第55話 ベルテ川の戦い2-布陣
エルドア国軍がガッツェンの街から出て進軍を開始。
その一報はガッツェンの街を遠巻きに見張っていた斥候の騎士によって、すぐさまロマニア国軍の野営地にもたらされた。
エルドア国軍の出陣を知ったロマニア国軍の将軍諸侯は色めき立った。
さては会戦を約したのは、こちらの油断を誘い、今度こそ早朝の奇襲――朝駆けを仕掛けようという卑劣な手か?!
そう考えた将軍諸侯らは、寝床から起きたばかりの寝ぼけ眼の兵たちを叱咤し、急いで戦いの準備をさせたのである。
にわかに騒がしくなったロマニア国軍の野営地で、東の空に昇ったばかりの太陽を目を細めて眺めていたパルティス王子のところへ数人の将軍諸侯が駆け寄り、その前で膝を突く。
「殿下! 破壊の御子めは、会戦を約しておきながら卑怯にも攻めてくるやも知れません! 急ぎ戦のお支度を!」
それにパルティスは、ふむと小さく洩らしてから尋ねる。
「して、エルドア国の軍勢の様子は?」
これに将軍諸侯らにともにやってきた斥候の騎士が答える。
「はっ! 敵はエルドアの旗と破壊の御子の黒旗の双方を先頭に押し立て、こちらに向かって進軍してきております!」
「そうか」
パルティスは短く呟いてからおもむろに振り返ると、近くにいた従者に命じる。
「今日は、大事な戦である。力をつけねばならん。たっぷりと肉を食いたい。肉はあるか? あると良いのだが……」
これから敵が攻めてくるかも知れないというのに、朝食の心配である。
将軍諸侯ばかりか従者まで呆気に取られてしまった。
問われた従者が唖然としながらも職責に背中を押されて「ございます」と何とか答えると、パルティスはニカッと笑った。
「おお! それは良かった。楽しみにしているぞ」
これに将軍のひとりが慌てて声をかける。
「殿下! 今は朝食の心配をしているときではございませんぞ! 敵が攻めてくるやもしれないのです!」
そう言う将軍にパルティスは不思議そうに首をかしげて見せる。
「会戦を約しておいて、それを反故にするはずがなかろう。それに、奇襲を仕掛けてくるつもりならば、悠長に旗を押し立てて来るわけがない」
「しかし、パルティス殿下! 会戦を約した刻限より、まだ二刻(およそ四時間)近くもございます。これは何らかの意図があってのこと!」
そう言いつのる将軍にパルティスは呵々と笑って見せる。
「で、あろうな。しかし、その意図が我らを焦らせようというものやも知れんぞ。ここは敵の動きに慌てて応じるより、予定していたとおりにいたせ」
そう言うとパルティスは将軍諸侯に下がるように命じた。
せっかく注進に駆けつけたというのに、まったく相手にされなかった将軍諸侯らは肩すかしを食らった顔で引き下がるしかなかった。
そうこうしているうちにガッツェンの街から出陣したエルドア国軍が、ついにその姿を現した。
いつ攻め寄せてくるかとロマニア国軍の将兵らが緊張をもって注視する中で、しかしエルドア国軍は野営地の手前で街道を北へと外れ、会戦を約した平野へと進路を向けた。そして、平野に入ったエルドア国軍は、悠然と隊列を整えて布陣を始めたのである。
これにロマニア国軍の将軍諸侯は再びパルティスへと注進した。
「殿下! 破壊の御子めが、早くも布陣いたしましたぞ! 我らも急ぎ布陣いたしましょう!」
エルドア国に後れを取ってなるものかと息巻く将軍諸侯らに、パルティスは眉間にシワを寄せた困り顔で言う。
「私は、朝食がまだである」
将軍諸侯らは、またもや呆気に取られた。
西域の二大国が雌雄を決せんとする会戦を目の前にして、この言葉である。将軍諸侯らはパルティスが豪胆すぎるのか呑気すぎるのか判断がつかず、言葉を失った。
そんな将軍諸侯らを前に、パルティスは東の空に浮かぶ太陽を見やる。
「会戦を約した時刻には、まだまだ時間がある。慌てることはない。諸卿らも朝食を摂ってないであろう。ゆっくりと食事を摂られよ。朝食は、その日の活力の礎という言葉もある。おろそかにしてはならないぞ。そうだ。今朝は兵たちにも特別に一杯だけ葡萄酒を与えることにしよう」
それからパルティスは目を細めた。
「しかし、今日は良い天気だな。風が心地よい。――私の天幕の布を取り払え。この晴天の下と心地よい風の中で食事を摂るのも良いものだ」
そう言うとパルティスは、本当に従者に命じて天幕の布を取り去ってしまった。そして、パルティスはそこで悠々と朝食を食べ始めたのである。そればかりか朝食を終えたパルティスは、椅子に座ったままこっくりこっくりと船をこぎ出し、ついには居眠りまで始めたのだ。
このときパルティスの天幕は、野営地全体を見渡せるように中央付近にある他より小高い丘になったところに建てられていた。そのため居眠りをするパルティスの姿は野営地のどこからでも見ることができたのである。
ところが、不思議なことにこの居眠りをするパルティスをロマニア国の将兵の中で悪く言う者はひとりとしていなかった。
そればかりか、パルティスの居眠りを邪魔しないように、誰からともなく大きな物音を立てないように配慮しはじめたのである。
これにピアータの副官デメトリアは、感心の声を洩らす。
「さすが、パルティス殿下でいらっしゃいますね。浮き足立っていた兵たちも落ち着いてきたようです」
デメトリアの言うように、先程まではエルドア国の奇襲が来るかも知れない、早く布陣しなければならないと騒ぎ立てていた将兵らも、今は静かに戦いの準備をしていた。
「確かに、そうだな」
ピアータは同意を示しつつ苦笑を浮かべた。
「もっとも、兄上はあれを素でやっているのだがな」
ピアータが言うように、パルティスは浮ついた将兵たちを落ち着かせるためにやっているわけではない。単に朝食を食べて満腹になり、会戦まで時間の余裕もあるので仮眠を取っているだけである。
もし、意図してやっているものだったならば、将兵たちもどこか嘘臭さを感じたかも知れない。あれがパルティスの素の姿であるからこそ、将兵らも落ち着けたのだ。
「兄上には恐れ入る。私にはとうてい真似などできんな」
そう言うピアータに、デメトリアは顔を曇らせて言う。
「パルティス殿下を真似されよとまでは申しませんが、少し心を落ち着かれた方がよろしいのではないでしょうか?」
何のことだと眉間にシワを寄せるピアータに、デメトリアは自分の瞼の下を指でなぞってみせる。
「目の下の隈がひどうございます。昨夜もあまりお休みになられてはいないのではございませんか?」
デメトリアの指摘に、ピアータはうっと言葉を詰まらせた。
エルドア国との会戦が決定してからピアータは、日の出から日の入りまでわずかな騎士をともなって会戦の場となる平野を隅から隅まで馬で駆け回り、夜は遅くまで自分の天幕で地図とにらめっこをする毎日であった。
もちろん、それは破壊の御子の策を警戒してのものである。
しかし、いくら戦場となる平野を駆け回っても罠が仕掛けられた様子もなく、いくら頭を悩ませても破壊の御子の思惑が読み取れない。
それでも諦めずに必死に破壊の御子の策を見破ろうとするピアータを一部の将軍諸侯らは、「まるで水面に映った自分の影に怯える子犬のようだ」と嘲笑していた。
デメトリアはしばし躊躇ってから言葉を選びつつ言う。
「無礼を承知で申し上げますが、姫殿下の取り越し苦労なのではございませんか?」
デメトリアもまたピアータと行動を共にしていたため、あの平野には破壊の御子の罠も仕掛けもないと断言できた。また、ああして早くから平野に布陣したからといって、二万近いロマニア国軍に打撃を与えるような罠をこれから用意できるともとうてい思えない。
これでは、いくら敬愛するピアータの言葉とは言え、何もない平野で倍にもなろうかという敵軍を打ち破る秘策をもって破壊の御子が挑んできているとは、さすがに信じがたいことだった。
「破壊の御子を侮るなっ!!」
デメトリアの言葉に、ピアータは思わず声を荒げてしまった。
突然声を張り上げたピアータへ周囲から驚きの目が向けられる。それに気づいたピアータは我に返った。その場を取り繕うようにひとつ咳払いをしてからピアータは言う。
「声を荒げて悪かった。――だが、あの破壊の御子が何の策もなく会戦を提案するわけがないのだ。きっと、奴は何らかの策を用意している。きっと、だ!」
ピアータは、そう確信していた。
しかし、それが何だかわからない。
だからこそ焦る。
そして、苛立つ。
ピアータは焦りと苛立ちとともに自分の親指の爪を噛み締めた。
そんなピアータの様子に、デメトリアはため息をひとつ洩らす。
「わかりました、姫殿下。――ララとルルには、エルドア国軍がおかしな行動を取っていないか監視させます。百狼隊の者たちには、くれぐれも油断するなと言い伝えましょう」
「悪いが、そうしてくれ」
デメトリアの提案を了承した上でピアータは念を押す。
「だが、ララとルルは野営地からの監視に留めておけ。下手に奴らの上を飛ぶようなまねをさせれば、それを敵対行為と難癖をつけられかねんからな」
「わかりました、姫殿下」
そう言って一礼してからデメトリアが立ち去ると、ひとり残されたピアータは野営地を取り囲む柵の近くまで歩み寄る。そして、格子状の柵から垣間見える平野で布陣するエルドア国軍を睨みつけた。
「破壊の御子め。貴様は、いったい何をしようとしている……?」
ピアータの問いに答えられる者は、その場にはいなかった。
びびる蒼馬に、焦るピアータ、余裕のパルティス。
何だか蒼馬よりパルティスの方が主人公している気がするのは気のせいだろうか?




