第一話 「ただの幼馴染だから」
第一話 「ただの幼馴染だから」
グラスの中で、琥珀色の白ワインが静かに揺れていた。
窓の外には、雨に濡れた東京の夜景が広がっている。高層階のレストランから見下ろす街は宝石箱みたいにきらめいていて、車のライトがゆっくりと川のように流れていた。
凛子はそっとフォークを置いた。
目の前では、湯気をまとった真鯛のポワレが香草バターの匂いを漂わせている。白い皿に散らされた鮮やかなソースは絵画みたいに美しかった。
けれど、料理を口に運ぶ気にはなれなかった。
「なあ凛子」
向かいに座る拓也が笑う。
「ここ、予約取るの大変だったんだぞ?」
「……うん。ありがとう」
凛子も微笑み返す。
黒のシンプルなワンピースに、細いパールのネックレス。結婚記念日だから少しだけ丁寧に化粧をした。拓也も珍しくネイビーのジャケットを着ていて、いつもより少しだけ大人っぽく見える。
本当なら、幸せな夜になるはずだった。
結婚して三年目。
最近は仕事ですれ違うことも増えたけれど、それでも今日は久しぶりに二人でゆっくり過ごせると思っていた。
「来年は旅行でも行く?」
拓也がパンをちぎりながら言う。
「温泉とかさ。お前好きだろ」
「そうだね」
答えながら、凛子は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
こういう瞬間だけ見ると、拓也は優しい夫なのだ。
人当たりが良くて、面倒見も良い。
困っている人を放っておけない。
だからこそ——。
その時だった。
テーブルの上で、スマートフォンが震えた。
拓也が画面を見る。
その瞬間、彼の表情が変わった。
「……真央?」
凛子の指先が止まる。
拓也はすぐ電話を取った。
「もしもし? どうした」
受話口の向こうから、女の甘えた声が微かに漏れる。
『ごめん拓也……ちょっと怖くて……』
その声を聞いた瞬間、拓也は椅子を引いた。
「え? 今? 大丈夫なのか?」
凛子は黙って拓也を見上げる。
拓也は困ったように眉を下げた。
「凛子、ごめん。真央がちょっとヤバそう」
「……また?」
思わず口から漏れた。
拓也がわずかに顔をしかめる。
「またってなんだよ」
「今日は結婚記念日だよ」
「わかってる。でも真央、一人なんだって」
凛子は何も言えなくなった。
店内には静かなピアノの音楽が流れている。隣の席では、恋人同士らしい男女が小さく笑い合っていた。
ガラス窓に映る自分の顔が、少しだけ強張って見えた。
「すぐ戻るから」
拓也はコートを掴み、慌ただしく立ち上がる。
「料理冷める前に戻るって」
「……うん」
そう答えるしかなかった。
拓也は申し訳程度に片手を上げ、そのまま店を出ていった。
冷たい外気がドアの隙間から流れ込み、凛子の足元を撫でる。
静かになった席に、一人だけ取り残された。
数分経てば戻ると思っていた。
けれど、十分経っても、三十分経っても、拓也は戻ってこない。
真鯛のポワレは冷え、ソースの艶も消えた。
ウェイターが気まずそうに声をかけてくる。
「お連れ様は……」
「……少し遅れているみたいです」
凛子は無理に笑った。
グラスのワインを口に含む。
冷たい液体が喉を滑っていく。
でも味なんてわからなかった。
スマホを見る。
メッセージはない。
時計の針だけが進んでいく。
周囲の客たちは次々と帰っていった。
食器の触れ合う音。
遠くの笑い声。
コーヒーの香り。
窓を打つ雨音。
全部が、自分だけ置き去りにして流れていくみたいだった。
閉店時間が近づいた頃、ようやく凛子のスマホが震えた。
『ごめん、今日は戻れない』
短い一文だけ。
凛子はしばらく画面を見つめていた。
それから静かに会計を済ませ、店を出た。
夜風は冷たかった。
細いヒールが濡れた石畳を鳴らす。
街は賑やかなのに、自分だけ透明人間になったみたいだった。
タクシーの窓から流れる夜景を見ながら、凛子はぼんやり考える。
まただ。
いつもそうだ。
真央が泣けば、拓也はそちらへ行く。
真央が困れば、拓也は自分を後回しにする。
「幼馴染だから」
その言葉ひとつで。
帰宅したのは、深夜一時を過ぎた頃だった。
部屋の中は暗く、静まり返っている。
凛子はアクセサリーを外し、ソファに腰を下ろした。
ドレスの裾に、レストランで零れたワインの染みが小さく残っている。
ぼんやりそれを見つめていると、玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
酒の匂いをまとった拓也が入ってくる。
「……おかえり」
拓也はネクタイを緩めながら言った。
「悪かったって。でも真央マジで情緒不安定だったんだよ」
凛子は何も答えない。
拓也は冷蔵庫を開け、水を飲みながら続けた。
「お前もさ、少し考えてやれよ」
「……何を?」
「真央、昔から一人で抱え込むタイプなんだよ。放っとけないだろ」
凛子の胸の奥が、じわりと痛んだ。
「私は?」
「は?」
「私は放っておいていいの?」
拓也が面倒そうに息を吐く。
「だから、なんでそうなるんだよ」
そして、呆れたように笑った。
「ただの幼馴染だろ? 嫉妬しすぎ」
その瞬間だった。
胸の奥で、小さく何かがひび割れる音がした。
大きな音じゃない。
本当に小さな、小さな亀裂。
けれど一度入ったひびは、もう元には戻らない。
凛子は静かに目を伏せた。
窓の外では、まだ雨が降り続いていた。




