第29話 蟲姫
ワリナ王女には、蟲が取り憑いている。
それはホルメア国の貴族諸侯の間に、まことしやかに流れている噂であった。
事の起こりは、ワリナ王女がまだ十歳にもならない幼い子供だったときである。
その日、養育係の貴族の夫人が、幼いワリナ王女を王宮にある花園で遊ばせていた。最初は咲き乱れる花に歓声を上げていたワリナ王女であったが、気づくといつの間にかしゃがみ込んで土をいじくり始めたのである。
王女とは言え、まだ幼い子供。花を観賞するより、土いじりが楽しいのであろう。
そうわかっていても、王女が土まみれになっては体裁が悪い。軽くたしなめるつもりで、こちらに背を向けてしゃがみ込むワリナ王女へ声をかけた夫人は、振り返ったワリナ王女に驚愕の悲鳴を上げた。
ワリナ王女の口の周りが泥だらけになっていたのである。
慌てた夫人は無礼を承知でワリナ王女の口を強引に開かせると、口の中からは泥がボロボロと出てきた。
何と、この幼い王女は土を食べていたのである。
夫人はワリナ王女に泥を吐き出させてから口をすすがせ、二度とこのようなまねはしてはならないと、きつく言い聞かせたのである。
そして、この一件は無邪気な子供の悪さと片付けられたのだった。
ところが、このワリナ王女の奇行は続いたのである。
養育係や侍女らが目を離すと、気づけばワリナ王女は土を食べるのだ。
そのためいつしか貴族諸侯の間では、土を喰らう蟲に取り憑かれた姫――蟲姫という不名誉な噂が立てられていたのである。
ワリナ王女が年頃の王族の娘でありながら、いまだに婚約者が定められていなかったのは兄王子アレクシウスに疎まれていたのみならず、この噂のせいでもあったのだ。
そうした経緯を今にも消え入りそうな声で話し終えたワリナ王女は、その小さな身体をさらに小さくして言う。
「いけないことと私もわかっているのです。ですが、どうしても衝動が抑えきれず……」
王宮の医師に看てもらったり、また聖職者の清めや妖しげな祈祷師の呪いなども受けたりしたが、その悪癖はいまだに治っていないらしい。
落ち込むワリナ王女に、シェムルは自分の胸をひとつ叩いて見せた。
「そういうことなら私に任せろ! 私の氏族のお婆様はいろんなことを知っている。それに、いざとなれば巫女頭様に祈祷をお願いしてやろう。私は獣の神の御子だ。私の願いならば、巫女頭様も聞いてくださるだろう」
そう請け負うシェムルに、蒼馬は大丈夫かと心配になる。あの奔放な巫女頭ならば「面倒くさい」の一言で断ってきそうな気がした。そうなれば直情的なシェムルである。間違いなく巫女頭様のところへ殴り込みに行くだろう。もちろん、自分を無理矢理引きずってだ。
そんなことを思っていた蒼馬の脳裏に、そのとき何かが引っかかる。
「……土を食べたくなる?」
蒼馬はどこかで似たような話を聞いた気がした。
それはいったいいつどこであったかと自分の記憶を探っていると、蒼馬の耳に懐かしい声が甦る。
『蒼馬。昔、お母さんはね……』
それは、蒼馬の母親の声であった。
蒼馬の母親は手芸や園芸ばかりか、味噌や石鹸まで自分で作る多趣味な人であった。蒼馬は子供の頃からそうした母親の趣味に付き合い、よく手伝っていたものである。
そうして手伝っているときに、母親にどうしてこんなにいろいろなことを知っているのかと尋ねたことがあった。すると母親は、自分は小さな頃はある病気のせいで外で遊べなかったため、こうしたことをいろいろ覚えたのだと教えてくれた。
そして、その言葉は母親が自分の罹っていた病気について、教えてくれたときのものだ。
「あれ? それって、もしかしたら……?」
蒼馬は目をパチクリとさせた。
それからしばし視線を周囲にさまよわせていたが、意を決すると、恐る恐るワリナ王女へ声をかける。
「ワリナさん。ちょっと爪を見させてもらえますか?」
「爪を、でしょうか?」
ワリナ王女は、躊躇した。王女である彼女は指先を使うような仕事は、せいぜい嗜みとしてやっている刺繍ぐらいなものである。それだというのに彼女の爪は割れたり、二枚爪になっていたり、凹んだり反ったりとボロボロの状態であったのだ。
そのために、あまり他人に見せたくはなかったのだが、それを要求しているのは蒼馬である。すでに征服者とは思えぬ温厚な性格をしているとは知っていても、その要求を断るのは難しい。しかたなく、蒼馬に言われるがままにワリナ王女は爪が見えるように手を差し出した。
すると、蒼馬は顔を寄せ、まじまじと爪を観察する。
自分の爪の状態を知っているワリナ王女は、そうじっくりと眺められるのに激しい羞恥を覚えた。しかし、当の蒼馬はそんなことにも気づかぬ様子で、何やらひとりで納得したようにうなずいていたのである。
しばらくして蒼馬が顔を上げたのに、醜い爪を観察されるのもようやく終わったものと思ったワリナ王女はホッとしながら手を引っ込めようとした。
そんなワリナ王女の隙を突いて、蒼馬はいきなりとんでもないことをする。
「ちょっと、ごめんなさい」
そう言うなり、蒼馬は両手の人差し指でワリナ王女の下瞼を押さえると、そのまま押し下げたのである。
「なっ……!」
ワリナ王女は絶句したまま固まってしまった。
この時代、王侯貴族の女性の肌に触れることは良人や家族にしか許されないものであった。それも何の断りもなく、いきなりである。ワリナ王女ばかりかお付きの侍女らもあまりのことに硬直してしまう。
しかし、それにも気づいていない様子の蒼馬は、ワリナ王女の目をしげしげと眺めてから、顔をパッと明るくする。
「ああ……。やっぱり、そうなのかな?」
自分の推測が合っていそうなことに蒼馬が得意げな顔になっていると、いきなり頭にすさまじい衝撃が加わる。そのあまりの勢いに卓へ額を打ち付けそうになるのを何とかこらえた蒼馬が後ろを振り仰ぐと、そこには拳を握り締めたシェムルが牙を剥いていた。
「おまえは、何をやっているんだ?!」
シェムルの怒声に蒼馬が改めてワリナ王女を見やると、彼女は目に涙を溜めてふるふると震えているところだった。それに自分がやった失礼に気づいた蒼馬は、慌てて頭を下げる。
「ご、ごめんなさい! 別に変なことをしようとしたわけじゃなくて! とにかく、ごめんなさい!」
◆◇◆◇◆
ひたすら謝罪して、ようやく気を落ち着かせてくれたワリナ王女が帰った後、蒼馬は自室でウンウンとうなっていた。
蒼馬が頭を悩ませているのは、ワリナ王女のことである。蒼馬もまたワリナ王女が蟲に取り憑かれているという噂は聞いていた。実際に自分を召還したアウラを始め、この世界には人智を超えた存在――神々が実在する。それを踏まえれば、人間に取り憑く蟲や悪霊といったものがいても不思議ではない。
しかし、それでも蒼馬は、噂のようにワリナ王女が蟲に取り憑かれているとは思えなかったのである。
それよりも蒼馬は、ワリナ王女がある病気ではないかと疑っていた。
それはというのもワリナ王女が告げた症状が、蒼馬の母親が小さい頃に患っていたと聞かされていた病気の症状と酷似していたからである。
さらにワリナ王女が年若い女性であるのに加え、その極度の偏食もその病気の可能性を高めていた。
そして、もし本当にその病気ならば、治癒の可能性がある。
蒼馬は母親からその病気の治療法を教わっており、しかもそれは特別な器具や薬品を必要とはせず、この世界でもやれることだったのだ。
そこまで考えてから蒼馬は、ぽつりとこぼす。
「だけど、問題が本当にそれで治せるかだよな……」
蒼馬が躊躇しているのは、それが理由であった。
蒼馬は医療の専門知識を持っているわけではない。それで本当にワリナ王女の病気を治せると断言はできなかったのだ。
また、本当に同じ病気であったとしても、その原因によって治療法は違うのだ。母親のときとは異なり、ワリナ王女の病気が仮に遺伝的疾患からくるものだった場合は、蒼馬の知る治療法ではまったくの無駄に終わるだろう。
それに、ここは地球ではないのだ。良く似た症状のまったく別の病気が存在していてもおかしくはない。蒼馬の予想自体が、見当外れの可能性もあるのだ。
変な噂を立てられるぐらい自分とワリナ王女の関係は周囲が注目しているところである。そこへワリナ王女への過剰な接触は、それこそ噂の火に油を注ぐようなものだ。今度はどこにどのような形で噂が飛び火するかもわからない。
それでも確実に病気が治せるというのならばともかく、その確証がないのでは、ここは下手に手出しをしない方が得策だろう。
そう思った蒼馬の耳に、ワリナ王女が帰った後にシェムルが口にした言葉が甦る。
『何とかして助けてやりたいものだな』
蒼馬は思わず苦笑してしまった。
この自分ごときにはもったいない忠臣は、現実のみばかりか頭の中にまでやってきて、私の誇れる「臍下の君」であれと要求してくるのだ。
やらないよりかは、やった方が良いだろう。
そう腹をくくった蒼馬は自分の傍らに立つシェムルへ声をかける。
「ねえ、シェムル。お願いがあるんだけど」
自らの「臍下の君」である蒼馬の役に立てるのは、シェムルにとって無上の喜びである。
シェムルはピンッと背筋を伸ばした。
「我が『臍下の君』の願いなら、この《気高き牙》に否やはないぞ。さあ、私は何をすれば良い?」
蒼馬は、ひとつの頼みを口にする。
「料理を作って欲しいんだ」
シェムルはわずかに首をかしげた。
以前ならともかく、最近の蒼馬の食事を作るのはマルコの役割である。それをわざわざ自分に頼むとは、いったいどういうことだろう?
そう疑問に思ったのも束の間である。
蒼馬がそれを好物だと言い、それを作ることに関してはマルコよりもシェムルが得意とする料理が、たったひとつだけあった。
「そうか。そういえば最近は忙しくて作っていなかったな。――よし。久しぶりに私が腕を振るおう」
任せろと言わんばかりに胸を張るシェムルに、蒼馬は快活に笑顔で応じる。
「うん。楽しみにしているよ」
◆◇◆◇◆
「破壊の御子が、ワリナ王女をいじめているだと?」
召使いからの報告に、男は興奮した声をあげた。
茶会の日以降、破壊の御子はワリナ王女を毎日昼食に招待するようになっていたのである。
ワリナ王女は、王族らしからぬ引っ込み思案なところはあるが妻が夫の後ろに控えるのが美徳とされている時代においては、決して悪いものではない。その痩せぎすで内面の気の弱さを感じさせる顔立ちも、それがかえって男の庇護欲をくすぐるような少女である。
破壊の御子も今は善人ぶっているものの、しょせんは野蛮な亜人類の頭目である。そんな野蛮な奴ならば、目の前に高貴な生まれの少女をぶらさげられれば、すぐさま飛びつくだろうと思い、ふたりが会う場を設けたのだが、それがまんまとうまくいったようだ。
そう思った男が召使いをやって王女付きの侍女に探りを入れたところ、ワリナ王女が破壊の御子にいじめられているという話が聞けたのである。
「それで、奴は何をした? 辱めたのか? それとも、さっそく手籠めにしたのか?」
少女がどんなひどい目に遭っているのかを確認するというのに、男は喜々とした表情であった。
「それが――」
問われた召使いはわずかに言い澱んでから答えた。
「一緒に、同じ食事を摂るように命じているそうです」
予想もしていなかった答えに男は「はぁ?」と気の抜けた声を洩らす。主人が困惑するのも理解できた召使いは、説明を付け加える。
「ワリナ王女は食べ物の好き嫌いが激しい方です。それが、破壊の御子から自分と同じものを食べるように言われ、侍女へ辛いと洩らしているそうなのです」
「……なんだ、その子供の嫌がらせのようなまねは?」
嫌いな食べ物を食べさせているだけとは拍子抜けであった。その日の食べ物にも苦労していた貧乏貴族の出の男にしてみれば、むしろ食べ物に好き嫌いが言えるワリナ王女の方に憤りすら感じる。
しかし、それでワリナ王女をいい様だと嘲笑っても意味はない。
自分が表立ってしまう危険を承知して破壊の御子とワリナ王女が顔を合わせる場を設けたのも、すべては破壊の御子の評判を落とすためだ。
それだというのに、嫌いな食べ物を食べさせるという嫌がらせである。
男は失望とともに頭を悩ませた。
どうする? もう少し様子を見るべきか?
会う機会を作ってやれば、すぐにいじめを始めたのだ。もう少しすれば、もっとひどいことをやるかも知れない。
しかし、そうなる確証はない。逆に和解して仲良くでもなれば、せっかくの好機を棒に振ることになる。
また、アッピウス侯爵からもできるだけ早急にという要望が届けられていた。書状には書かれていないが、おそらくはアッピウス侯爵をはじめとした北部諸侯も破壊の御子との対立姿勢をこれ以上維持するのは厳しいのだろう。
本来ならば、破壊の御子にはもっと国民らが激しく憤り、激怒するようなことをして欲しかった。
しかし、もはや迷っている時間はない。
男は決断した。
「いいか! とにかく人を使って、王都中に破壊の御子が王女をいじめていると噂を広めろ! それと急ぎアッピウス侯爵へと早馬で使者を送るのだ!」
命を受けた召使が早馬の手配をしに部屋から飛び出すのを見送った男は、期待と興奮に震える声でひとりごちる。
「このホルメアを手に入れるのは破壊の御子でもアッピウスでもないわ。最後に笑うのは、この私よ」
その男――メンダックスは、ぐっと拳を握ったのである。
それから数日後、北部諸侯が兵を挙げたという報せが王都に届けられた。
作中での蟲という字は基本的にワーム系を指しています。
つまりワリナ王女は現代風に言うと「ミミズ姫」と呼ばれていたわけです。
ついでにドワーフも蟲から生まれたことになっていますが、こちらは蛆を指しています。




