第7話 魔術
「いい加減に起きろ」
そんなアドミウスの声とともに水を顔にかけられた「黒壁」の将兵たちは飛び起きた。
しかし、すぐにまた頭を抱えて座り込み、うめき声をあげる。
ひどい二日酔いであった。
蒼馬に大敗して以来、ひと月以上もの間ずっと山野に潜んでいたのである。その間は食べるものにすら困窮していて、当然酒など手に入るはずもなかった。久しぶりに口にできた酒に、ついつい羽目を外してしまったようだ。そこにドワーフらがこっそりと持ち込んだ蒸留酒も加わった結果が、この有様である。
アドミウスは醜態を晒す僚友らの尻を蹴飛ばす。
「しゃんとしろ。――あちらに井戸がある。水を飲んで顔を洗え。少しはマシになる」
今より少しでも楽になると思えば、「黒壁」の将兵らは重い足を引きずって井戸へと向かった。その光景は、さながら幽鬼の行列である。
途中で何度もへたり込みながらも、何とか王宮の片隅にある井戸についた彼らは思い思いに水を頭からかぶったり、桶に口をつけて水を飲んだりした。そのおかげで多少はマシになったが、それでも残る頭痛と吐き気に座り込んでうめく仲間に、アドミウスは尋ねる。
「これからどうする?」
それに「黒壁」の将兵らは、二日酔いの頭痛とは別の理由で顔をしかめた。
これが「破壊の御子に仕えるか?」という質問ならば、否定すること渋ることもできただろう。しかし、アドミウスが発した問いは、そうしたものをひっくるめて今後どうするかというものだった。
自分らのいた「黒壁」は壊滅し、ホルメア国は滅んでしまった。だが、自分らはまだ生きている。そうなると、最大の問題は今後どうやって生きていくかだ。
誰もが顔をしかめて黙り込む中で、ひとりの男がアドミウスに尋ねた。
「破壊の御子の奴は、何と言っているのだ?」
アドミウスを使って自分らを呼び寄せたのだ。きっと自分らに臣従を強いてくるのだろうと思っての問いだった。
だが、アドミウスは苦笑しながら答える。
「昨夜は楽しい話を聞かせてもらったので、どこかに行くと言うのならば謝礼に路銀を下さるそうだ」
これに「黒壁」の将兵らは驚いた。皆を代表して、そのうちのひとりがアドミウスに憮然とした表情で問う。
「俺たちに仕えろとは言っていないのか?」
彼らは自分らがホルメア最強の軍団「黒壁」の勇士であるという強い自負がある。これまで「黒壁」の将兵といえば、ホルメア国中の領主から騎士として召し抱えたいと引く手あまただったのだ。それなのに、自分に仕えろの一言もなく、帰りたければどうぞと言わんばかりの蒼馬の態度に、男たちは憤慨していた。
その気持ちはアドミウスもよくわかる。彼とて蒼馬と僚友らを引き合わせたのは、仕官させるのが目的だったのだ。
そのため、すでに蒼馬に僚友らを召し抱えるつもりはないのかと尋ねて次の答えをもらっていた。
「それを望んでくれればうれしいが、自分からは無理強いはしたくない、だそうだ」
蒼馬もダリウス将軍と「黒壁」の深い関係を聞かされていた。そのため、そのダリウス将軍の失脚の要因となった自分へ仕えないかとは言いにくかったのである。
それを聞かされた「黒壁」の将兵は複雑な顔になった。
確かにダリウス将軍のことを思えば、破壊の御子は憎き仇だ。
その破壊の御子が服従を強要してこようものならば、俺たちを侮辱するなと剣を取って戦いを挑み、誇りを胸に最期を迎えられただろう。
ところが、当の破壊の御子は敗者である自分らの罪も問わず、歓待してくれた。その上、服従を強要するどころか、こちらを気遣ってさえいるのである。
そんな相手に勝てる見込みもない戦いをふっかけるのは、幼児の駄々と変わりない。誇り高き「黒壁」の将兵らには、そのような恥ずかしいマネはとてもできなかった。
長い付き合い故に、その複雑な胸中が手に取るようにわかるアドミウスは提案する。
「どうする? ここで剣を置くのも選択のひとつだと思うが?」
戦うことも仕えることもできないというのならば、戦士であるのをやめて、ただの人として余生を送るのもありだというアドミウスの提言に、皆はいっせいに顔をしかめた。
この場にいる「黒壁」の将校らの多くは、アドミウスと同様に十代半ばでダリウス将軍に見出されて「黒壁」の一員となり、それから二十年以上戦い続けてきた歴戦の猛者たちである。その年齢はすでに四十前後だが、鍛え上げた気力と体力は、まだまだ衰えていない。誰もが「俺はまだまだやれるぞ!」という気概に満ちていた。将校よりも若い兵たちならば、なおさらである。
「剣を置くつもりがないのなら、傭兵にでもなるか? それともどこかに仕官を求めるか?」
そのアドミウスの問いかけに、皆は難しい顔になる。
元「黒壁」の将兵であれば、たとえ傭兵に身をやつしても一目置かれる存在となれるだろう。
しかし、しょせん傭兵は傭兵にすぎない。戦場ではもっとも危険なところへ追いやられ、使い潰されるのが関の山である。
ならば仕官を求めるしかないが、問題はどこの誰に仕えるかだ。
真っ先に思いつくのが、ホルメア国の北部諸侯――取り分けその盟主と名高いアッピウス侯爵だった。
アッピウス侯爵を中心とした北部諸侯は、破壊の御子のホルメア国侵略を痛烈に批難し、諸侯らに結集とホルメア国奪還を呼びかけている。いつ破壊の御子との戦端が開かれてもおかしくない現状ならば、自分ら「黒壁」の将兵は北部諸侯に諸手を挙げて歓迎されることだろう。
また、「黒壁」としても敬愛するダリウス将軍の宿敵である破壊の御子を打ち倒すのに一役買えれば、これに勝る喜びはない。
アッピウス侯爵に仕官するのも良いのではないかと、皆は考えた。
ところが、それも仲間のひとりが洩らした言葉で一変する。
「あの腰が定まらないアッピウス侯爵だぞ。あれに仕えるというのは……」
ホルメア国の諸侯の中では、アッピウス侯爵の戦歴と軍功は群を抜いている。だが、反乱奴隷討伐軍の総大将という大役を任せられながらも、マーベン銅山を襲撃されるや否やその大役を返上して領地に戻ったり、ロマニア国軍を迎え撃とうというワリウス王の檄を無視して日和見とも思える行動を取ったりと、どうにも信用がおけない。
また、今はホルメア国奪還を謳ってはいるが、利に聡いアッピウス侯爵だ。領土と爵位の保証が得られれば、あっさりと破壊の御子に降る恐れがあった。
そうなれば破壊の御子を討ち果たすため仕えていたのに、気づけば破壊の御子の臣下のそのまた臣下に落ちぶれてしまうことになる。
その光景を思い浮かべ、誰もが苦い顔になった。
「だが、そうなると俺たちが仕えるに値する人物が、この西域にいるのか?」
その僚友の問いに真っ先に思い浮かべられるのは、ダリウス将軍と並び称せられていたロマニア国の大将軍ダライオスだ。
その人間の域を超えた剛勇ばかり目立つが、大軍を率いる指揮官としても決して無能ではない。
しかし、侵攻時のロマニア国の蛮行を聞けば、とうていホルメア国人としてはロマニア国に恭順することはできなった。
そして、それよりも問題なのが、ある噂である。
「近いうちに、王宮の豚がロマニア国に送られるらしい」
アドミウスの言葉に、僚友らは間違って腐った食べ物でも口にしたような顔になる。
王宮の豚とは、王弟ヴリタスのことだ。
ヴリタスが王位簒奪を目論んでロマニア国軍を国内へ手引きしたのは、すでに「黒壁」の将兵らも聞き及んでいた。怠惰で享楽的であるばかりか、これまでにも何度となく国事をもおろそかにしてきたヴリタスは、謹厳実直を旨とし武を貴ぶ「黒壁」の将兵らがもっとも嫌う人間である。しかも、そんな男がよりにもよって母国を仇敵ロマニア国に売ったがために、敬愛するダリウス将軍が戦死したと思えば、とうてい許せるものではなかった。
しかし、名目上とはいえヴリタスをホルメア国王と認めているロマニア国に仕えて破壊の御子と戦うと言うことは、とりもなおさずヴリタスのためにホルメア国を取り返すことに他ならない。
「子守りだけでも二度と御免だというのに、今度は豚の世話だと?」
アドミウスは吐き捨てた。
「冗談ではない。そんなことになるぐらいなら、とっとと首を掻き切って閣下の御許に赴き、叱責される方がマシだ」
ダリウスは将兵らが命を無駄にするのを特に嫌っていた。それなのに自害でもしたら、冥府でダリウスに再会したとき、いかなる叱責を受けるやもしれない。将兵らに寛容で知られるダリウスであったが、不名誉な行為に対してだけは厳しかったのを「黒壁」の将兵らはよく知っている。
しかし、それでもあのヴリタスの下につくよりかは良い。
ロマニア国に仕官するなど、もはや論外の中の論外であった。
「だが、そうなると……」
そう洩らした僚友が口にはしなかった言葉の続きは、誰もが理解していた。
消去法でいけば、この西域で自分らが仕えるに値すると考えられるのは、残るのはただひとり。
ホルメア国最高の将軍と呼ばれたダリウス将軍をして生涯最強の宿敵と呼び恐れさせ、その卓越した軍才は自分らも身をもって知らされたばかりの男。
すなわち、破壊の御子である。
「しかし、なぁ……」
そう洩らした僚友の気持ちは、そこにいたすべての「黒壁」の将兵らに共通したものだった。
強敵こそ憎しみではなく敬意を持てと教え込まれた「黒壁」の将兵といえど、ダリウス将軍のことを思えば「はい、そうですか」と簡単に受け入れられるものではない。
しかし、考えれば考えるほど、破壊の御子以外に選択肢はないように思える。
皆が難しい顔で黙り込んでしまったのに、アドミウスはフッと苦笑を浮かべてから言う。
「俺は今でも『黒壁』が最強だと思っている」
この唐突な言葉に、皆はアドミウスを注視する。
「確かに、俺たちは破壊の御子に負けた。惨敗だ。――だが、あれはしょうがない」
アドミウスの脳裏に、ある言葉が思い浮かぶ。
兵を動かしたときには、すでに勝利が確定している。これが理想である。
これはダリウス将軍がよく口にしていた言葉だ。
このダリウス将軍の言葉をアドミウスは、自分ら「黒壁」が動けば、必ずや勝利をもたらすという意味で捉えてきた。
しかし、それは勘違いであった。
後世では「スノムタの屈辱」と呼ばれる戦いで、なぜ自分らが大敗したのか知ろうとしたアドミウスは、多くの当事者から戦いの流れや蒼馬本人からも戦う前に打った布石の数々を聞き、唖然とした。
あの戦いは、ホルメア国最強の軍団「黒壁」を完膚なきまでに粉砕するためだけに、すべてが仕組まれていたのである。
それなのに、そうとは知らずに自分らがのこのこと兵をあの地に進めた時点で、破壊の御子の勝利は確定していたのだ。
まさに、ダリウス将軍が言う理想の戦いだったのである。
これは負けるはずだ。
これが「スノムタの屈辱」の全容を理解したときのアドミウスの偽らざる本音であった。
しかし、アドミウスが「だがな」と続ける。
「それは、軍を率いる将の差だ。兵としての俺たち『黒壁』は、いまだ最強であると俺は確信している」
そもそも「黒壁」は、ホルメア最高の将軍ダリウスという頭脳を支える屈強な肉体として作られた軍団だったのだ。その肉体としての強さは、いまだ失われていないとアドミウスは言う。
「それだというのに、俺たちの世間の評判はガタ落ちだ」アドミウスは顔をしかめると舌打ちを洩らす。「――ハリボテの最強軍団?! 今まで弱い敵としか戦っていなかっただけだと?! 冗談ではない! 俺たちが、俺たちの『黒壁』が、こんなことを言われて我慢できるものか!」
アドミウスは拳を握ってみせる。
「たとえいかなる汚名をかぶろうとも! 俺は、俺たちの『黒壁』の最強を証明せねばならない! そのために仕えるに値する将と、我らが槍を振るうに足る戦場が必要なのだ!」
そこでアドミウスはほろ苦く笑ってみせる。
「閣下のことも、同じだ。破壊の御子には、せめて西域統一ぐらいでもしてもらわねば、あいつに破れた閣下の名誉が守れないではないか」
それに皆は驚いた顔になる。
西域統一はホルメア国とロマニア国が数百年かけても成し遂げられなかったものだ。確かに、それほどの偉業を成すような相手ならば、ホルメア国最高の将軍と言えども負けても仕方なかったと思われるだろう。
その場にいた「黒壁」の将兵らは、皆一様に押し黙り、考え込んでしまった。
そんな僚友らに、アドミウスはダメ押しの一言を放つ。
「それと、昨夜の酒はまずくはなかっただろう?」
皆の顔に微苦笑が浮かぶ。
それから互いの顔をしばし見合わせてから、大隊長だった男が皆を代表して言う。
「アドミウス。破壊の御子などに仕えるなど業腹もいいところだ」
そう念を押してから、言葉を続ける。
「だが、生き残りの中で階級がもっとも高いのは、おまえだ。ならば、俺たちはおまえに従うしかない」
出自や家柄ではなく、その者個人の能力だけを重視する「黒壁」では、その軍団内での階級と世間一般の身分の高低が逆転してしまうことがしばしばある。そのため「黒壁」では出自や家柄を持ち出すのは無粋とし、軍団内での階級が高ければそれが犬でも従えという不文律があった。
それを守るならば、連隊長の中で唯一の生き残ったアドミウスの決断に、皆は従わなければならない。
しかし、その言い草にアドミウスは眉をひそめた。
血を分けた親兄弟よりも固い絆で結ばれた戦友たちだ。彼らが「黒壁」の不文律を盾にしなければ、破壊の御子に仕えると言えない心境もよくわかっている。
だが、とアドミウスは自分の頬に指先を触れた。
そこにあるのは、触れれば今なおも痛みを訴える青痣だ。それらは破壊の御子に会ってくれとアドミウスが言ったとたん、ほとんどすべての者が「裏切り者」や「恩知らず」と罵りながら殴りかかってきたためにできたものである。
アドミウスは半目になって言う。
「それならば、俺はなぜ殴られたのだ?」
皆はいっせいにアドミウスから顔を背けたのだった。
◆◇◆◇◆
その日のうちに、アドミウスから生き残った「黒壁」すべての将兵らの臣従を申し出られた蒼馬は、その場でそれを快諾した。
人数は少なくなってはいたものの、ホルメア国最強の軍団として作られた「黒壁」である。解体して他の兵とまぜるよりかは、少数であっても精鋭の部隊として活用した方が良い。
そう判断した蒼馬は、アドミウスをセティウスと同等の副将として人将マルクロニスの下につけるとともに、「黒壁」は独立した部隊として存続させ、その指揮官に任命したのである。
この「黒壁」の名と姿を残す蒼馬の配慮は、「黒壁」に強い愛着と帰属意識を持つ者たちを大いに感動させたのだった。
しかし、そんな彼らよりも喜んでいたのは、実はシェムルである。
蒼馬を「臍下の君」として深く忠誠を誓うシェムルをしても、昨夜の蒼馬の醜態はなかった。自分ならばともかく、あのような醜態を見れば他の誰だろうと仕えたいとは思えない。おそらく「黒壁」の将兵らも、すぐに立ち去るだろうと考えていた。
ところが、翌朝になってみれば「黒壁」の将兵らすべてが蒼馬に臣従を誓ったのである。
これにシェムルは、「さすがは、我が『臍下の君』。その人徳の深さは、私ごときに計れるものではなかったのだ」と、見当違いな感心をしていたのである。そんなご機嫌なシェムルは、蒼馬を茶化す。
「なあ、ソーマ。おまえは魔法でも使ったのか?」
それに蒼馬は盛大に顔をしかめた。
しかし、それは機嫌を損ねたわけではない。実は今朝起きてからずっと蒼馬は頭痛と吐き気と胸やけを我慢していたのだ。
つまりは、二日酔いである。
そのような状態では、シェムルの浮かれて高く弾む声は頭にガンガンと響くのだった。
たまらず蒼馬は言う。
「お願い、やめて。そんな大きな声を出さないで……」
息も絶え絶えな様子で懇願する蒼馬に、シェムルは「おっと、悪かったな」と慌てて謝罪したのである。
頭痛と吐き気に悩まされて注意が散漫となっていた蒼馬は、このときの自分とシェムルとの会話を聞いていた周囲の人々がギョッとした顔になったのに気づくことはなかった。
◆◇◆◇◆
風に聞くところによれば、「黒壁」の勇士たちが破壊の御子ソーマ・キサキに呼び出されたという。
今は亡きダリウス将軍を敬愛する勇士らは、破壊の御子に恭順するのを拒んだ。だが、わずか一夜明けると彼らはそれまでの意志を翻し、破壊の御子に恭順を申し出たという。
それに、忠実なるシェムルが破壊の御子ソーマ・キサキに問うた。
「我が君よ。魔術でも用いられたか?」
それに破壊の御子ソーマ・キサキは顔をしかめて、こう答えた。
「やめよ。大きな声で言うものではない」と。
人々は、またもや破壊の御子が大きな声では言えないおぞましい魔術を用いて、勇士たちを従えさせたのだろうと恐れおののいたという。
哲学者セネスの「風聞録」より抜粋。