第64話:丘の上の約束と次なる港
アイアンロックでの日々は、夢のように、穏やかに過ぎていった。
それは、世界を救うという、壮大な目的から解放された私たちが、初めて経験する、本当の意味での「日常」だった。
アレンは、すっかり町の子供たちの、ガキ大将になっていた。彼の怪力は、もはや、魔物を倒すためではなく、子供たちのために、高い木に引っかかったボールを取ってやったり、手作りのブランコを押してやったりするために、使われている。鉱山に顔を出せば、鉱夫たちから英雄として担がれ、そして、夜になれば、宴の中心で、誰よりも幸せそうに、肉を頬張っていた。
レオナルドは、建設中の町の病院で、名誉顧問のような立場に収まっていた。彼は、町のヒーラーたちに、神聖魔法の基礎的な知識や、薬草の効率的な使い方を、惜しみなく伝授した。彼の教えは、この町の医療レベルを、数十年は、進歩させたことだろう。もちろん、その謝礼として、毎日、町中の家庭から、自慢の料理が、彼の元へと届けられていたのは、言うまでもない。
そして、私は。
組合長となったゲルドさんの隣で、本当のコンサルタントとして、その腕を振るっていた。鉱山協同組合の帳簿を見直し、より効率的な経営プランを立てる。他の町との、『魔力鉄鉱』の交易交渉で、最も有利な条件を引き出すための、助言をする。
私の知略が、誰かの命を奪うためのものではなく、誰かの生活を、豊かにするために使われる。その事実は、私の心に、これまで感じたことのない、深い、深い、満足感を、与えてくれた。
そんな穏やかな日々が、一週間ほど過ぎた頃。
私は、仲間たちを集め、告げた。
「そろそろ、参りましょうか」
私の言葉に、アレンは、少しだけ、寂しそうな顔をした。だが、すぐに、いつもの笑顔で、頷いた。
「そうだな! ゲルドさんたちも、もう、俺たちがいなくたって、大丈夫だもんな! よし、次は、どこへ行くんだ?」
「決まっておりますな! 美食の都、海の幸の宝庫、ポート・ソレイユですぞ!」
レオナルドが、よだれを垂らしながら、即答した。
私たちの、アイアンロックからの旅立ちの日は、町中が、涙と笑顔に包まれた。
町の人々、一人一人が、私たちとの別れを惜しみ、そして、私たちの未来に、祝福の言葉を、贈ってくれた。
「イリスの嬢ちゃん。アレンの兄貴。レオナルドの先生。これは、町のみんなからの、ほんの気持ちだ」
ゲルドさんが、私たちに、一つの、美しいコンパスを、手渡してくれた。針には、最高純度の魔力鉄鉱が使われ、その台座には、アイアンロックの町の紋章が、誇らしげに、刻まれている。
「これさえあれば、あんたたちは、二度と道に迷うことはねえ。そして、いつでも、この町に、帰ってこられる。ここは、もう、あんたたちの、故郷なんだからな」
その、不器用で、しかし、温かい言葉に、私は、涙がこぼれそうになるのを、必死で、こらえた。
ホープウィング号が、ゆっくりと、大地を離れる。
眼下で、町の人々が、いつまでも、いつまでも、私たちに、手を振っていた。
「……できちまったな。帰ってくる、場所」
アレンが、ゲルドさんにもらったコンパスを、愛おしそうに撫でながら、呟いた。
その針は、今、確かに、アイアンロックの方向を、示している。
「ええ。そうですわね」
私は、彼の隣で、頷いた。
悪役令嬢として、全てを失い、故郷を追われた私が、今、この異世界で、初めて、「故郷」と呼べる場所を、手に入れたのだ。
私は、ホープウィング号の舵を、東の海へと向けた。
アイアンロックは、始まりの町。私たちが、誰かを救う喜びを、知った場所。
そして、次なる目的地、ポート・ソレイユは、私たちが、より大きな悪意と、そして、自分たちの無力さと、向き合った場所。
あの、華やかで、そして、危うい港町は、今、どうなっているのだろうか。
私たちの、世界を巡る、新しい旅。
その二番目の目的地へと、希望の翼は、再び、その速度を上げていった。




