第五十六話『音色』
「ナカシュ、まずは状況を確認したい。ここは一体どこで、あの会議からどの位の時間が過ぎたんだ?」
記憶が戻ったとはいえ、自身が置かれている現状については何一つとして分からない。
「おいおい、シュウよ。俺様はお前の認識の中に存在する。お前が記憶を失っていた数年間は俺様の意識も浮上する事は無かったんだぜ?」
長い舌をちらつかせながら、開き直った態度のナカシュ。
「つまりは何一つ分からないと? 相変わらず頼もしい案内人だ」
僕は皮肉混じりにそう呟く。
「シュウ、三日間眠ってた」
「え? あぁ、ありがとう」
イブがこの手の雑事に反応したのが意外で、何とも鈍い返しをしてしまった。
「ちなみに、ここがどこだか分かる?」
僕は柔らかい声音に切り替え、イブへと問いかけた。
「クロント」
イブが短く呟く。
「クロント?」
聞き覚えの無い言葉だ。火の教団にいた時も、金の教団にいた間も、その名を聞いた覚えはない。
「ククッ、なるほど、なるほど。クロントときたか」
何やら心当たりがある様子のナカシュ。
「何か知っているのか?」
「あぁ、クロントと言えば、ピュタリス教、すなわち五芒星の本部がある都市だ」
「ピュタリス教……」
その名には聞き覚えがある。確かあの時……。
戻ったばかりの記憶を探ろうとするが、その思考を離散させるようなタイミングで、部屋の扉がノックされた。
三回連続で規則正しく鳴るそれは、部屋の中に妙な緊張感を伝えてくる。
隣に座るイブへと視線を移すが、彼女の横顔はピクリともせず、依然として無表情のままだ。どうやら、僕が出るしかないようだ。
正直に言えば、まだ身体が重く、動きたくないというのが本音だ。変な表現になってしまうが、記憶がまだ身体へと馴染みきっていないのだ。
意識が戻って間もないからだろうか、精神と身体が解離しているような、言葉に出来ない違和感を感じる。
重い腰を上げ部屋の扉を開けるとそこには、あまりにも奇抜な格好をした少年がいた。その姿は、この世界において特筆すべき程の異端であり、もはや異形とすら言える。
そう、目の前の少年はTシャツにジーンズという、僕にとっては馴染み深い、それでいてこの世界では見たことの無い格好をしているのだ。
僕の脳内には様々な疑問が流れるが、それよりも更に気になったのが、そのデザインについてだ。
真っ白なTシャツの中央には、笑顔を浮かべた幼い少女のイラストがでかでかと描かれていた。
カラフルな線で描かれたそれは、日本の特定の地域に生息する人達が好みそうな、偏りの強いデザインをしている。
「シュウ様、ピュタリス様がお待ちです。イブ様とご一緒に旋律の間へとお越し下さい。不肖の身ではありますが、案内はこのリッパソスが務めさせて頂きます」
そう言って恭しく頭を下げる少年の姿は、案外様になっているのだが、格好が格好だけに、イマイチ話が入ってこない。
「えっと、とりあえず君について行けば良いんだね?」
本来はこの少年を疑うべきシーンであり、聞きたい事も山ほどあるのだが、どうにもペースの掴みにくい相手だ。
警戒心を抱くのが馬鹿馬鹿しくなるというか……。
「はい、私めにお任せ下さい!」
リッパソスと名乗ったその少年は真っ直ぐな瞳でそう言った。
彼のその目を信じたわけではないが、現状、僕には選択肢が無い。ここは大人しく彼の案内に従う事にしよう。
イブの手を握り、部屋の外へと出る。
大理石で作られた細長い廊下を、少年の背を追いながら歩く。
「すまないが、僕は意識が目覚めたばかりで、現状を良く理解していないんだ。ここは五芒星の本拠地という認識で良いのかな?」
「はい、ピュタリス様が設計した、完璧な宮殿でございます。本来ならば、シュウ様にはもっと大きなお部屋をご用意しているのですが、目覚めた時に広すぎる空間にいては驚くだろうと、ピュタリス様のご配慮でして」
確かに、この廊下の豪華さに比べれば、先程までの一室は簡素に思えるが、そのような配慮が為されていたのか。流石は一大組織を率いるだけのことはある。きっと頭の切れる人なのだろう。
しかし、そもそも何故、僕がこの組織に保護される立場にあるのだ? その意図が見えてこない。
「どうして僕はここに?」
「その件に関してはピュタリス様からお話があると思われます。申し訳ありませんが、私如きが判断する事は出来ません」
そう言って深く頭を下げるリッパソス。
依然として疑問は消えないが、どうやら目的の部屋が近いらしい。前を歩く少年の足がその速度を落とし始めた。
その先に見えるのは豪華絢爛な巨大な扉。
真っ白な扉の中央には五芒星が描かれており、その周囲には音符のようなマークが散りばめられている。
「では、こちらへ」
少年の声と同時に、両開きの豪奢な扉が開いた。
「ふ、ふ、ふーん♪」
部屋の中から聞こえてくるのは、幼い少女の鼻歌と、それに不釣り合いなあまりにも滑らかなピアノの音色。
「あれ……」
自身の瞳が僅かに潤むのを感じる。
この曲、この音色。
ピアノソナタ第十六番イ短調。フランツ・シューベルト作曲。
姉が好んで弾いていた曲だ。
地球の作曲家が書いた曲が、どうしてこの世界に。
「なんで……」
「ようこそ、シュウ君」
鍵盤を叩く手を止めた小さな少女がこちらに向かって微笑んでいる。
「えっと、貴方が……」
五芒星を束ねる少女なのだろうか。
「随分と他人行儀な態度ね?」
「え?」
「ふふ、私と君は家族みたいなものさ」
小さな背中に流れるダークブロンドの長い髪が窓から差し込む陽の光を受け怪しく輝いている。
「それってどういう……」
「私と君は同じなんだよ」
その声音はどこか悲しく、それでいてとても美しい音色だった。