第三話 「冷たい女」
第三話 「冷たい女」
朝の空気は少し湿っていて、六月の匂いがしていた。
鏡の前で、凛子は小さく息を吐く。
淡いグレージュのブラウスに、ネイビーのタイトスカート。髪は低い位置でまとめ、細いゴールドのピアスをつけた。
久しぶりの面接だった。
以前勤めていた大手企業の関連会社。財務部門の即戦力募集で、ここまで三次面接まで進んでいる。
今日が最終だった。
テーブルの上には、昨夜何度も確認した書類が揃っている。
職務経歴書。
資格証明。
ポートフォリオ。
そして、小さな革の名刺入れ。
凛子はそれを見つめながら、静かに胸へ手を当てた。
緊張している。
でも同時に、少しだけ嬉しかった。
結婚してから、凛子は自分のキャリアを縮小してきた。拓也の帰宅時間に合わせ、転勤の可能性を考え、家庭を優先して働き方を変えてきた。
それが悪いとは思っていない。
好きで選んだことだ。
けれど最近、ふと思うのだ。
自分は何を残しているんだろう、と。
「お、今日それ着るんだ」
リビングへ出ると、拓也がコーヒーを飲みながら言った。
白いワイシャツの袖をまくり、ニュースアプリを眺めている。
「面接だし」
「いいじゃん。めっちゃ仕事できそう」
軽い口調だった。
でも凛子は、その言葉が少し嬉しかった。
「ありがとう」
「受かるといいな」
拓也はクロワッサンをかじる。
バターの香りが部屋に広がった。
凛子はキッチンでスクランブルエッグを皿へ移しながら言う。
「終わったら連絡するね」
「おう。夜なんか食いに行く?」
「え?」
「最終面接祝い。まだ受かってないけど」
凛子は思わず笑った。
「気が早い」
「でもお前なら大丈夫だろ」
その言葉が嬉しくて、胸が少し温かくなる。
本当は、こういう普通の会話がしたかっただけなのかもしれない。
穏やかな夫婦の時間。
誰かに邪魔されない時間。
それだけでよかったのに。
面接会場へ向かう電車の中、凛子は何度も資料を確認していた。
車窓に流れる曇り空。
吊り革を握る手に、少し汗が滲む。
最寄り駅へ着いた頃、スマートフォンが震えた。
拓也からだった。
「もしもし?」
『凛子、ごめん』
その声を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
「どうしたの?」
『真央がトラブルに巻き込まれたっぽくて』
凛子は足を止める。
駅前のロータリーではタクシーが何台も行き交っていた。
「……トラブル?」
『なんか変な男につきまとわれてるみたいで、今かなりパニックで』
凛子は黙る。
拓也が続ける。
『俺、ちょっと行ってくる』
「今日、私……」
言いかけて止まる。
最終面接だ。
今日だけは応援してほしかった。
終わった後、ちゃんと話を聞いてほしかった。
「……そっか」
それしか言えなかった。
『ごめんな。終わったら連絡して』
通話が切れる。
駅前の風が、やけに冷たく感じた。
面接自体はうまくいった。
数字分析の説明も、財務改善案のプレゼンも手応えがあった。
役員面接官の反応も良かった。
「朝倉さんほど経験値がある方は貴重です」
「ぜひ前向きに検討したい」
そう言われた時、本来なら嬉しいはずだった。
けれど胸の奥は妙に空っぽで、凛子はうまく笑えなかった。
帰り道、駅ビルのカフェへ入った。
窓際の席で、一人カフェラテを飲む。
ふわりとした泡が唇につく。
周囲では学生たちが笑い合い、買い物帰りらしい女性たちが紙袋を抱えて歩いている。
その時、スマートフォンが震えた。
友人の由香からだった。
『今これ、凛子の旦那じゃない?』
添付された写真を開いた瞬間、呼吸が止まった。
湯気の立つ露天風呂。
赤い提灯。
温泉街の石畳。
そして、その中央で笑っている拓也と真央。
真央は白いニットワンピースにカーディガンを羽織り、拓也の腕に軽く触れている。
二人とも、まるで恋人みたいな顔をしていた。
凛子の指先が冷える。
頭の中が真っ白になった。
——トラブル?
——つきまとい?
これが?
喉の奥が苦くなる。
凛子はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。
帰宅したのは夜十時過ぎだった。
部屋の灯りはついている。
拓也はソファでくつろぎながらテレビを見ていた。
「あ、おかえり」
その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かがざらりと擦れた。
凛子は黙ってバッグを置く。
「面接どうだった?」
「……普通」
「そっか。受かるといいな」
拓也は何も知らない顔をしている。
凛子はゆっくりスマホを取り出した。
「これ、何?」
写真を見せる。
拓也の顔が固まった。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけだった。
けれど凛子は見逃さなかった。
「……誰から?」
「答えて」
拓也は小さく舌打ちした。
「だから、真央が落ち込んでたから気分転換に連れてっただけだよ」
「温泉に?」
「悪い?」
凛子は震える声で言った。
「今日、私の最終面接だった」
「だから?」
その言葉に、息が止まる。
拓也は立ち上がった。
「困ってる人を助けて何が悪いんだよ」
「それ、本当に“助ける”だけ?」
「は?」
空気が張り詰める。
凛子は唇を噛んだ。
「夫婦より優先すること?」
その瞬間、拓也の表情が変わった。
苛立った顔だった。
「お前さ」
低い声。
「ほんと冷たいよな」
凛子は目を見開く。
「真央、メンタル不安定なんだよ? 放っとけるわけないだろ」
「私は?」
「またそれ?」
拓也は呆れたように笑う。
「お前、自分のことばっかだな」
その言葉が、胸の奥へ深く沈んでいく。
静かに。
ゆっくりと。
「お前って本当に冷たい女だよ」
凛子は何も言えなかった。
怒鳴る気にもなれない。
悲しいのに、涙も出ない。
ただ、胸の奥で何かが壊れる音だけがした。
それはきっと、小さな音だった。
けれど一度壊れたものは、もう元には戻らない。
テレビの笑い声が、やけに遠く聞こえた。




