閑話:少女の夢と、母の愛
――貴族の子どもというのは、実は最も死にやすい存在である。
産まれてからの十年間は、生まれついた強大な魔力に押し潰されたり暴走しないように見守る十年間であり、それが過ぎたからと言っても決して魔力が暴走しないわけではなく、注意が必要となる。
そしてそれは、産まれる前ももちろんだ。母親は自分の胎内に大きな魔力を宿した存在を、十月十日抱えることになる。自身の魔力で己の子宮を強化することで保護するが、不慮の事故の可能性は常に付いて回る。そして稀にだが――産まれる前に自身の魔力に押し潰され、死んでしまう魂も存在するのだ。
(……ああ、わたししんじゃったんだ)
幼く、小さい魂がどことも知れない空間をふよふよと漂っている。少女の形を象った魂は、自分を追い出した己の肉体になる筈だったそれを振り返り、唇をへの字に曲げた。
自分が死んでしまったことはこの際だが仕方ない。一度肉体から離れた魂が、元の身体に戻れることは決してない。しかし、自分の母になる筈だった女性、グリエット公爵オルタンスのことが少女には気がかりだった。
(おかあさまはやさしいひとだから……わたしがしんだらきっととてもかなしんでしまうわ)
出来れば戻りたいが戻れない。自らの魔力に押し潰された魂は酷く傷付いており、今にも消えてしまいそうな程に弱っていた。
産まれ落ちる瞬間、光が見えたと思ったその時、形を持たぬ力が自分を捕らえ、咀嚼し、自分をこの身体から追い出したのである。母は今頃、産声を上げぬ我が子を前に嘆いてるのではないか。そう思うだけで、少女の魂は消え入りそうに辛く感じるのだ。
(……あら? あれはなにかしら)
ふわりふわりとさ迷う自分の前に、ふと黒い塊が現れる。それは一つの、魂だった。
(このたましい……すごくふかいこうかいとかなしみにおおわれてるわ。それでどこにもいけないでここにきてしまったのね)
強い想念に囚われた魂は、浄化されずに世界をさ迷ってしまうことがある。この魂はどうやら、たまたま開いてた次元の裂け目に迷い込んでしまったもののようだった。
どうしよう、と少女は考える。このままではこの哀れな魂は地上へと落ちてしまうだろう。そうなればともすると悪しき魔力に喰われ、魔物へと変じてしまうかも知れない。それはいけないと、少女は懸命にその魂を覆っていた想いの層を引き剥がした。
(なんてきれいなたましい……でも、すごくふかくきずついてしまってる)
その魂は苦しみに押し潰されることなく、綺麗な形を保っていた。ともすれば、生者と遜色の無いほどに。しかしまるで針のように深く鋭い傷が、その魂には存在していた。容易には癒えぬ程深い傷。そしてどうやらこの魂は、この傷と痛みをそれと認識していないようなのだった。
しかしこれなら、この、生者と遜色の無い程綺麗な形をしている魂ならば、私の身体をあげられる。
この傷を癒やすには、長い時が必要だ。私の家族は幸運なことに、とても優しい人ばかりだから、きっとこの傷を癒やす手助けになるだろう。
少女は祈る。どこに居るとも知れない偉大な存在へと祈る。どうかこの願いを、聞き届けてください。
(おねがいします、このひとに、とてもきずついてるこのかなしいひとに、わたしのからだをあげてください。どうかおねがいします)
『――承知した』
瞬間、脳裏に厳かな声が響く。それと同時に、目の前の魂が温かい光に包まれ、ふわりと消えた。かと思えば、自分の足元から産声と、歓喜の声が響き渡る。
ああ、慈悲深き偉大なるお方は、私の願いを聞き届けてくださったのだ……。
(ありがとうございます、いだいなるかた)
『うむ、運良く我が起きていて良かったな、小さき魂よ。それで、どうする?』
(どうする、とは?)
姿を見せない偉大なるお方の、主語を省いた問い掛けに、少女は何を聞かれたのかと問いを返す。と、その気配は微かに笑ったようだった。
『ああ、小さき魂の心に、我も少し心動かされた。あの哀れな魂は、お前の望んだ通りに家族に愛される生涯となろう。その救済の褒美に、お前の魂を癒し、望むところへと転生させてやるが、どうする?』
(あ……ありがとうございます……!)
少女は歓喜に叫びながら、思う。私が望むのは、それは……。
(ならばいだいなるかた、わたしはあのひとの、いもうとになりたいです)
あの傷付いた人の家族になって、あの人が幸せになるのをすぐ近くで見守っていたい。きっとそれは、楽しいことだから。
『なるほどそうか妹か。良かろうその願い、聞き届けた。ならばその時まで、しばし眠るがいい』
優しい言葉と共に、少女の魂が温かい光に包まれる。その温もりの心地よさに、少女はたちまちのうちに微睡みへと落ちていく。
(ありがとうございます…………さま……)
少女の魂は夢を見る。優しい父と母、それから素敵な姉と共に、温かい食卓を囲む夢を、そう遠くない未来に実現することを夢に見ながら、少女は眠りにつくのであった。
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「ああ、ああ、なんてこと……この子、息をしてないわ……!」
産まれたばかりの我が子を前に、オルタンスは狼狽えた声を上げた。愛する夫との間に出来た、眩くばかりに愛しい第一子。歓喜に包まれた声で満ち溢れる筈だったその場所は、今は悲痛な声が飛び交っていた。
「そんな、ご主人様……待望のお子様が……」
オルタンスの子を取り上げた乳母が、蒼白になって膝から崩れ落ちる。周囲のメイド達も、どうしたら良いか分からないようにおろおろと右往左往していた。
「ねぇフランシーヌ、応えてちょうだい。私よ、あなたのお母さんよ、フランシーヌ」
ゆさゆさとその身体を揺さぶり、何度も呼び掛ける。しかし答えはなく、その小さな身体からは体温がどんどんと失われていく。
――死産……。という言葉が全員の脳裏に過る。どうしよう、我が主を何とお慰めしたら、と蒼くなったところで、赤子の身体がぴくり、と動いた。
「……フランシーヌ?」
それに気が付いたオルタンスが、恐る恐る赤子の名前を呼ぶ。するとその口元が小さく動き、息が吸われたかと思うと、けたたましく産声をあげた。
その声に周囲のものは皆目を丸くし動きを止め、次いで盛大に歓喜の声を上げた。
「や、やったー!」
「おめでとう、おめでとうございますご主人様!」
「わ、わたしクリストフ様を呼んで来ます!」
一気に沸き立つ周囲の中で、オルタンスは泣き声を上げる我が子を涙をいっぱいに溜めた目で見詰めていた。
「ああ、フランシーヌ……私の優しい愛しい子……あなたがこの子を、私の前に連れてきたのね……」
遥か昔に受け継がれた、竜の血筋。その目を持っていたが故にオルタンスは見た。見えてしまった。
娘の僅かな変化も逃さぬように、魔力を込めた目で見ていたから見ることが出来た。娘の身体から魂が抜け、新たな魂が肉体へと宿ったのを。
そしてこの新たな魂が深く傷付き、声なき声で助けを求めていることを。
「大丈夫よ、可愛い子……私が貴女を、何があっても愛してあげるわ……誰が何と言おうと、貴女は私の、可愛い娘だもの」
はらはらと涙を溢しながら、この世に産まれた娘の生誕を祝う。その目には慈愛が満ち、優しく我が子をあやすように揺らす。
「大好きよ、フランシーヌ……どうか私に、愛されてね」
目一杯の愛情と共に、新たな我が子の誕生を言祝ぐ。その佇まいに、メイドの何人かは言葉も忘れ、見惚れてしまう。
――この子はきっと私が、世界で一番幸せにするわ……。
その誓いと共に、オルタンスは愛娘の頬に唇を寄せるのだった。