第六話 「理解ある妻」
第六話 「理解ある妻」
朝の光が、薄いレースカーテン越しに静かに差し込んでいた。
キッチンにはコーヒーの香りが広がっている。
フライパンの上ではベーコンがじゅうじゅうと音を立て、半熟の目玉焼きの黄身がとろりと揺れていた。
凛子は白いブラウスの袖を軽く折り返しながら、トーストを皿へ並べる。
マーガリンではなく、拓也が好きな少し高めの発酵バターを添えた。
以前と変わらない朝。
少なくとも、拓也にはそう見えていた。
「お、今日豪華じゃん」
寝癖のついたままリビングへ入ってきた拓也が笑う。
グレーのスウェット姿のまま、椅子へ座った。
「なんかいいことあった?」
「別に」
凛子はコーヒーを置く。
湯気がふわりと立ち上る。
拓也は上機嫌でトーストをかじった。
「うま」
その顔を見ながら、凛子は静かに思う。
——この人は、本当に何も気づいていない。
以前なら、真央の話題が出るたび空気が張り詰めていた。
凛子が黙り込み、拓也が苛立つ。
そんな夜が続いていた。
けれど最近、凛子は何も言わなくなった。
「今日さ、真央のとこ寄ってくる」
拓也がスマホを見ながら言う。
以前なら胸が痛んだ言葉。
けれど今は違った。
「そうなんだ」
凛子は淡々と返す。
拓也が少し驚いた顔をする。
「……怒らないの?」
「なんで?」
「いや」
拓也はどこか安心したように笑った。
「やっとわかってくれたんだなって」
凛子は微笑みもしなかった。
ただ紅茶へミルクを注ぐ。
白い液体がゆっくり広がり、琥珀色を淡く変えていく。
——わかったのではない。
——諦めただけだ。
その違いに、拓也は一生気づかない。
拓也が出勤した後、凛子は静かにノートパソコンを開いた。
テーブルには整然と書類が並んでいる。
銀行口座。
保険。
証券。
共有財産。
以前なら“夫婦のお金”として見ていたものを、今は冷静に分類していく。
数字を追うたび、頭が静かに冴えていった。
昼前、一本の電話が入る。
「朝倉さん、ぜひ正式にお願いしたいと思っています」
先日の面接先だった。
凛子は窓際へ歩きながら返事をする。
「ありがとうございます」
『条件面もかなり優遇できますので』
「助かります」
通話を終えた後、凛子はしばらく空を見上げた。
冬の近づいた空は高く、薄い雲がゆっくり流れている。
嬉しい、と思った。
けれどそれ以上に、安心していた。
もう、この家だけに依存しなくていい。
その事実が何より大きかった。
午後になると、凛子は不動産会社へ向かった。
駅から少し離れた住宅街。
小さなマンションの一室。
白い壁と木目の床だけのシンプルな部屋だった。
「お一人なら十分住みやすいですよ」
担当の女性が笑う。
南向きの窓から、柔らかな陽が入っている。
凛子は部屋の中央へ立った。
静かだった。
誰の機嫌も気にしなくていい空間。
夜中に突然、別の女のために夫が出ていくこともない空間。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
「ここにします」
凛子は静かに言った。
夕方、スーパーへ寄る。
鮮魚コーナーでは秋刀魚が並び、焼きたてのパンの匂いが漂っている。
凛子はカゴへ食材を入れながら、ふと思う。
昔の自分は、いつも拓也の好みに合わせていた。
肉じゃが。
唐揚げ。
クリームシチュー。
拓也が好きなものを中心に献立を考えていた。
でも今日は、自分が食べたいものだけを選んだ。
湯豆腐。
きのこ。
春菊。
小さな変化だった。
けれど、その小ささが妙に心地よかった。
夜九時過ぎ。
拓也が帰宅する。
「ただいまー」
少し酒の匂いがした。
コートを脱ぎながら、拓也は笑う。
「今日さ、真央めっちゃ元気だった」
「そう」
「最近安定してきたっぽい」
凛子は鍋の火を弱めながら頷く。
湯気の向こうで、拓也が不思議そうな顔をした。
「ほんと最近変わったな」
「何が?」
「前はもっと嫌そうだったじゃん」
凛子は小皿へポン酢を注ぐ。
柑橘の香りがふわりと広がった。
「慣れたのかも」
拓也は笑った。
「そっか。ありがとな」
その言葉に、凛子は一瞬だけ目を伏せる。
——ありがとう。
以前なら、その言葉が欲しかった。
自分を理解してほしかった。
選んでほしかった。
でももう違う。
拓也が今感謝しているのは、“我慢する妻”に戻った凛子だ。
都合の良い妻。
何も言わない妻。
自分を最優先にしない妻。
食事中、拓也は楽しそうに話し続けた。
会社の愚痴。
部下の失敗。
真央の転職話。
凛子は静かに相槌を打つ。
怒りはなかった。
嫉妬も。
ただ、遠かった。
向かいに座る男が、もう他人みたいに見える。
食後、拓也が風呂へ入っている間。
凛子は静かに封筒を開いた。
中には弁護士事務所の名刺と、整理済みの資料が入っている。
慰謝料。
共有財産。
別居準備。
必要書類。
すべて整い始めていた。
その時、浴室から拓也の鼻歌が聞こえてくる。
随分機嫌がいい。
きっと安心しているのだ。
夫婦関係は修復された、と。
凛子が理解した、と。
だが違う。
凛子はもう、拓也を“夫”として見ていなかった。
切り捨てる相手として、静かに整理しているだけだった。
窓の外では、冬の風が木々を揺らしている。
凛子は温くなったお茶を一口飲み、静かに目を閉じた。
盤面は、もうほとんど整っていた。




