第五話 「盤面整理」
第五話 「盤面整理」
雨上がりの夜だった。
窓ガラスを流れていた水滴は止み、街のネオンだけが静かに滲んでいる。
リビングにはテレビの音が流れていたが、凛子はほとんど聞いていなかった。
ソファの向こうでは、拓也が缶ビールを片手にバラエティ番組を見て笑っている。
「うわ、こいつマジか」
呑気な声だった。
凛子はダイニングテーブルに座り、湯気の消えかけた紅茶を見つめる。
紅茶の表面には、窓の灯りが小さく揺れていた。
——息が詰まる。
あの日、拓也に言われた言葉がまだ胸の奥へ沈んでいる。
けれど不思議なことに、もう涙は出なかった。
悲しいのに。
苦しいのに。
心だけが妙に静かだった。
「凛子?」
拓也が振り返る。
「聞いてる?」
「……なに?」
「来週さ、真央の誕生日なんだけど」
凛子は無言で顔を上げた。
拓也は悪びれもなく続ける。
「ちょっと店予約したいんだけど、どこがいいと思う?」
その瞬間、凛子の中で何かが完全に切れた。
音もなく。
感情もなく。
ただ、静かに。
「ああ、そう」
自分でも驚くほど平坦な声だった。
拓也は気づかない。
その言葉が、“諦め”だったことに。
「お前も来る?」
「行かない」
「なんで?」
「仕事あるから」
拓也は「そっか」とだけ言って、またテレビへ視線を戻した。
もうこちらを見ようともしない。
凛子は静かに立ち上がる。
「先に寝るね」
「おう」
寝室へ入ると、凛子はドアを閉め、そのままベッドへ腰を下ろした。
部屋は暗い。
遠くでテレビの笑い声だけが響いている。
凛子はゆっくり深呼吸した。
そして、スマートフォンを手に取る。
連絡先を開き、ある名前を探した。
——冴島 恒一。
以前勤めていた会社で、直属の上司だった男。
財務と法務の境界を歩くような人間で、“数字で会社を守る人”と呼ばれていた。
凛子は短くメッセージを送る。
『お久しぶりです。少し相談したいことがあります』
送信して数分後。
すぐ返信が来た。
『明日、時間を作れる』
凛子は画面を見つめる。
その瞬間だった。
自分の中で、何かがゆっくり動き始める。
翌日。
都内のホテルラウンジ。
落ち着いたジャズが流れる空間には、コーヒーの香ばしい香りが漂っていた。
凛子は黒のタートルネックにアイボリーのロングスカートというシンプルな服装だった。
以前より化粧も薄い。
けれど冴島は一目見て言った。
「顔つきが変わったな」
低く落ち着いた声だった。
グレーのスーツを着た冴島は、相変わらず隙のない男だった。
凛子は苦く笑う。
「そうですか?」
「前はまだ“迷ってる顔”だった」
ウェイターがコーヒーを置いていく。
深い香りが立ち上る。
冴島はブラックを一口飲み、静かに言った。
「で、離婚か?」
凛子は驚かなかった。
この人は昔から、人の感情の変化を見るのが異常に鋭かった。
「……まだ決めてません」
「嘘だな」
即答だった。
凛子は視線を落とす。
冴島が続ける。
「お前は“まだ好きだから苦しい”段階をもう越えてる」
静かな言葉だった。
けれど核心だった。
凛子はしばらく黙っていた。
窓の外では、小雨がまた降り始めている。
「証拠を集めたいんです」
ようやく絞り出した声に、冴島はわずかに目を細めた。
「なるほど」
「感情論じゃなく」
凛子は顔を上げる。
「ちゃんと、現実を見せたい」
冴島は小さく笑った。
「やっと戻ってきたな」
「……え?」
「朝倉凛子って人間が」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れる。
昔の凛子は、数字に強かった。
感情ではなく事実を見る人間だった。
誤差。
流れ。
不自然な動き。
数字は必ず、人間の本性を映す。
帰宅後、凛子は静かに調査を始めた。
拓也は気づかない。
自分の妻が、かつてどれだけ数字を扱ってきた人間かを。
深夜一時。
リビングにはデスクライトだけが灯っていた。
ノートパソコンの青白い光が、凛子の横顔を照らしている。
拓也は寝室で眠っていた。
規則正しい寝息が遠くから聞こえる。
凛子はクレジット明細を開いた。
ホテル。
レストラン。
ギフトショップ。
見覚えのない支出。
最初は小さな違和感だった。
けれど並べていくと、線になる。
真央の誕生日付近。
温泉旅行の日。
深夜のタクシー代。
不自然な経費。
凛子の指先は止まらない。
感情はもう邪魔だった。
代わりに頭が冴えていく。
「……そういうこと」
小さく呟く。
共有口座から、真央関連へ流れている金額。
想像以上だった。
拓也はきっと、悪気なく使っている。
“困ってるから”。
“助けたいから”。
そんな言い訳で。
けれど数字は残酷だ。
どんな言い訳も、履歴として積み上がる。
凛子はエクセルへ淡々と入力していく。
日付。
金額。
用途。
関連性。
そして気づく。
拓也は、自分がどれほど無防備か理解していない。
信じ切っているのだ。
凛子がずっと“耐える側”だと。
絶対に壊れない側だと。
その時、背後で声がした。
「……なにしてんの?」
振り返ると、拓也が眠そうな顔で立っていた。
スウェット姿のまま、目を擦っている。
凛子はノートパソコンを閉じた。
「家計整理」
「こんな時間に?」
「眠れなくて」
拓也は欠伸をしながら冷蔵庫を開ける。
「真面目だなぁ」
呑気に笑った。
その無防備さに、凛子は静かに目を細める。
拓也は知らない。
自分が今、崖の縁へ立っていることを。
そして。
目の前にいる女が。
“数字で人を殺せる側の人間”だということを。




