きを変え、立ちすくむ村の人たちの、その先にいるわたしを見た。
「おれが止める!」
ゼフが飛び出した。
風をまとった体が横腹にぶつかり、衝撃波が猪の軌道を逸らす。けれど反動に耐えきれず、ゼフの体は宙に投げ出された。
「ゼフ!」
考えるより先に、両手が地面を突いていた。
「育って――!」
踏み荒らされた畑の土から、葉と蔓が湧き上がる。柔らかな草の山がゼフを受け止めた。脇腹を押さえて呻いているけれど、生きている。
でも、猪はもう向き直っていた。
もう一度、魔力を流す。根と蔓が猪の脚に絡みついた。
だけど脆い。蔓が一本、また一本と引きちぎられていく。魔力が指先から抜け落ちていくのがわかる。
「……っ、もう、もたない……っ」
「首の付け根だ!」
怒鳴り声がした。バルトさんが地面から身を起こし、ツルハシを握り直している。
「泥が厚いが、あそこだけ硬化が薄い! ガワン、止められるか!」
「誰に言ってやがる、オッサン!」
ガワンさんが正面から飛び込んだ。活性魔術で硬くした両腕で牙を掴み、地面を削りながら押さえ込む。ぎしぎしと、何かが軋む音がした。
「今だ、小僧!」
ゼフが顔を歪めて立ち上がった。脇腹から手を離し、風を両腕に集める。
「いけぇっ!」
風の刃が泥の皮膚を裂いた。割れ目から赤黒い肉がのぞく。
そこへ、バルトさんのツルハシが深く突き刺さった。
猪は一度だけ大きく震えて、膝を折った。
しんとした広場に、荒い息だけが残った。
わたしは草の上に座り込んでいた。立とうとしても足に力が入らない。魔力が空っぽだった。
ガワンさんは左腕を押さえて顔をしかめている。バルトさんはツルハシに寄りかかって、肩で息をしていた。
「……お前の風が、呼んだんだ」
(……え?)
最初に口を開いたのは、バルトさんだった。視線の先にいるのはゼフだ。
「刺激すれば寄ってくると、あれだけ言っただろう」
ゼフが唇を噛んでうつむく。
「ひでぇ言い草だな」
ガワンさんが割って入った。
(なんで? ……だめ)
「ガキに助けられといて、よく言うぜ。あんたの古臭い知識より、そいつの風のほうがよっぽど役に立ったじゃねぇか」
「何だと。お前こそ、力任せに押さえていただけで――」
「あぁ? 押さえてなきゃ、あんたのツルハシなんざ刺さってねぇよ!」
(どうして? またなの? ……言わなきゃ、でも、怖い。――けど)
胸の奥が、ふっと熱くなった。
「いい加減にしてくださいっ!!」
自分でも驚くくらい、大きな声が出た。
バルトさんとガワンさんが、同時にこちらを見る。広場の誰もが、わたしを見ていた。
いつもなら、絶対に出さない声だ。足が震えている。それでも言葉は止まらなかった。
「ゼフが悪いのは、わたしだってわかってます。畑がだめになったのも、猪が来たのも、ゼフのせいです。ちゃんと謝らせます。でも……!」
息を吸う。
「さっき、二人で猪を止めたじゃないですか! バルトさんが弱点を教えて、ガワンさんが押さえて。わたしたちは、その手伝いをしただけです。
なのに、どうして、また喧嘩するんですか!」
誰も、何も言わなかった。
そこで初めて、お父さんとルリさんがすぐそばにいたことに気づいた。わたしが叫ばなければ、きっと二人が仲裁に入っていた。
でも、胸の奥の熱さは引かなかった。
ガワンさんが、気まずそうに視線を外した。バルトさんは握ったツルハシを見つめたまま、長いあいだ黙っていた。
「……すまん」
先に口を開いたのは、バルトさんだった。
「子供の前で、見苦しいところを見せた」
「……へっ」
ガワンさんが頭をガシガシと掻く。
「ガキに説教されるようじゃおしまいだな。……あんたの指示、悪くなかったぜ。頑固オヤジ」
「……ふん。どこか痛めてるなら診てもらえ。それぐらいは待ってやる。ゼフ、お前もだ」
それだけだった。握手も笑顔もない。
でも、二人のあいだにあった棘は、さっきより少しだけ丸くなっていた。
荒れた畑の真ん中で、エレンさんがしゃがみ込んでいた。踏みにじられた苗を、一本ずつ拾い上げている。
その前に、ゼフが立った。
「……エレンのオッサン。ごめん。おれのせいで」
深く、頭を下げた。
エレンさんは苗を見つめたまま、しばらく動かなかった。それから土を指でほぐして、小さくうなずく。
「根は、まだ生きてる」
顔を上げた。
「やり直せる。……小僧、力を見せたいなら、今度は俺の畑を手伝え。その風で、土を優しく耕す方法を覚えてみろ」
「……おう!」
ゼフの声は、ほんの少しだけ明るかった。
お母さんがわたしの肩に毛布をかけて、ルリさんが「ヒヤヒヤさせないでよ」と笑いながら頭を撫でてくれた。
お父さんは何か言いかけて、バルトさんたちのほうをちらりと見て、そのまま口を閉じた。きっと帰ったらお説教だろう。わたしは知らない。ゼフがわるい。
今は、やっとおさまった空気を壊したくないんだと思う。ルリさんもわたしの頭を撫でながら、ガワンさんたちのほうを気にしていた。
みんなが完全に仲直りしたわけじゃない。きっと明日からはまた、バルトさんとガワンさんは何かで言い合うのだろう。
でも、胸の奥の熱さは消えていなかった。
夕日に染まる柵の向こうの密林を、わたしはゼフと並んで眺めていた。魔力の抜けた指先は、まだ少し震えている。
その手を、お兄ちゃんが黙って握ってくれた。




