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第1話:返り血の女と、煩悩の男

  1. 血塗れの逃亡者


「……やってしまった」


 真野マノは、人生最大の絶望に立ち尽くしていた。


 親友の引っ越し祝い。白を基調とした清潔なキッチン。

 そこで彼女が振る舞うはずだったのは、得意のオムライス……のはずだった。


 どこでボタンを掛け違えたのか。

 勢いよく開栓したケチャップのボトルが、まるで意思を持つ蛇のようにのたうち回り、新築の壁と、彼女の白いワイシャツに「鮮血」をぶちまけた。


「あ、あああ……タオル! タオル取ってくる!」


 パニックは思考を焼く。友人の制止も耳に入らない。

 真っ赤に染まった胸元を押さえ、マノは弾かれたように部屋を飛び出した。


 エレベーターへ駆け込み、屋外の冷気を吸い、ようやく行動の異常さを自覚する。



 ふと、右手に冷たい違和感を覚えた。

 視線を落とすと、そこには鈍く光る抜き身の包丁が握られていた。


 無意識に、調理中のまま持ち出してしまったのだ。

 血のような赤にまみれたシャツ。そして、凶器。


「これじゃ、ただの殺人鬼じゃない……!」


 不審者として通報される前に戻らなければ。

 彼女は顔面を蒼白にしながら、再びマンションのエレベーターへと引き返した。


 


  2. 煩悩の運び屋


 一方、同じマンションの別フロア。

 津村ツムラは、猛烈なスピードで階段を駆け上がっていた。


「あのバカ、なんて荷物を渡しやがった……!」


 友人宅でのテスト勉強を終えて帰宅したはずが、手元にあるのは自分の物と瓜二つのバッグ。

 中身を確認した彼は、心臓が止まるかと思った。


 そこには、溢れんばかりの成人向け雑誌が詰め込まれていたのだ。


 今すぐ返さなければ。あいつはこれから出かけると言っていた。

 もしこのまま中身が露見すれば、一生消えない「変態」の烙印を押されるのは、今これを持っている俺だ。


「頼む、誰にも会うな……!」


 ツムラは、脂汗を流しながらエレベーターのボタンを連打した。


 


   3. 暗闇と、包丁と、エロ本と


「あ」


 エレベーターの扉が開く。

 飛び込もうとしたツムラと、飛び出そうとしたマノが、正面衝突した。


「痛っ……!」

「うわっ!?」


 衝撃で床に転がる二人。

 その瞬間、マノの手からケチャップまみれの包丁が滑り落ち、カランと乾いた音を立てた。


 同時に、ツムラのバッグのジッパーが弾け、中から極彩色のグラビアが、扇を広げるようにフロアへぶちまけられた。


 二人は凍りついた。


 返り血を浴びた女と、禁書の山に埋もれた男。

 弁解の言葉を紡ごうと、互いに引きつった口を開きかけた、その時だった。


 ──ブゥン。


 重苦しい音と共に、照明が死んだ。

 エレベーターが激しい振動ののち、完全に沈黙する。


「…………え」

「…………うそだろ」


 一寸先も見えない暗闇。

 密閉された箱の中に残されたのは、鉄の匂いがする包丁と、紙の匂いがする大量の煩悩。


 そして、初対面で「最悪の属性」を背負わされた二人だけ。


「……あの、とりあえず、その包丁を降ろしてもらえませんか。刺さないでください」


「……それを言うなら、その本、全部隠してください。見ないでください」


 二人の最悪で、ちょっとだけ奇妙な夜が、今始まった。


 


   4. 記憶の断片と、拭えない疑惑


 暗闇の中、カチリとスマホのライトが点いた。

 限定的な光の輪が、エレベーターの床を不自然に照らし出す。


「……っ」


 ツムラは息を呑んだ。

 ライトに照らされた横顔。パニックで乱れた髪、記憶の中よりも少し大人びた輪郭。


(マノ……さん……?)


 それは中学時代、密かに想い続けていた初恋の相手、真野だった。


 漂ってくるのは、鼻を突くケチャップの酸っぱい匂い。

 だがその奥に、微かに清潔なシャンプーの香りが混じった。

 ツムラが何度も、遠くから追いかけていたあの頃と同じ匂いだ。


 しかし、感傷に浸る余裕はない。ツムラの足元には、散乱した「煩悩の山」がある。


(よりによって、マノさんの前で……! 違う、これは俺のじゃなくて、あいつの……!)


 必死に本をかき集めるツムラの脳裏に、別の寒気が走った。

 彼女の白いシャツにべっとりと付着した赤。そして、床に転がる包丁。


(ケチャップ……だよな? 料理の帰り……だよな? でも、もし「本物」だったら? 彼女は今、上で何をやってきたんだ?)


 憧れの人は、凶悪犯かもしれない。

 そして、その憧れの人は、自分を底辺のド変態だと思っている。


 


   5. 戦慄の護身術


 一方、マノは純粋な恐怖に震えていた。

 スマホの逆光で、男の顔はよく見えない。


 ただ、必死な手つきで「卑猥な表紙」を次々と回収するその姿は、彼女の目には異常者の執着にしか映らなかった。


(なんなの……なんなのこの人! こんな状況で、まだそれ(本)が大事なの!?)


 密室。停電。そして足元には、目を覆いたくなるような雑誌の山。

 隣にいる男が、獣のように荒い息を吐いている。


(怖い……。何をされるか分からない。逃げ場もない。もしこの人が襲ってきたら……!)


「ヒッ……」


 ツムラが本を拾おうと、マノの足元へ手を伸ばした瞬間。

 マノは反射的に、拾い上げたばかりの包丁を胸の前で突き出した。


「こ、来ないで……! 近寄ったら刺すから! 本当に刺すから!!」


「えっ、あ、待って! 誤解だ、これには深いわけが──」


「わけなんて聞きたくない! 変態! エロ本魔人!!」


 暗闇の中で、銀色の刃先がスマホの光を鋭く反射する。


 ケチャップまみれの「加害者(仮)」と、エロ本まみれの「被害者(仮)」。

 二人の距離は、初恋の思い出を粉々に砕きながら、最悪の緊張感に包まれていた。


     挿絵(By みてみん)


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