第五十八話『オリジナル』
「お腹空いた」
重苦しい空気を一変させたのは、僕の隣で沈黙を貫いていたイブの声だった。
「あぁ、話が長引いてしまったね。ごめんごめん。少し早いがディナーと洒落込もうか。あまりみんなを待たせるのも良くないしね」
ピュタリスと名乗ったその少女は、つい先程まで纏っていた仄暗い雰囲気を消し去り、足の着かないピアノの椅子から勢いよく飛び降りた。
「みんな?」
その響きに、得体の知れない不安を感じてしまう。
「あぁ、みんなが君を待っている。反抗期真っ盛りの大人達がね」
ダークブロンドの長い髪を弄びながら、楽しそうに少女は言った。
話は見えてこないが、イブの言葉と同様に、僕の胃袋も空腹を主張し始めていた。
三日間も寝ていたのだから当たり前と言えば当たり前だ。
その食欲を裏付けるかのように、ぐぅー、というお腹の音が二つ。
どうやら、僕の空腹感知器とイブの空腹感知器がセッションを始めたようだ。
こんな詩的な表現をしてみたが、きっと僕の頬は朱色に染まっていることだろう。
「ふふ、二人とも意気ぴったりだね。流石はオリジナルを口にした二人だ」
「オリジナル?」
「おっとっと、少しお喋りが過ぎたみたいだね。ごめんごめん、今のは気にしないでくれ」
何か重要な事には違い無いのだろうが、その幼くも理知的な笑顔がこれ以上の言及を許さない。
「まぁとにかく、五芒星は君を歓迎するよ。聞きたい事は山程あるだろうけれど、積もる話は食事のお供としようじゃないか」
見た目の幼さとは対照的な落ち着いた物腰で語るピュタリス。そうかと思えば次の瞬間には、鼻歌交じりでスキップを始めていた。
その姿はまさに年相応といった様子で、先程の落ち着いた語りから比べると、あまりの緩急の差に僅かな恐怖すら感じる。
「シュウ、限界」
僕の心の機微などはお構いなしに、隣のイブが無表情で言った。
「腹が減っては何とやらってね。神に戦を挑む男がお腹を空かせていてはいけないだろ?」
揶揄うようなその声音からは、彼女の真意が見えて来ない。
「うん、ご相伴に預かるよ」
どの道、この空腹感ではまともな思考は無理そうだ。
「ではでは、私について来てくれたまえ。五芒星自慢の料理を振る舞うよ。豆料理以外ならば、なんでも揃っているよ」
「豆以外? 嫌いなの?」
「うーん、難しいことを聞くね。私が嫌いと言うよりも、この身体が受け付けないだけさ」
「えっと……」
アレルギーのようなものだろうか?
「まぁまぁ、そんなことは気にせずに、純粋に楽しんでくれよ。シュウ君にとっては懐かしい味もあるはずだよ?」
「懐かしい味?」
「ここには味噌も醤油だって存在する」
「なんだって……」
つまりそれは完全な和食が食べられるということか。俄かには信じ難いが、彼女に嘘をついている気配は無い。何よりもその事を僕の両眼が証明していた。
一旦落ち着くんだ。浮き足立ってはいけない。こういう時こそ冷静に考えよう。
彼女があの世界から来たと言うのならば、味噌や醤油の作り方を知っていたとしても不思議ではない。しかし、ピュタリスの風貌はどこからどう見ても西洋系だ。とても日本出身には思えない。
彼女がどのような経緯でこの世界にやってきたのか、その事について興味が無いと言えば嘘になる。しかし、人にはそれぞれの生き方や死に方がある。僕の過去を例にしても分かるように、あまり思い出したく無いものである可能性もある。徒らに詮索するのはよそう。
そして、今はそれよりも、どうしても気になる事があった。
「醤油の原料に豆が含まれているのはセーフなのかい?」
話の筋から離れる上に、細かい事かも知れないが、気になってしまったのだから仕方がない。豆以外という言葉を使っておいて、醤油があるとはこれ如何に。
「ふふ、まさかそこを尋ねられるとはね。もっと聞きたい事があるだろうに。やはりシュウ君は面白い。つまり、大豆のことを言っているんだね。実に良い着眼点だ。こちらの世界とあちらの世界には共通しているものも多くあるが、全く同一な物は何一つとして存在しないんだよ」
「何一つ?」
「そうさ、全く無い。例えば、こちらの世界で豚や牛と呼ばれている家畜も、地球のそれとは同一の種ではない。類似する箇所が多く、共通点があるから、豚や牛として私達の脳に翻訳されているに過ぎないんだよ。つまり先程、私が味噌や醤油と言った物は、なるべくそれに近い味に再現した、似たような物に過ぎないんだ」
「では豆を使わずに醤油を再現したと?」
「あぁ、地球には存在しない穀物を使用してね。いやぁ、中々苦労したよ」
「でも、豆に類似した、こちらの世界で豆と呼ばれる食材を使えば、苦労せずに再現出来たんじゃないの?」
「うーん、それは出来ないよ。この身体が豆を恐れているからね」
「恐れる?」
「この話はここまでにしよう。一度イブちゃんの顔を見た方が良い」
「え?」
ピュタリスの言葉に従い、隣りに立つ少女の顔を覗き込む。するとそこにあったのは、心なしか不機嫌そうに僕を睨むイブの顔だった。
「お腹空いた」
無表情に近いイブの面持ちは、それでいてしっかりとした苛立ちを伝えてくる。
イブが感情を表に出すのは非常に稀だ。
おそらくは彼女のことを知らない人から見れば、全く分からない程の僅かな違いだ。しかし、平常時の無表情から考えればこれは、激怒と言っても良いかも知れない……。
僕は多弁な口に蓋をして、ピュタリスの案内のもと晩餐へと向かう。




