第37話 準決勝が始まる
ほとんど人のいない体育館を見渡す。
「やっぱり昼休みだと人が少ないね。にしても、飛鳥ちゃんも来れれば良かったんだけど……」
他に見る試合も無いのにわざわざここに来てくれた水瀬によると、飛鳥は試合を見ていたバレー部に捕まり、熱烈な勧誘を受けていたとか。
「ごめんね、私しか来れなくて」
「? いや全然嬉しいが。来てくれてサンキューな」
「…………! うん! 応援はできないけど、見てるから!」
彼女と話をしていた、その時。
ギィ、と。
音を立てて、体育館の扉が開く。
そして――――1人の男子生徒が入ってきた。
静かに歩く彼からはしかし、いつもの穏やかな雰囲気とは少し違うものを感じる。
そいつが軽く頭を下げると、端に立っていた体育館を監督していた教師はうむと頷いた。
受付に座っていた女子生徒は、慌てて弁当箱を片付けて対応する。
「ねぇ、二宮君……」
「……分かってる」
不安げな目をこちらに向ける水瀬に、頷く。
この先に進みたければ、彼を倒す他はない。
覚悟はしてきた筈だった。
それでも、目の前にこうして彼が現れると、揺らぎかける。俺は本当に、この男に勝てるのか――?
受付を済ませ近付いてきた彼、橘圭介はその視界に俺を捉え、にこやかに微笑んだ。
「――やぁ、二宮」
それはいつも通りの挨拶。
だから普段と違うものを感じるというなら、こちらの意識の所為に違いない。
「……おう」
返事をする時になって初めて、自分が緊張していたことに気づく。
橘が荷物をコート脇に置いて軽く屈伸しているのを見ながら、ラケットを握る。
横をちらりと見ると、神妙な顔をした彼女がこちらに向かって頷いていた。
そうだ。
落ち着け。
きつく握りすぎていたラケットから力を抜く。
方針を確認しよう。
今は球技大会という祭りであり、さらに相手は現役バドミントン部、対するこちらは幽霊部員。
どうしたってそこには、僅かな油断が生まれる筈だ。
そこを突く。
相手が二点を取る間に、こちらが三点を取ればいい。
ハンデと合わせればそれで十分だ。
後はリードを守って逃げ切るだけ。
大丈夫。いけるはずだ。
そして俺が頭の中で試合の進み方について何パターンか想定していた、その時。
――カランッ。
「?」
「………………ッ!」
軽くて固い物が床に落ちた音がした。
見ると、橘が袋から取り出す際にラケットを取り落としていたようだ。
彼はやや慌てたように、拾おうとしゃがみこむ。
珍しいこともあるもんだと、何気なくその様子を見ていると。
ラケットに伸ばした彼の手が、震えていた。
「…………え?」
驚く俺をよそに、彼は通常よりも僅かに時間を掛けてラケットを拾い上げた。
その間も彼は平然としていたから、その震えにはきっと俺以外、誰も気付いていないだろうが。
彼と目が合う。
「……気付かれたか。隠していたかったんだけどな」
言葉の意味が分からなかった。
こいつが球技大会の準決勝ごときに緊張しているとは思えない。
もしかして、何か怪我でもしているのだろうか?
目の前の男は片手でラケットを器用にくるくると回しながら、続けた。
「君と試合が出来るこの日を、俺がどれだけ待ち望んでいたか分かるか?」
……?
困惑している俺を見て、橘は笑う。
「分からないか。……それでいい。君はそのままでいい」
それは。
いつもの爽やかな笑いではなかった。
もっと獰猛な笑みだった。
「――山桜高校バドミントン部、橘圭介。ここで君を倒そう」
球技大会とは思えない、改まった名乗り。
ともすれば芝居のかかった奇行にもなりかねないそれが。
今の彼には、腹立たしいほど様になっていた。
豹変したような彼を目の前にして。
「…………あのなぁ」
俺は呆れたような声を出していたかもしれない。
だけど、それもしょうがないってものだろう。
だって。
――橘圭介。
「俺は」
――成績は常に学年三位。
「ずっと」
――整った容姿に、嫌みのない爽やかさ。
「お前に」
――いつもクラスの中心で、おまけに、バドミントン部のエース。
「勝ってみたかったんだ」
――これで、憧れないわけがない。
こいつみたいになれたらとどれだけ思ったか。
それこそ、お前には分からないだろう。
確かに驚いた顔をした橘に、痛快な気分になった。
こいつにこんな顔をさせたことがあっただろうか。
普段なら、彼に勝負を挑むことなど出来はしない。
はっきり言って、俺の学力では彼と勝負にすらならないから。
だけど、それがバドミントンなら――この舞台なら。
かつて飽きるほどに振っていたラケットを握り、目の前に立つ男を見た。
こちらを見返す瞳は、ぞっとするほどまっすぐで、鋭利だ。
「……始めようか」
橘は、既に到着していた審判に視線を向けた。
「はい! ええとそれでは今から、準決勝の試合を始めます! 橘さんはバドミントン部なので、二宮さんに11点入った状態から始まります!」
審判の説明を聞きながら、ラケットを軽く振る。
ゆっくりと、息を吐く。
一度全身に力を込めて、抜く。
かつて培った感覚に、意識して寄せていく。
練習量では敵わない。
体力面は到底勝てない。
技術だって勝っているか怪しい。
ずっと積み上げてきた彼との実力差は、きっと気合だけでは埋められない。
でも。
今、この勝負だけ勝てればいい。
視線をずらし、コート脇にちょこんと座っている水瀬の方を見る。
……彼女には、格好つけたところを見せたい気持ちもあったんだが。
多分、そんな余裕はないだろうなぁ。
思わず薄い笑いが零れる。
「……?」
コートの向こうの彼が怪訝そうな顔をしたのが見えたが、無視する。
今のが少しでも、不敵な笑いに見えていればいい。
さぁ、悪あがきを始めよう。
どこまでも中途半端な俺の、数少ない得意分野だ。




