王宮の夜
「テレーヌおひさしぶり」
「会いたかったわファム」
パラシュラーマの女王、メファーレネート・スティグム・ミスカテュエールは、親友であるクールマ国王后テレーネパース・サファリアヌスとしっかり抱きあった。ファムはテレーヌのふくよかな二の腕の感触をたっぷり楽しみつくすまで、彼女を離さなかった。
談話室には先客のナラシンハ国王夫妻、トンピュード・アンクレイン・トラッサムとアムネム・トラッサムが居て、眼前で繰り広げられている壮大な二国間の抱擁を目を細めて眺めている。
ファムがテレーヌをようやく開放したときに、扉を開けて現れたのが、執権のドライスターム侯爵である。
「これは、みなさん、お揃いで」
「揃ってなどいやしないわよ」ファムはクーンに言った「テレーヌの夫はしょうがないとして、ウチの野蛮人はどこに行ったの?」
クーンと呼ばれたドライスターム侯爵は、女王に執権としての不手際を攻められたものと解釈して応対した。
「国王陛下は明日の武術大会の御支度に余念なく」
「また、狩りなのね」ファムはため息をついた「どうして、あの人には市場で肉を買ってくるという発想ができないのかしら」
「まあ、そういうな、ファム」トラッサム王、トラスは女王をなだめた「そのパットのおかげで、あの苦しい旅の最中も腹を減らさずにすんだんだ。旅の楽しみとしての食事はテレーヌのおかげだが、材料調達には役に立った」
そうね、とネムも自分の夫に相槌を打った。
パラシュラーマ、クールマ、ナラシンハの三大国は、あわせると実にラーマ大陸の八割を占める。さしずめこの部屋の状態はラーマの実権そのものと言っても過言ではなかったが、より一般的には、『裂け目の塞ぎ』の英雄が一同に会したと言うほうがとおりが良い。
パラシュラーマ謁見の儀の前後に、彼らが集まるのはいつのまにかしきたりのようになっていた。パラシュラーマが、クールマとナラシンハの間にあって地理的に都合が良い、というのも理由のひとつであったし、パット、ファム、クーン、トピーがラスロート城にいるので、他の四人が集まるほうが楽だ、ということもあった。
それぞれの子らが小さいときには、この談話室で遊ばせて、互いに友人の子供の成長ぶりに目を見はらせたり、密かに我が子の優劣を心の内に喜ばせていたりもしたが、その子らももう成人である。親の後追いをする時期はとうにすぎ、ほどよく年を経たかつての英雄たちは、主に昔話をしながら、ときおり思い出したように国事を片付ける、それがここ数年の慣わしになっていた。
「トピーはどうしたの?」テレーヌはそのマシュマロのようにふかふかした肢体をソファに沈めると、ファムにたずねた。
「あら、ほんとだわ。どうしたのかしら? いつもなら真っ先に飛んでくるハズなのに」
「私が呼んでこよう」クーンは入ってきたばかりの扉を押す。クーンはトピーが部屋から出てこない理由を知っていたが、ここで詳らかにするのは、トピーのためにも、ファムのためにもよくないと思った。
さんざ泣きはらし、いつの間にか椅子でうたた寝をしていたトピーは、部屋の扉を叩く音に目を覚ました。
「どなた?」
「トピー、私だが」
まあ、クーン、飛び起きたトピーは、ランプを灯し、やにわ化粧台の前に立つと自分の顔を確認した。
「ごめんなさい、少しだけ、待っていただけるかしら?」
扉の向こうにそう叫びつつ、トピーは大急ぎで化粧を直しはじめた。どうにか遠目ならごまかせる程度に取り繕って、扉の前に行くと、細く、自分の半身がかろうじて見えるほどに扉を開けた。
「どうかして?」
「テレーヌが来たよ」クーンはなるべく扉のすき間を覗き込まないようにしながら話した「トラスたちはもうだいぶ前についた。みんな談話室で待っている」
「まあ」
トピーは驚いて声を上げたが、もうランプが必要なほどの暗さなのである。そろそろ晩餐の時刻であれば、皆が揃っているのは当然だった。
「ごめんなさい、うたた寝してしまったみたい、みんなにすぐ行くとお伝えくださる?」
「わかった。伝えておくよ。その、あまり急がなくてもいいよ。トピー」
「ありがとう、クーン」
トピーは扉を閉めた。殿方はともかく、ファムやテレーヌ、ネムの前では間に合わせの化粧でバレないはずがない。まずは洗面台でいったん化粧を良く落としてから、ランプの数を増やして、化粧台の前に座って、トピーは念入りに身支度を整えはじめた。
「カレッタ、カレッタはいる?」
ファムはカレッタの部屋の扉を叩く。
「もう寝たのかしら?」
王妃はこっそり扉を開けると真っ暗な部屋の中に足を踏み入れた。
「カレッタ、カレッタ」
娘の名を呼びながら部屋の中を歩き回るファムは浴室からシャワーの音を聞いた。
「カレッタ」
浴室に向かって、ひときわ大きな声で叫ぶと、カレッタが、ひょいと浴室から顔を出した。
「母上、どうかされましたか?」
「こんな時間にシャワーなの?」
「はあ、まあ」
娘のあいまいな返事に、まあいいわ、と母はさして追い撃ちはしなかった。
「テレーヌが来てるわ、トラスたちもよ。ご挨拶なさい」
「わかりました」
「ああ、ちゃんと服は着るのよ。カレッタ」
「いくら私でも、裸で外には出ませんが」
不満気な顔で抗議する娘に、母はすまして答えた。
「もう何度もやってるじゃないのよ。トラスもクーンもあなたのおへその形まで知ってるわよ」
「あれは、子供のころです、母上」
「いまだって子供でしょうに、伸びたのは背だけよ。それからね、カレッタ」
痛、いきなり髪の毛をつかまれたカレッタが顔をしかめる。ファムはカレッタの髪を引っ張って、娘の顔を自分の鼻の前まで下げさせた。
「あなたソール臭いわ。シャワーぐらいじゃ取れないから、大浴場に行って頭からお湯をかぶりなさい。わかった?」
カレッタが晩餐の間に現れたのは、王妃が彼女を呼びに行ってから四半時も経っていなかったので、驚くべき早さと言わざるをえない。もっともそれは、カレッタが王妃の言う通りに大浴場に行ったらば、の話である。カレッタは熱いお湯に浸かって酒の香を抜くのではなく、苦よもぎを口一杯に噛みつぶすことにした。タゴスに教わった手だが、効果が絶大な代わりに、かなりの忍耐を必要とする。
「ようこそ、叔父様、叔母様方」
カレッタはドレスの裾を上げ、一礼したが、その言葉は不明瞭きわまりない。
テレーヌとトラス夫妻は笑いをかみ殺しているし、ファムは逆に微塵も動じず自分の娘を見据えている。クーンはまったく気づかぬそぶりで、トピーはうつむいて、ぎゅっと握った拳が小刻みに震えていた。
「まあ、カレッタ」テレーヌが言った「あなたの元気そうな顔が見られて安心したわ。でも、お休みだったかしら? 無理言って来てもらってごめんなさい。もう、休んでよろしくてよ」
テレーヌの助け船に、さっそくカレッタは乗ることにした。では失礼、ともう一礼すると後ずさりして部屋を辞す。
タゴスの方法はソールの臭いは消えるが、かわりに凄まじいよもぎの匂いをまき散らす。ソールの酔いが抜けきれていなかったカレッタは不幸にしてそのことに気づくことができなかった。
苦手というわけではないのだがなあ。
自室に帰ったカレッタは、扉に内側から鍵をかけ、ドレスを脱いで夜着をはおった。苦よもぎも吐き出した。
『裂け目の塞ぎ』の英雄たちのことをカレッタは叔父、叔母と呼んでいる。父母と苦節を共にした彼らは、父母の兄弟のようなものと教えられたからである。クールマのサファリアヌス家、ナラシンハのトラッサム家の王子、王女たちとは、互いに従兄弟と呼びあっていた。
一番幼かったカレッタは彼らを、兄様、姉様と呼んだ。小さなころは謁見の儀近くになって皆がラスロート城に訪れるのが待ち遠しかった。従兄弟たちとはみんなそろって遊んだし、悪戯をした。皆カレッタより年上だったが、それでも同年代の遊び相手は兄様、姉様たちしかカレッタにはいなかった。
時がたち、従兄弟たちが大人になると、一人、また一人とラスロート城を訪れる者は減っていった。そうそう子供たちは父母に張りついてはいない。叔父様、叔母様は、父と母の友達であって、カレッタの友達は従兄弟たちだったのだから。兄様、姉様たちのいない談話室と晩餐から、自然、カレッタも次第に遠のくようになっていった。
兄様。
カレッタは窓を開け、夜着一枚の姿で、風に髪をなびかせた。
兄様は、よく髪をかわかせと言った。窓を開けておけとも言った。
月は既にかたむいて、夜空は星明かりのみである。
風はカレッタの銀紗の髪を巻き上げ、夜着の裾をはためかせた。
風邪をひかぬよう、とナムスは言ったはずだが、たとえ冬の最中であってもカレッタはそうしてそこに立っていただろう。
クラウトナムス・テーダムドアン・サファリアヌスがその木を登るのは初めてではない。
物心つくかつかないかのころから、パラシュラーマの謁見の儀の季節に遊んだラスロート城の庭は、自国の城よりもそのすみずみを知っていた。特にカレッタの部屋の窓へと枝を伸ばすアレンゾの木は、ナムスのお気に入りの木であった。
子供のころは、もう少し先までいけたんだがな、ナムスの乗った枝はしなやかに曲がって彼の体重を支えている。カレッタがいまだにこの木を使って出入りしているとなると、あいつ見かけよりも軽いのかな、今度試してみよう、とナムスは思った。
目当ての窓から棒が突き出される。まだ起きてたのか。あれこれ考えるよりも、ここは素直に申し出を受けよう。
ナムスが棒を握ったとたん、勢い良く棒が上に跳ね上がる。立ち上がった棒に足をからめ、棒をつたって窓内に落ちる。
カレッタはしっかりナムスを抱き止めた。
「ナムス兄様」
「風邪をひかないようにと言ったはずだが」
薄い夜着の下にカレッタの体温を感じ、ナムスはカレッタを見上げてささやいた。
「けど、髪の毛はしっかり乾いてるな。感心、感心」
見るとナムスはきれいに鬚を剃っており、伸び放題だった髪の毛も後ろにまとめて結んである。父親ゆずりの頑固そうな額とそこから続く鷲鼻、そして何より鷹の目とも称される金色の瞳が、カレッタに幼いころの記憶を呼び覚ました。大好きだったナムス兄様は、思い出そのままに、いまカレッタの目の前にいる。
ナムスはカレッタを椅子に座らせ、静かに髪をすきだした。カッポの店での仕事よりもゆっくりと優しく。
「ナムス兄様」
「何だ、カレッタ」
「兄様のお母様が来てる」
「ああ、お袋か。そうだな。親父が来られないのが幸いだ」
「喧嘩したの? 大クラウト叔父様と」
「うーん、喧嘩というか、意見の不一致というやつだな」
「朝ご飯をゆで卵にするか目玉焼きにするか、とか、そういうこと?」
「いや違う、むしろ、朝飯を目玉焼きにするかゆで卵にするか、とか、そういうことだ」
「なるほど」
「気になることでもあるのか?」
「最近、トピーがおかしい」
「トピー叔母が?」
ナムスは手を止めた。カレッタの表情を探る。星明かりの下、カレッタの素肌は抜けるように白く、そちらのほうに目がいってしまうので顔色を読み取ることはできなかった。
「どう、おかしいんだ?」
「やけにふさぎ込むことが多くなった」
「お前の母上とくらべてどうだ?」
「あの人は変わったりしない。いつも母上のままだ。でもトピーは違う」
「トピー叔母は苦労性だからなあ」
ナムスは櫛の目を替える、より細かい櫛をカレッタの銀の髪にあて、静かにすいていく。
「なぜ、兄様は武術大会に出るの?」
「言ったろう、お前と結婚しようと思ったからだ」
「ふーむ」
「何だ、不満か?」
「いや、そうではないが、よくわからないことがある」
カレッタは椅子から立ち上がるとナムスのほうを向いた。
「私と結婚したいのなら、いまここで、私に結婚したいと言えばよいのではないか?」
「それは八年前に言ったじゃないか」
「ああ」カレッタは納得したようにうなづき、ナムスに背を向け、椅子に座り直した「そういえば、そうだった」
「忘れてたのか」
「忘れてはいない」
「忘れてたんだな」
「…」
「…」
「…すまない」
「まあ、いいよ」
「いま思い出した。もう忘れないから大丈夫だ」
「よろしく頼む」
「それにしても」カレッタはもう一度向き直り、ナムスに相対した「父上と母上にその由伝えればよいのではないか? その、武術大会に出たりしなくとも」
「それは三年前に言った」
「聞いてないぞ」
「だろうな、それからお前の親父さんがあの武術大会を始めたんだ。お前のお袋さんは反対したらしいが」
「そういうことだったのか、父上め」
「お前だって忘れてたんだから、似たようなもんだろう」
三度、椅子に座り直したカレッタは、ナムスに背を向け言った「すまない、ナムス兄様には苦労をかける」
「まあ、苦労のしがいはあるさ」
ナムスは、すき終わった髪の毛を細い幾百もの細かいよりにわけていく、酒場での技よりはるかに細かい。
「でも、よく考えると、やはりナムス兄様は武術大会に出なくても良いと思う」
「どうして?」
「たとえば、たとえばの話だが」めずらしくカレッタが言いよどんでいる。そしてナムスに背を向けたまま小さな声で言った「私とナムス兄様がこのまま逐電するというのはどうだ?」
ナムスは思わず吹き出しそうになったが、努めて平静を装った。
「トピー叔母が泣くぞ」
「手紙を書く、手紙を書けば、そうすれば、たぶん、わかってくれる、と思う」
「お前、そんなに俺が弱いと思ってんのか? あれしきの武術大会で負けるとでも?」
「そうではない、そうではないが」
ナムスは髪を網こむ手を止めた。カレッタの肩が震えている。
「どうした、カレッタ?」
ナムスはカレッタの前に立ち、カレッタを抱きしめた。
カレッタは泣いていた。
「よくわからない。今日、ナムス兄様と会うまでは、そんなこと考えもしなかった。会って一緒にソールを飲んでいるときも、川を流れていくときも楽しかっただけだ。部屋に帰っても、しばらくは何ともなかった。でも、窓の扉を開けて吹く風に髪を乾かしていたときに」
カレッタはナムスを抱きしめ返した。文字どおりあばらが折れるかと思うほどだったが、ナムスは黙って耐えた。
「恐くなった」
「恐くなった?」
カレッタは手を離し、少しだけ体をあけると、ナムスの顔を真直に見た。目から落ちる涙の粒をぬぐいもせずにナムスの顔を見つめた。
「武術大会ではいろいろなことがある。折れた槍が飛んでくることもあるし、鐙が切れて落馬することもある、そんなことを考えていたら気が狂いそうになった」
「それもそうだな」
「やはり、そうなのか」
ああ、と、うなづいたナムスは微笑みながらカレッタに言った。
「カレッタが嫌なら武術大会には出ないよ」
どんどん、とカレッタはナムスの胸を叩いて、すがりついた。一瞬、あばらがきしみ、息ができなくなったナムスは、こりゃ命懸けだな、と思った。
「…いい、我慢する、我慢するから約束して」
「わかった、約束する。武術大会ではかすり傷ひとつ追わずに勝ち上がって見せよう」
「ほんとに?」
「ああ、ほんとだ」
ようやく落ち着いたカレッタは夜着の袖で無茶苦茶に顔を拭い出した。やめとけ、それをおさえてナムスが綿のハンカチでカレッタの顔を覆う。
ナムスはカレッタを椅子に座らせ、仕上げに入った。
「そうだ。良い考えがある」
「何だ」
「ナムス兄様が危なくなったら、私が兄様の相手を叩き殺そう」
「いいから、やめとけ」
「そうか」
ナムスは、きれいに銀の髪をまとめあげ、王冠のようにカレッタの頭に納めた。
「どうだ? カレッタ」
「素敵だ」
ナムスの灯した手かがりで、カレッタは鏡の中に出来栄えを確かめる。
「お月様みたい」
ちゃんと応援してくれよ、言い残して窓に向かおうとするナムスの手をカレッタが握り止めた。
「兄様、お願いがある」
「何だ?」
カレッタはナムスの手を離した。うつむいて小声で言う。
「その…、忘れたわけではないんだけど、その、確認のためというか、つまり、もう一度…」
ナムスは振り向いた。その背にかぶるのは太陽が顔を出すほんの一瞬前の紫色の空だった。
「好きだよ。カレッタ」
「うん」
「愛している」
「うん」
「俺と結婚して欲しい」
うん、うん、と壊れた機械人形のようにうなづき続けるカレッタの額に、ナムスはそっと唇をつけた。
驚いて顔をあげるカレッタの目の前、窓の縁を蹴ったナムスは夜明け前の薄闇に姿を消した。
窓に駆け寄ったカレッタは、走り行くナムスの背に小さく言葉を送った。
「ナムス兄様、御武運を」