第二章 第16話 後編 ねね先生、台所は天下を映す』
外野の嫌がらせと信長の理不尽な圧力を、光秀の悪知恵と左近の勢い、ケロタンの珍妙な技でひっくり返す!
……だが、おもてなしが成功に近づくにつれ、光秀の瞳には異様な光が宿り始める。
「天下の行く末のため……上様、敢えて怒っていただきましょう」
光秀の胸に秘められた、あまりに切なく、壮大な深慮遠謀とは——?
歴史の結末が哀しいからこそ、今は思いきり笑い飛ばす!
史実のリアルと食文化の深掘りに、光秀の覚悟、そしてテンポ抜群の喜劇を掛け合わせた、命がけの過剰接待サイココメディ開幕!
【第二章 第16話 後編】
『ねね先生、台所は天下を映す』
左近がようやく大根を抱えて戻ってきた頃には、市場中が笑いに包まれていた。
「捕まえたぞ……。」
肩で息をする左近に、野菜売りの老婆が笑う。
「その大根も、逃げたかったんじゃろう。」
市場はどっと沸いた。
左近は耳まで赤くなる。
「……大根にまで逃げられるとは。」
光秀は肩を震わせながら言った。
「戦では百人を追い詰める男が、大根一つに翻弄されるとはな。」
ケロタンは、いつの間にか帳面を広げていた。
「左近殿。大根一、本。逃走距離、およそ二町。」
「記録するな!」
再び笑いが起こる。
◇
ねねは魚屋の前で足を止めた。
「この鮎、きれいですね。」
魚屋は胸を張る。
「今朝、琵琶湖で揚がったばかりでございます。」
ねねは鮎を一尾手に取り、静かに言った。
「ご馳走だから高いものを選ぶのではありません。その日に一番良いものを選ぶのです。」
光秀はその言葉を書き留める。
「……その日に一番良いもの。」
「季節には勝てません。」
ねねは微笑む。
「季節を味方につければ、お客様は自然と笑顔になります。」
弥助が頷く。
「旬は、天下共通。」
光秀は大きく息を吐いた。
饗応とは、豪華さではない。
客に季節を贈ることなのだ。
◇
一行は米屋、味噌屋、豆腐屋と歩いた。
ねねは高価な品よりも、香りや手触りを確かめる。
「この味噌は香りが若いですね。」
「こちらの豆腐は水が良い。」
「この米は今年の日照りをよく耐えています。」
店主たちは驚いた。
「さすが北政所様……。」
光秀は感心する。
「ねね様は、台所で天下を見ておられる。」
「いいえ。」
ねねは首を振った。
「暮らしを見ているだけです。」
◇
夕暮れ。
西日に染まる安土城は、黄金色から朱へと姿を変えていた。
城は一日の喧騒を静かに受け止めるように、琵琶湖を見つめている。
光秀たちは今日集めた品々を前に並んだ。
豪華な珍味はない。
しかし、どれも季節の息吹を宿している。
「これなら、家康様も安心して箸を伸ばされるでしょう。」
ねねは穏やかに笑った。
光秀は深く頭を下げる。
「今日、一番学んだのは料理ではありません。」
「ほう?」
「客の心を迎えるということでした。」
ねねは少し照れたように笑い、城の方を見上げた。
「おもてなしは、相手を思うこと。
それだけで十分なのですよ。」
その言葉に、四人は静かに頷いた。
夏の風が天守を撫でる。
遠くで、暮れ六つの鐘が響いた。
その音を聞きながら、一人の男が安土城へ向かって歩いていた。
粗末な衣。
竹の杖。
小さな茶入を抱えた老人。
誰も気づかない。
しかし、その一歩が、この饗応大作戦に新たな静けさをもたらそうとしていた。
――千利休、安土へ。
後書き:筆者の想いに寄せて
なぜ島左近なのか。なぜケロヨンなのか。
それは、左近の持つ「武人の潔さ」と、ケロヨンの持つ「健やかな日常の象徴」が合わさった時、初めて信長の「死の気配」に対抗できると考えたからです。
店頭で雨の日も風の日も立ち続けるあのカエルのように、ケロヨンは安土の激動をケロリと見過ごし、左近は主君のために地獄の釜を焚き続ける。
この二人がいたからこそ、光秀は本能寺という「最後の配膳」まで走り抜けることができました。歴史という名の厳しい「処方箋」を、少しでも楽しく、そして美味しく書き換えたい。そんな願いを込めた主役抜擢でございました。




