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破壊の御子  作者: 無銘工房
建国の章
292/548

第26話 アッピウス侯爵

 エラディアの茶会を満喫したヨアシュは、王都ホルメニアにあるシャピロ商会の支店に立ち寄り旅支度を整えると、その足でホルメア北部へと向かったのである。

 その道中、何度となく家財を満載にした荷車を押す家族とすれ違った。

 それらはいずれも北部諸侯の領地に住んでいた領民たちである。彼らは、北部諸侯と破壊の御子との間にいつ戦端が開かれるかもわからぬ不安に、気の早い者たちから土地を捨てて北部から逃げ出しているのだった。

 しかし、この時代、領民が自ら土地を捨てるとはよほどのことである。

 ヨアシュがそうした家族を何度か捕まえて、小銭を握らせて話を聞いたところ、予想以上に北部諸侯の領内の状況は思わしくないのがわかった。

 まず、破壊の御子との戦いに備え若い男のほとんどが徴兵され、食料も臨時の徴発で取り上げられているらしい。機を見るに敏な商人などは、とっくに北部諸侯の領内から立ち去ってしまったために物流が滞り、今では各地の市場では活気が失われてしまっている。それがさらに街や村に暗澹(あんたん)たる空気を広げているらしい。

 それでも残虐な侵略者から生活を守るためと思えば我慢もしてきたが、いつまで経っても破壊の御子との戦端すら開かれない。いや、そもそもホルメア国を滅ぼし、ロマニア国すら撃退した恐ろしい破壊の御子に勝てるのか、と北部諸侯への不平不満も領民の間でささやかれ始めているという。

 その様子ではアッピウス侯爵も、よほど苦境に(あえ)いでいるだろう。

 これは面白いことになっていそうだとほくそ笑むヨアシュを乗せた馬車は、ホルメア国北部最大の都市と呼ばれるラフバンに着いた。

 このラフバンは、アッピウス侯爵の拠点だ。領内に優良な鉱山が多く財政豊かな北部諸侯の中でも、さすがは盟主とも呼ばれるアッピウス侯爵のお膝元である。人口は二万とも三万とも言われる大きな都市をぐるりと囲むのは背の高い街壁であった。

 そして、それはこの時代では一般的な土壁ではない。わざわざ北の山から切り出した石を積み上げて作られた石壁だ。完成するのに二十年以上の歳月と莫大な資金を投じられたと言われた街壁は矢狭間なども設けられており、この壁の存在によってラフバンが城塞都市と呼ばれているのもうなずける。

 事前に先触れの使者を出していたため、ヨアシュを乗せた馬車が街門に着くと、そこにはアッピウス侯爵に仕える侍従が出迎えにきていた。

 しかし、その侍従の両脇を固めるのは完全武装の兵士たちである。これは敵からの使者を迎える形式だ。おそらくは破壊の御子には服従しないというアッピウス侯爵の意思表明なのだろう。

 簡単な挨拶を交わしてから侍従の先導で街の中に入ると、さらにヨアシュはその推測に確信を深めた。

 街の中は戦時さながらの物々しい雰囲気であった。街の至るところには穂先を剥き出しにした槍を持つ兵士が直立不動の姿勢で立っている。住民の姿は見えないが、家々の中からは息を殺して隠れる人の気配が感じられた。

 いつ破壊の御子との戦いが始まってもおかしくはない。

 いかにも、そんな雰囲気である。

 だが、この街の物々しさをヨアシュは演出と判断した。

 すでにアッピウス侯爵がホルメア国奪還の御旗を掲げてから、早半年近くが経っている。普段からこのような状態ならば、とっくに街の人々も慣れているはずだ。住民が怯え隠れているところから、これらは自分の到着に合わせて演出されたものと見るのが妥当である。

 そして、それは破壊の御子から譲歩を引き出すためのものだろう。

 もし、本当にアッピウス侯爵が破壊の御子との対決を望むのならば、むしろここは戦いに備えている素振りすら見せず油断を誘う方が得策である。

 それがないということは、アッピウス侯爵の真意は武力による対決ではなく対話による交渉だ。

 これは思ったより簡単に交渉がまとまるかも知れませんね。

 そんなことを考えているヨアシュを乗せた馬車は街の大通りを抜け、中央広場へと出る。

「ほう。あれが噂のアッピウス侯爵様の屋敷ですか」

 馬車の小窓から顔を出したヨアシュは、広場の先に見える大きな屋敷に感嘆の声を上げた。

 周囲より一段高くなった土地に建つ屋敷は、飾り気の少ない無骨な要塞を思わせるものであった。窓などが屋敷の大きさに比べれば小さく作られているのも、戦いとなったときに矢や投石などが飛び込んでくるのを防ぐためだろう。そして、屋敷の周りには小さいながらも堀が掘られ、近くの川から引かれた水がキラキラと輝いていた。

 自らを武将と任じるアッピウス侯爵らしい屋敷である。

 そんな屋敷の中で唯一異彩を放っているのは、大きな露台(バルコニー)であった。広場を見下ろすような位置に設けられた露台は、そこだけは欄干やその柱に彫刻が施されている。また、その背景となる壁などにも色鮮やかなタイルが貼られ、広場から見上げると、無骨な屋敷の中でそこだけはやけに目立っていた。

 噂によると、そこはアッピウス侯爵が出陣の号令や法の発布などを行うための場所らしい。

 無骨な武将と言いながら、ずいぶんと見栄っ張りな方ですね。

 そう冷笑を浮かべるヨアシュが乗る馬車は、小さな堀に架けられた跳ね橋を渡り、屋敷へと入った。すると、すぐにヨアシュはアッピウス侯爵が待つ部屋へと案内される。

「貴様、反乱奴隷の頭目に何を言われて我が領地に足を踏み入れた?」

 私的な来客に使われている小さな部屋に通されたヨアシュを迎えたのは、アッピウス侯爵の不機嫌そうな声であった。挨拶もさせずにいきなり斬りつけるような文言を投げつけてくるばかりか、アッピウス侯爵自身も戦装束を身にまとい、今にも出陣するのかという(よそお)いである。

 アッピウス侯爵は忌々しいとばかりに舌打ちをひとつ洩らしてから続けて言う。

「ジェボアの商人ギルドに関わりがある者でなければ、とうにその首を切り落とし、反乱奴隷の頭目へ送りつけているところだ。それを心得た上で言葉を吐け」

 これにヨアシュは頭を下げて「ご慈悲に深く感謝いたします」と口にはしながら、アッピウス侯爵の見えないところで舌をちろりと出した。

 本当に今から王都へ向けて出陣するつもりならば、もっと広い謁見の間のようなところで臣下の騎士たちを前に、堂々と宣戦布告をしてみせれば良い。そちらの方が騎士たちの士気も上がろうというものだ。

 そうではなくわずかな侍従だけを置いて、このような小さな部屋で対面したということは、それはとりもなおさずアッピウス侯爵の真意が対話であることを裏付けるものでしかない。

 ヨアシュは「せいぜいご期待どおりに怯えて見せましょう」とばかりに、身体を小刻みに震わせて視線を落ち着きなく動かしながら言上する。

「恐れながら北部諸侯の盟主と誉れ高きアッピウス侯爵閣下に申し上げます」

 今や破壊の御子はただの反乱奴隷の頭目ではなく、ホルメア国の大半を掌握する強大な勢力であること。また、わずか数ヶ月だがその治世を万民は歓呼で受け入れ、急速に地固めが進んでいること。いかに北部諸侯といえども、これを打ち破るのは容易ではなく、戦となれば互いに大きな損失を出すであろうこと。それはまたジェボアの商人にとっても望むものではなく、こうして両者の仲介を買って出たこと。

 そうしたことをヨアシュは喧噪溢れる市場で鍛えた良く通る声で、アッピウス侯爵へと説いていった。

 そして、その上で他の諸侯らと同じく、破壊の御子に降ってその法の支配を受け入れれば、身分は名ばかりのものとなり、領地の自治権は失われるが、その生命と財産などは保障する旨を伝える。

 それに黙って耳を傾けていたアッピウス侯爵は、ヨアシュが言い終えてからも、しばらく仏頂面を作ったまま黙っていた。仕方なくヨアシュが「いかがでしょうか?」と答えを催促すると、ようやく口を開く。

「すでに降った者らと同列に見られるとは屈辱である。私をはじめとした北部諸侯は、父祖より受け継いだ名誉と生まれ育った土地を守るためならば命を惜しまぬ! 兵のひとりひとりが不死の神兵のごとき勇猛さを示し、反乱奴隷の頭目をホルメアから追い出すであろう!」

 アッピウス侯爵の断固とした宣戦布告――ではありませんね、とヨアシュは判断した。

 宣戦布告ならば、もう議論する余地はないとばかりに席を立つなりヨアシュを追い出すなりすれば良い。今もそうせずにこちらの反応を待っているところから見れば、今のアッピウス侯爵の言葉は次のような内容となる。

「すでに降った諸侯と同じ扱いでは不満だ。北部諸侯の地位と領土を安堵しろ。さもなければ戦うぞ」

 しかし、すでに多くの諸侯らが、この条件を呑んだ上で蒼馬に従っているのである。今さらアッピウス侯爵ら北部諸侯にだけ特別扱いはできないのだ。もし、特別扱いを要求するのならば、それ相応の理由をアッピウス侯爵らが示さねばならない。ところが、アッピウス侯爵は戦いを回避したければ、自分らを優遇しろと示すのみである。

 これにヨアシュは呆れた。

 いくら北部諸侯と言えども、しょせんはホルメア国の一部にすぎない。ホルメア国の大部分を掌握した蒼馬からしてみれば、もはや北部諸侯など鍋の中で泳ぐ魚のようなものである。いつでも火にかけて煮ることができるのだ。

 アッピウス侯爵へは、その面子を保つために多少は表現を和らげて伝えたものの、そのこともしっかりと説明したはずだ。

 ところが、アッピウス侯爵は、それに気づいていない。いや、気づいていても認められないのだろう。そればかりかかつてのホルメア国と同様に、広大な領地を有した侯爵である自分が配慮されてしかるべきと思い込んでいる。

 これはダメだな。

 この時点でヨアシュは、アッピウス侯爵を切り捨てた。

 もともとヨアシュが北部諸侯への使者に名乗り出たのは、蒼馬が構築しようとしているジェボアの自由交易圏に北部諸侯の領地を組み入れるためである。

 何しろ北部諸侯の領地の中には優良な鉱山が数多い。それはアッピウス侯爵の領地も同様である。

 そして、そこから得られる金属類の大半を取り扱っているのは、ジェボアの商人ギルドの十人委員のひとりコルネリウスであった。

 このまま蒼馬と北部諸侯の対立が長引けば、コルネリウスの商売に差し支えてしまう。

 コルネリウスとは先のホルメア戦役においてマーベン銅山の銅で迷惑をかけている。それについては、その後に銅を格安で譲ることで互いに遺恨を残さないと手打ちにはしていた。

 しかし、ここで早期に北部諸侯の問題を解決することで、さらにコルネリウスへ恩を売れば、ジェボアにおけるシャピロ商会の存在感は増すだろう。

 そんな思惑から使者となったのだが、現状が見えていない――もしくは、見ていないアッピウス侯爵のこの有様では、交渉による解決は当面見込めない。

 ヨアシュは胸の内で、ひとりごちる。

「腐った果実は早急に取り除くのが貿易船の心得ですからね」

 ヨアシュは北部諸侯を武力によって蒼馬に解決してもらうことに決めた。

 もちろん、多少の不利益はあったとしても戦を回避したいだろう蒼馬の意向は承知している。しかし、ヨアシュはあくまで蒼馬の商売相手でしかない。彼は根っからの「ジェボアっ子」なのだ。

 素早く頭の中で計算尺を叩いたヨアシュは、事前に蒼馬から提案されていた譲歩案のひとつだったが、ジェボアの自由交易圏を狭めてしまうためにあえて伏せていたものをアッピウス侯爵に提示する。

「もし、どうしても自分に従えないと言うのならば、アッピウス侯爵様をはじめとした北部諸侯の方々には独立すら認めても良いとソーマ様はおっしゃられております」

「ど、独立だとっ?!」

 アッピウス侯爵は驚愕した。

 独立を認めるとは、すなわち同じ国として認めるということである。

 これは地位と領土の安堵(あんど)どころの話ではない。これまで国から課せられた臣下の義務もなくなり、本当に領地のものがすべて自分のものとなる。そればかりか、いくら北部諸侯の盟主と呼ばれてはいても侯爵という臣下の位でしかなかった自分が、自ら王を名乗れるのだ。

 想定外の驚きと喜びに唖然とするアッピウス侯爵に、ヨアシュは身を前に乗り出して言う。

「はい。ソーマ様には領土拡張の野望はございません。此度(こたび)のホルメア国侵攻も、先にホルメア国側が侵略の意志を見せたがためにやむを得なく応じたまで。あくまでソーマ様が求めていらっしゃるのは平和であり友好なのでございます」

 人を堕落の道へ誘う悪魔さながらの笑顔で、ヨアシュは甘い言葉をささやいた。

「そのためには、アッピウス侯爵閣下と北部諸侯の方々とは良き隣人、また良き隣国としてともに手を取り合うのもやぶさかではない、とおっしゃられております」

「おお……。そうか、そうか! 破壊の御子という者も何と太っ腹な。いや、私は破壊の御子を見誤っていたやも知れぬ」

 わずか一掴みの土地であろうと己が領土を広げるために諸国が血道を上げているというのに、自国の領土を分け与えるようなまねを認めるとは前代未聞の話である。

 それだけに自らが王と呼ばれる光景に思いを馳せつつも、やはりどこかで不審を覚える様子のアッピウス侯爵に、ヨアシュはその背を押すダメ押しの言葉を放つ。

「アッピウス侯爵閣下の領地には、良質の銅を産出する鉱山があると聞き及んでおります。それに対してソーマ様のところには、あのドワーフの熟練工たちが多くおります。アッピウス侯爵様の銅をソーマ様が買い取る。その銅をドワーフたちが加工する。ドワーフが作った銅製品をジェボアが買い取る。そうすればお互いに利益によってつながり、またとない友好の時代となるのではないでしょうか?」

「なるほど。確かに、互いにとっても良い話だ……」

 アッピウス侯爵は自分を王と讃える臣民の姿と、銅の交易によって得られるであろう莫大な金貨の山を夢想し、熱い息を吐いた。

 しかし、それでもこの場で安易に承諾しては自らの沽券(こけん)に関わると思ったのか、咳払いをひとつしてから居住まいを正す。

「良い話ではある。だが、北部諸侯の盟友たちとも話し合わねばなるまい。その後、改めて当方より使者を送ろう。――破壊の御子と呼ばれる方には、よしなに伝えてくれ」

 先程までは反乱奴隷の頭目と罵っていたというのに、見事な手のひら返しである。

 ヨアシュは笑い出したいのをぐっとこらえ、最後の毒をアッピウス侯爵の耳に流し込む。

「お互いにかつての遺恨もありますでしょう。ですが、ともに手を携えるのが可能であれば、とても喜ばしいことと思われます」


                  ◆◇◆◇◆


 ヨアシュが辞去した後、アッピウス侯爵は部屋に残ったままひとり考え事をしていた。

 一時の興奮が過ぎ去ると、どうにもヨアシュの去り際の言葉が引っかかったのである。

 ヨアシュは去り際に「かつての遺恨」と言った。しかし、これまでアッピウス侯爵は直接には破壊の御子から被害を受けていない。せいぜい思い当たるのはワリウス王の反乱奴隷討伐の檄に応じて参集した際の軍費が無駄になった程度である。それだけでは、とうてい遺恨とは言えなかった。

 また、アッピウス侯爵ら北部諸侯らも破壊の御子に対して、これまで何かしたこともない。

 それなのにヨアシュは遺恨について「お互いに」と言ったのは、おかしな話である。

 さらに、ヨアシュは破壊の御子と手を結ぶのを「可能であれば」とも表現していた。他にも表現はあるだろうに、あえてそう表現したのも気になる。まるで、よほどあり得ないことだとでも言いたいとしか思えない。

 それがどうしてもアッピウス侯爵の脳裏に引っかかったのだ。

「銅とドワーフどもか……」

 やけにヨアシュが強調して言っていた銅とドワーフという単語を何気なくアッピウス侯爵は口にした。

 そのとたん、アッピウス侯爵はあっと驚きの声を上げる。

 先頃、破壊の御子に潰されたマーベン銅山。あのホルメア国で最大の銅産出量を誇っていた銅山は、もともとドワーフのものであった。それをホルメア国がドワーフから買い入れた銅が質の悪いものだったと因縁をつけた上で戦をしかけ、奪い取ったものである。

 それを思い出したアッピウス侯爵の脳裏に、衝撃とともにある推測が思い浮かぶ。

「まさか、まさか! 破壊の御子め、私に同じことを仕掛けるつもりでは……?」

 そのときのホルメア国と同じように、今度は自分ら北部諸侯が売った銅の品質に因縁をつけ、それを口実に破壊の御子が攻め寄せてくる可能性に思い至ったアッピウス侯爵は愕然とした。

 ましてや破壊の御子のところには、マーベン銅山にいたドワーフたちがいるのだ。彼らにしてみれば、自分らがつけられた因縁をそのまま返す形である。まさに格好の意趣(いしゅ)返しとなるだろう。

 普通ならば剣をもって雌雄を決すべきところを独立を認め、これより良き隣人、隣国として手を携えんとした我らを騙して悪質な銅を掴ませるとは許しがたい裏切りである。

 そう声高に主張し攻め寄せてくる破壊の御子軍勢の姿が思い浮かぶ。

「そうか! 破壊の御子めの狙いは、私にホルメア国復興の御旗を下ろさせることか!」

 アッピウス侯爵は確信を込めて、破壊の御子の狙いをそう読んだ。

 今ならばホルメア国復興と王族解放の御旗を掲げて王都へ攻め上がれる。そうすれば破壊の御子に降っているホルメア国の旧臣や諸侯だった者たちの間で、どちらにつけば良いのか動揺が広がるだろう。もちろん、自分らに加勢するところまでは期待していない。だが、少なくともそうした動揺する旧臣や諸侯らを警戒し、破壊の御子も北部諸侯に注力することはできなくなるはずだ。

 しかし、いったん独立を受け入れてしまえば、その御旗を下ろさないわけにはいかない。そして、いったん下ろしてしまえば、もはや二度とそれを掲げることは叶わなくなる。そこに言いがかりだろうと戦いを仕掛けられれば、北部諸侯は孤立したまま戦わざるを得なくなってしまう。

 もちろん、銅の品質に難癖をつけて開戦の口実にするというのは、完全なるアッピウス侯爵の思い込みに過ぎなかった。だが、それはかつて自分たちがマーベン銅山のドワーフにしかけた悪行である。自分がやった悪行ならば、他人もやるだろうと思うのが人間だ。もはやアッピウス侯爵の中では、それは確定した未来となっていた。

「何たる悪辣(あくらつ)な奴らめ!」

 北部諸侯のひとりであるアッピウス侯爵も、マーベン銅山をドワーフから奪い取る謀略には一枚噛んでいた。

 それなのにマーベン銅山のドワーフたちが聞けば、目をひん剥いて「おまえが言うな!」と激怒するようなことをアッピウス侯爵は大真面目に憤っていた。

 しかし、すぐにアッピウス侯爵は焦燥もあらわに独り言を洩らす。

「だが、だからといってどうすれば良いのか……?」

 このままではジリ貧である。

 すでに物流に大きな支障が生じていた。大きな隊商ばかりか行商人すらなかなかやってこなくなったために、領内では生産できないものが品薄となり価格が高騰していた。特に生活必需品である塩などは、それが顕著である。

 また、領内の若い男たちを少なからず徴兵しているため、いたるところで労働力が不足し、不平不満の声があがっていた。

 これが長引けば、破壊の御子と戦うよりも先に足許が崩れてしまう。

 しかし、だからといって今すぐ王都へ攻め上がるのも愚策だ。北部諸侯すべての兵をかき集めても、その兵力は一万にも届かないだろう。たったそれだけでは、破壊の御子が立て籠もる厚い城壁を持つ王都ホルメニアを攻め落とすことなどできはしない。

 すでに破壊の御子に降ったホルメア国の旧臣や諸侯らが内応すれば話は別だが、いまだいずれの者たちも自分の(げき)に応じる気配はなかった。いくらホルメア国復興の御旗を掲げていても、おそらくは戦の趨勢(すうせい)が定まらないうちは、彼らも動かないだろう。

「国難に際して我が身かわいさからの日和見とは、不届きな奴らめ!」

 アッピウス侯爵は、そう憤慨する。

 しかし、それを向けられた旧臣や諸侯らも、かつてセサル王の謀略にはまってワリウス王のロマニア国軍撃退の檄を傍観したアッピウス侯爵だけには言われたくないと思うことだろう。

 苛立ちもあらわに椅子の肘掛けをせわしなく指で叩きながら、今後の方策を練っていたアッピウス侯爵のところへ侍従がやってきた。

「旦那様。今、使者と名乗る者が訪れております」

「使者だと! いったい、どこのどいつからだ?!」

 八つ当たりのように吠えられた侍従は怯えながらも、職務を遂行する。

「それが、どこのどなたからの使者だと言わないのです。――ただ、これを余人に見られぬように旦那様に見ていただければわかる、と」

「私が直々に確認しろと言うのかっ?!」

 言外に「無礼にもほどがある!」と叱責を込めて言うアッピウス侯爵に、侍従は恐れながらも小さな革袋を差し出した。

 それを侍従から奪い取るような乱暴な手つきで手にしたアッピウス侯爵は、その袋を空けて、しばし目を見開いた。

 その中に入っていたのは、小さな印章である。

 そして、そこに彫られた図柄は、アッピウス侯爵も知るあるホルメア国貴族のものだった。

「……その使者を人に見られぬように、ここに通せ」

 絞り出すようなアッピウス侯爵の命を受けた侍従は、程なくしてひとりの男を連れてきた。

 一見すると行商人のようにも見える男だったが、アッピウス侯爵に対して行った礼は騎士のものである。

「アッピウス侯爵閣下の御前にての無礼をお許し下さい」

 そう一言断ってから男は取り出したナイフで自分の上着の一部を切り裂いた。すると、そこから上着に縫い込まれていた一通の書状を取り出す。

「我が主人から、閣下へのお手紙にございます」

 恭しく捧げ持つように差し出された手紙をアッピウス侯爵は侍従を介して受け取ると自ら目を通す。

 手紙を読み進めていく内に、アッピウス侯爵の目が驚きに見開かれていく。手紙に書かれていたのは、行き詰まっていたアッピウス侯爵にとって、希望の火となるものだった。そして、その火はアッピウス侯爵の野心に燃え移ると、瞬く間に激しく燃え上がる。

「……ふふふ。なるほど。そうか、そうか!」

 熱病のような熱い興奮に浮かされたアッピウス侯爵は、何度もうなずいた。それからやにわに椅子から立ち上がると侍従に命じる。

「すぐさま北部諸侯の盟友らに使いを出せ! いつでも王都へ挙兵できる用意をされたし、とな!」


                  ◆◇◆◇◆


 アッピウス侯爵が密書を受け取っていた、ちょうどその頃。王都ホルメニアにいる蒼馬のところで、新たな動きがあった。

「ソーマ様に、是非ともおねがいしたい()がございます」

 平蜘蛛のように平伏しながら男は、そう言った。

 そこは蒼馬の執務室である。

 堅苦しい礼儀が苦手な蒼馬は、そんなに平伏しなくても良いと立ち上がるようにうながすが、男は恐れ多いと立ち上がろうとしない。これでは(らち)が明かないと、蒼馬は仕方なく「なんでしょうか?」と尋ねた。

「はい。実は、ワリナ元王女殿下のことについてでございます」

 平伏した男――元ホルメア国宰相のメンダックスは顔を伏せたまま、ニヤリと笑った。

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