神に食われる女と神を屠る男1
結衣は冷たい水の中に体を浸した。目を閉じれば、あの日、お祖父様と交わした最後の会話が鮮明に蘇ってくる。
その日は秋から冬に変わる寒い日で、いつもと変わらない和室での穏やかなお茶の時間だった。
数日後に迫る継承の儀式について祖父に心構えを聞いている――そんな少し特別で、それでも日常の延長上にある日だった。
「結衣、七条家が祀る神は守護をしてくれるのではない、寄生するのだ」
どういう意味だろう、と眉をひそめる。祖父は懐かしそうに目を細めた。
「七条家の神の眠りを破らない、それが当主の条件だ」
「……だから美結ではなく、私が選ばれたのですか?」
結衣には双子の妹がいる。同じ顔、同じ姿、同じ能力。すべて、優劣をつけられないほど同じ。等しく教育を受け、そして、三日前、選ばれたのは結衣だった。
「美結の貪欲さは均衡を破るだろう。それにお前たちの両親は美結を可愛がりすぎている」
両親のことを言われ、結衣は目を伏せた。両親が結衣よりも美結を愛しているのは生まれてからずっとそうだった。自分の何が悪かったのかはわからない。
(七条家の当主になるのは、自分よりも美結の方が向いている)
それは能力の問題ではなく、美結には人を従える何かがあった。そう思うものの、祖父の決定に否とは言えない。
「継承の儀式には帝都から黒曜の隊長が立ち会う。お前は彼と面識はあるか?」
「一度だけ、黒曜の隊員と挨拶をしましたが、隊長とはまだ」
黒曜は帝直属の組織――神を祀る家にとって、あまりいい存在ではない。結衣の表情がわずかに曇る。だが、次期当主として怯えを見せたくなくて、目を伏せる。
「彼らが怖いか?」
「……だって、つい先日も継承失敗した家が処分されたから」
不安に揺れる顔を上げた、その時だった。結衣の頬に血が飛んだのは。ぴしゃりと生温かな血が頬に飛んだ。
「え?」
とっさに何が起こったかわからない。ただ、祖父が目の前で苦しげに胸を押さえ呻いている。
「お祖父様?」
「ぐうううっ……!」
祖父の背中からたくさんの目を持つ異形の神が這い出てきた。背中を突き破って出てきたことによって、血が飛んだのだ。
信じられない現実に、結衣は動けずただ目の前の状況を見ていた。
「な、に?」
異形の神は笑いながら祖父の首に食らいついたが、祖父は抵抗を見せない。痛みに顔を歪ませながら、その行為を受け入れていた。
「いや! お祖父様! 今、助けるわ!」
「近寄るなっ!」
半狂乱になりながら祖父に手を伸ばすが、その手を祖父は強く拒絶した。伸ばした手は行き場をなくす。
「どうして」
「結衣、これは継承の始まりだ。お前が次期当主だ」
その一言を残して、祖父は結衣の目の前でただの肉の塊になっていった。
その瞬間、結衣の中にどろりとした、確かな力が宿る。それを受け入れたくなくて、胸元をかきむしる。
「あ……ああ、こんなもの!」
だが、それもすぐにやめた。
(これは継承ならば、きちんと役目を果たさなければ)
荒い呼吸を繰り返した。鼻を突く血の匂いに、吐き気が止まらない。
――そして、祖父は異形の神に喰われ、死んだ。
神の道理から外れ、暴走した「荒神」になってしまったのかと考えたが、祖父の「これは継承だ」という言葉から、七条家の神の本来の姿なのだと知った。
「あんなのが神だなんて」
結衣の心の中にどす黒い何かが渦巻く。決して認めたくない、許したくない。そんな思いが膨れ上がってくる。
激しい水音が突然聞こえた。はっとして、目を開けた。周囲を見渡せば、そこには血の色はまったくない。結衣は呆然とした様子で、泉の中に立っていた。
「そうだわ、継承の儀式はなんとしても成功させなくては」
継承の儀式を行うために、結衣は禊をしているところだった。気付けばすぐに心は祖父の最期の日に戻ってしまう。いつまでもこの調子ではいけないと自分の頬を叩いた。頭をはっきりさせようと、もう一度、頭から冷水を被った。
「お姉様、ここにいたのね!」
顔を上げれば、双子の妹の美結がいた。自分と同じ顔をしているのに、美結はその場にいるだけで華やかな空気になる。だが、今は苛立ちを顔に出しているせいか、ひどく醜く歪んでいる。
「騒がしいわね。話はあとにしてちょうだい」
「後にできないから、こうしてやってきたんじゃない! ねえ、お姉様、私に当主の座を譲ってほしいの」
結衣はその願いに、不快感でいっぱいになった。お菓子を強請るような気安さがひどく気に障った。
「何を言っているの? そんなことできるわけないじゃない」
「知っているわよ! でも、絶対にお姉様よりも私の方がふさわしいわ」
美結は自信満々に言い切った。
(そういうところが、駄目だと判断されたのに。どうしてわかってくれないの)
結衣はどう説明したらいいのか、逡巡した。ほんの少し、言葉を選んでいるうちに禊に立ち会っていた辰見が先に美結を窘めた。
「美結様。当主の決定は覆りません。どうか、心安らかにお役目を果たされますようお願いいたします」
「辰見、邪魔しないで」
美結は忌々しそうに睨みつける。
「すでに帝から結衣様が次期当主として指名されておりますゆえ、変更できません」
「お父様に言いつけてやるんだから!」
辰見は事実を淡々と述べた。美結はそのことが気に入らなかったのだろう、乱暴に捨て台詞を吐いて足音を鳴らしながら、屋敷へと戻っていった。
「美結はどうしてあんなにも当主になりたいのかしら。お祖父様の最期を聞いて、恐ろしくないのかしら」
祖父の死に際を見せつけられ、恐ろしい継承だと体が小刻みに震える。自分の弱さを受け入れようと、大きく息を吸う。何度か呼吸を繰り返してから、辰見の方へ顔を向けた。
「辰見、儀式の準備を。覚悟が揺らぐ前に継承してしまいたいわ」
「しかし、まだ見届け人が来ておりません。それに、今回は黒曜の隊長――朽木真人様が立ち会う予定です」
辰見が言葉を選びながら聞いてきた。結衣はわかっていると頷く。
「――ほんの少し早めるだけよ。立会人といえども、儀式の完了がわかれば問題ないはず」
「わかりました。それでは準備をしてきます」
一礼してから辰見が本邸に戻っていった。それを見送り、結衣は再び禊を行った。




