閑話:婚約者の長い追憶【後編】
それからの日々は、比較的穏やかに過ぎて行った。
フランシーヌの表情はだんだん柔らかくなってきているが、相変わらず自分が無表情だと思い込んでるらしい。身支度の時などに鏡で見る自分の表情がぴくりとも動かないからのようだが、自分と居るときのフランシーヌの顔を鏡で見せてやりたい。きっと盛大に可愛い顔を見せてくれるに違いない。
分厚いレンズの眼鏡越しに見ても可愛いのだ。それがなかったらどれだけ可愛いのだろうか。魔法を使えば視力の矯正は可能だろうか。いや、無闇と他人に見せるのは自分が好ましくない。やはり却下だなと考えたりもした。
学園に入学してからは会える機会が少し減ったりしたが、それで会いたくなくなるということはまるでなく、むしろ会いたい気持ちが募ったりしていた。
あれだけ毎日のように会っていたというのに、足りないくらいだなんてこれが恋というものか。想いが減る気が全然しない。フランに会いたい。
彼女の十歳の誕生日パーティーの時なんかもう、凄かった。これが本当に十歳の女の子かというくらいに綺麗だった。何度かよその貴族の十歳の誕生日パーティーに呼ばれたりしたが、フランシーヌが一番綺麗に見えた。
婚約者の自分が、彼女に最も相応しい贈り物をしないでどうすると、選びに選んだ虹色鋼のティアラはとても良く似合っていて、自画自賛したものである。
その後のファーストダンスでも、彼女はうっすらと微笑んでくれた。そう遠回しに指摘したのにも関わらず、やはり気が付いていない様子なのがたまらなく可愛かった。その上、自分と一緒に誕生日を祝いに来てくれたマクシミリアン殿下に対してはやはり無表情のままで、それがまたたまらなく愛おしさを感じた。
オルタンスは自分がフランシーヌに恋の魔法をかけたと言っていたが、魔法にかかってるのは自分に違いないと思わずにはいられない。でなければ、こんなにも鼓動が高鳴っている理由がわからない。
「我が弟は不治の病か……すっかりフランシーヌ嬢のとりこだねぇ」
「兄上」
突如現れた実の兄の姿に、ベルトランは一瞬眉根を寄せた。
愛書家であり、活字中毒でもある兄が自室から出て自分に話し掛けるなど怪しい。実に嫌な予感がする。
「そんな逃げなくても……私は別にフランシーヌ嬢を取って食いやしないよ。ただ、私に言わせればあの子は……推せる」
「お、推せる?」
この兄はたまに自分には分からない言葉を使うことがある。大抵は特に実害は無いので聞かなかったことにしているが……何故だろう、今はなんとなく不愉快だった。
「なに、私より後に産まれたのに何だかひどく落ち着き払っている生意気な弟が、こうして誰かへの思いでそれを失っている姿を見せてくれたんだ。これを推さないで何を推すんだ」
「手押し車でも押しててください」
不快感も露にそう言ってみると、冷たいことを言うなと絡まれた。面倒だな、と息を吐いて兄を軽く手で押し退ける。
「……ああ早々、フランシーヌ嬢との旅行だけど、両親は忙しいから私が行くことになったよ」
「そうですか」
苦虫を噛み潰したような顔で兄の言葉を聞く。この兄が変なことを我が婚約者に吹き込んだりしないか心配になった。
「ははは、おかしなことはしないとも。ただ私は、推しを見ていたいだけさ……」
「はぁ……」
思わず生返事をしてしまい、こめかみを揉む。推しってなんだ。よくわからないがこれだけは言っておこう。
「兄上……フランに変なことを吹き込んだりしたら承知しませんからね……」
「当然だとも、我が愛しの弟よ」
どうしてこの兄は言動が一々胡散臭いのだろう。自分の家が本好きの家系で、少々変わり者が多いのだとしても、対処に困る。
「ふふふ……こんな機会は滅多にないからな……思う存分活用させてもらおう」
「はぁ……」
せめて旅行先であるドラグヘッドでは、フランシーヌが兄に感化されないよう、見守ってやらねばならないと、ベルトランは決意を新たにしたのだった。
そして旅行先での出来事から、自分がフランシーヌが異世界の人間の魂を持っていることに気が付いていると遠回しに伝えることは出来た。
その上で大切に思っているのだと、分かって欲しい。きっと君は、自分で感じている以上に、周囲から愛されているのだから。
それからの数年間は、比較的穏やかに過ごすことが出来た。フランシーヌの表情も徐々に柔らかくなりつつあり、自分以外にも表情を変えることが増えてきた。
それはそれで結構なことだが、フランシーヌの魅力に気付くものが増えたらどうしようかと思えば少しはかり複雑だ。独占欲が過ぎる、などとサフィーには笑われたりもした。
そうかも知れない。しかし自分と結婚するのは、もうフランシーヌ以外は考えられないのだ。彼女もかつてそう言ってくれたことだし、早く彼女を自分だけのものにしたい。
しかし中等部三年生に上がってからしばらくして、来年高等部に入学することになる平民の娘に、当家が出資する話が持ち上がってきた。
それはまぁいい。能力はあるが財力のない平民の家庭に、貴族が援助して高等部に通わせるというのも、わりとよくある話である。聞けば彼女は貴族の先祖返りで、平民には珍しい光の魔力の持ち主で、強くはないながらも二色持ちなのだという。故にしっかりと教育した上で卒業したらどこかの家の行儀見習いにでも行かせ、貴族と縁談を持たせてやりたいということだった。
それも別に構わない。先祖返りは珍しいが、そういった人間の面倒を見るのもまた、貴族の義務である。だが、同い年であるからという理由で、その少女の面倒を見るのが自分である、というのが少々いただけなかった。
婚約者以外の女性と長時間一緒にいて、誤解されたらどうすると抗議するベルトランに対して、父親は「そんな愚か者の貴族なんてそうはおらんだろう。良いからお前は、卒業後に彼女を行儀見習いに行かせる家と、縁談を結べそうな家を見定めておきなさい」と言っただけであった。
貴族にはそりゃあ誤解する人間などそうはいないだろう。だが、もしも万が一、その平民の少女に変な勘違いをされたりしたら……と、ベルトランは嫌な予感に寒気が止まらないのだった。
結論から言えば、その心配は杞憂に終わらなかった。
顔合わせをした時から、何を勘違いしたのか妙にまとわりつかれたのである。自分には婚約者がいるから、そういうのは止めて欲しいと言っても止まらなかった。なんだか脳内で、自分とベルトランとのおかしなラブストーリーを展開しているらしく、話がまるで噛み合わなかったのである。
ならば当人と会わせて見るかと考えていた矢先、フランシーヌが丁度自宅へと訪れてきた。その時たまたま件の少女も居たので計らずしも顔合わせすることになったのだが、この時はなんだか妙に険悪な雰囲気で終わってしまった。
それと言うのも、彼女がフランシーヌと自分との話に強引に割り込んで来たからだ。でなければ、フランシーヌが怒るなどそうそうない。フォローはしたが、フランシーヌはさっさと帰ってしまった。しかも自分を愛称でない名前で呼ぶというおまけつきで。
しかし彼女は自分の態度に問題が有ったとは思わなかったようで、「なんだか無愛想な人ですね」などと文句を言っていた。誰のせいだと思ってる。彼女にはああいう態度は良くないとは伝えたが、どうもぴんと来てはくれなかったようで、それからも変にべたべたとくっつかれ、まるで恋人のように振る舞われた。
そんな態度では、貴族相手から反感を買って当たり前だ。学園でもそんな調子で、行儀見習いも縁談も、ことごとく難色を示された。おまけに「結婚するならベルトランさまが良いです」などと言われた。だから自分はフランシーヌ一筋だと言っている。
しかし彼女はそれで引き下がりはしなかった。
「ベルトランさま、親に決められた縁談なんてそんなの、真実の愛じゃないですよ。あたし、ベルトランさまを幸せにしますから」
と能天気な笑顔で言われ、これが殺意というものかと遠い目をした。
親に決められた婚約者を心の底から愛して何が悪い。最近のフランシーヌは身長も体型も成長してたまに目のやりどころに困るくらいに綺麗になったんだぞ。十歳の頃から世界で一番綺麗で可愛かった彼女に色気まで加わってきて、夜会でフランシーヌを見る不埒な輩の目を潰してやりたいと何度思ったか分からないくらいなのに。
貴族社会のことなど何も知らない人間が、偉そうなことを言うんじゃない。真実の愛とやらはフランシーヌで十分間に合っている、余計なお世話だ。とオブラートに包んで言ってみたがやはり通じず、ベルトランは彼女と接するのに大変な疲労を感じていた。
そして疲れた自分をフランシーヌに見せるのがなんとなく気が引けて彼女の屋敷への足が若干遠退いたうちに、少女に対する嫌がらせが始まってしまった。
自業自得だと突き放すことも出来たが、それは少々目覚めが悪い。仕方なしに対応に追われているうちに魔物の出現が増え始め、これは侵略者との戦争の前兆ではないかという話になった。
考えてみればそうである。彼女の態度が貴族からの反感を招いたとはいえ、嫌がらせにまで発展するなどどう考えてもおかしい。であるならば、今後事態が悪化することも十分予想されると、高等部に所属する貴族の生徒が中心となって調査及び対応に当たることになった。
何故生徒が中心になったかと言えば、高等部には次期王の呼び名が高いマクシミリアン殿下が所属しており、卒業してから各地で自らの土地を治める予行練習になると考えられたからだった。
というわけでベルトランはフランシーヌにろくに会えない日々が数ヶ月単位で続き、相当にストレスを溜め込んでしまっていた。
おまけに、彼女には間の悪いことに件の少女と一緒に居るところを何度か見られている。一度フランシーヌの来た痕跡であるチーズクッキーの包みが庭に落ちているのを見た時は、絶望で軽く死にたくなった。いや、フランシーヌと結婚するまでは死ねない。
自分の好物であるチーズクッキーを持ってきてくれたのに、どうしてフランシーヌは今ここにいないのだろうか。そう嘆きつつ食べたクッキーは、少ししょっぱかった。
そしてもう我慢の限界だと、少女にフランシーヌのことが好きだからもう付きまとうな迷惑だと最後通牒を突き付けている最中に、不意に背中に抱き着かれた。
「え、フランどうしてここに……」
「――嫌です」
「フラン?」
「嫌です、嫌、嫌! ベルンがわたくしでない人のものになるなんて絶対に嫌! だってわたくし、貴方が好きなんです! ですからどうか、お願いですから……他の人のものになんてならないで……!」
夢かと思った。フランシーヌが不足するあまりに自分は白昼堂々夢を見ているのだと。その上自分が好きだと告白までしてくれている。彼女が自分を好きであろうことはなんとなく確信はしてたが、こうして言葉にされるのは初めてだった。
なるほどこれは夢に違いない。ならばずっと、したかったことをしても構わないだろうかと、目の前にある可憐な唇を衝動のままに奪ってしまっていた。
初めて触れた彼女の唇は、想像していたよりもずっと柔らかく、甘かった。思わず夢中で口付けたが、すっかり存在を忘れていた第三者の言葉により、目の前の婚約者が現実であると漸く認識出来た。と同時にフランシーヌからの告白を思い出し、あまりの恥ずかしさに少し悶えてしまった。
現実に、自分の好きな相手が目の前にいて、自分を好きだと言ってくれている。それはなんと幸せなことかと、ベルトランは思わずフランシーヌを抱き締めた。
「ありがとうフラン! わたしもフランが好きだ……大好きだ! ずっとずっと前から! 世界で一番、大好きだ!」
わたしの愛しい伴侶、もう離さない。
――その後、話は終わった筈なのに少女に妙に絡まれたり、魔竜が出現したりと色々あったが、やっと自分の婚約者を自分の腕の中に取り戻すことが出来たんだなぁと、ベルトランはフランシーヌの部屋で大きく息を吐いた。
「あ、あの……ベルン……そろそろ離して欲しいのですが」
「全然ダメ。半年近く、フランにろくに会えて無かったんだもの、まだまだこんなものじゃ足りないよ。それともフランは、もう十分に補給されたの?」
「そ、それはその……あうう」
自室のソファーでフランシーヌを抱き締めたまま、もう二時間ほどこの態勢だがまるで飽きる気がしなかった。まだまだ彼女を堪能させてもらわねば。そうされている彼女は真っ赤になって涙目で、非常に慌てた表情をしてとても可愛い。この顔を見てしまえば誰も、彼女を無表情だなどと言えないだろう。
隙あらばフランシーヌの頬やこめかみ、髪の毛や唇に口付けを落としているが、それをされるときの顔もあたふたしていてえらく可愛い。自分だけの、伴侶。
とそこへ、オルタンスが顔を覗かせる。
「あらあら、すっかり仲直りねぇ」
「オルタンス様、わたし達は別に喧嘩していたわけではありませんよ」
「そうだったかしら? ふふ、でも二人ともすっかり離れがたい様子ねぇ……どうかしらベルトラン君、今夜だけ泊まってく?」
「よろしいのですか?」
「お母様!?」
喜色を見せるベルトランと対照的に、フランシーヌが焦った声を上げる。そんな二人を満面の笑みで見つめ、オルタンスはにっこりと頷いた。
「ええ、勿論よ。あ、でも寝室は別よ? 子どもを作る行為は、二人とも成人してからね?」
「はい、分かってます!」
「お、おおおおお、お母様ぁぁぁぁぁぁぁ!?」
赤い顔で、フランシーヌが悲鳴のような声を上げる。それを聞きながら、オルタンスとベルトランは晴れやかな気持ちで笑い転げたのだった。
――愛しい人。もう絶対、離さない。
次回より、侵略者との戦争に入ります。
後およそ五話~十話程で完結する予定です。しばしお付き合いくださいませ。