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39 東への帰り道

 枯れた草原の中を、二つの人影が、歩いていた。

北からの、冷たい季節の風が駆け抜ける度に、草の葉が擦れて音を奏でる。

 どこかもの悲しい、乾いたそれは、中身のない作物の実を、空へ巻き上げた。

 天は、それを、青空に優しく包み込んでいた。

「えへへ、エルージュ、早く、早くっ」

 男の声が、聞こえた。

 遮るもののない、果てしない草原が二人の周囲に広がっている。

 その緑の原で、狼の獣人が、手招きをしていた。

黄金色の髪から、狼の耳が見えている。お尻の尻尾が、激しく揺れた。

「もう、そんなに急がないで、ツァガン」

 そんな男の無邪気な笑顔の先に、女が一人、いた。

草原を渡る風に吹かれて、彼女の長い黒髪が、ふわりと靡いた。

 彼女は、片手に円形の太鼓を持ち、背中には、大きな白鳥の翼を有している。

 獣人と、西の世界で呼ばれる彼らは、その身体に、祖先である獣の特徴を有していた。

「だって、だって、村に戻るんだよ。オイラの故郷、君に見せて、あげたい、から」

「焦らなくても、ゆっくり帰りましょう。せっかくの二人きりなんだし」

「あっ……」

 急にそのことを意識したためか、ツァガンの顔が、真っ赤に染まった。

「あなたと、私。二人きり、よ」

「う、そ、その、オイラ」

 ツァガンの口が、何かを言おうとして、止められた。

止めたのは、エルージュの唇、だった。


 二人が、モスクワを発ったのは、数日前の事だ。

クラウスとサラが帰郷し、町の片付けが一段落した頃だった。

 宮殿クレムリン前の広場にある、たまねぎ屋根の大聖堂を見上げて、ツァガンはふと思い出した。

――故郷のみんなは、何をしているだろうか。

 それを気にした時から、一刻も早く帰らねばという気持ちが、強くなった。

 エルージュには、正直に伝えた。彼女は、東の世界が楽しみです、と答えた。

 ヴァシリーにも、告げた。思い出すのに、少し時間がかかりましたね、と苦笑いされた。

 その時に、餞別ですと言われて、ツァガンは銀色の塊をいくつか貰った。

小さくて丸い、平たく鈍い輝きを持つそれは、お金というものだと、教えられた。

 そして、夜は町場で宿に泊まるようにと、キツく念を押された。

これは、ツァガンのためではなく、エルージュのためでもある。これから故郷に辿り着くまでは、何があっても、彼女を優先に考えろ。決して目を離すな、繋いだ手を離すな、失ってから嘆いても、遅いんだと忠告を受ける。

 ツァガンも、難しい話は分からないけど、エルージュを離さないというのは、分かったと頷いていた。

 そんな彼の背後で、エルージュは一人、顔を紅くしていた。

 いざ、帰郷となった時。ヴァシリーは、満面の笑みで、ツァガンに伝えた。

 これで、君の願いは叶いましたね。

 一呼吸おいて、彼は、うんと、答えた。

 忘れていますね、と、ヴァシリーは呆れながら言った。


 草原の中を、二人の男女が、手を繋ぎ歩いていた。

既に日はだいぶ傾き、足元の影が、長く大地に伸びている。

 天は、紺青の色から、緋の色へと移り変わっていく。

 樹木らしいものも見当たらない、茫漠の地で、二人は今夜の野宿場所を探す。

「ツァガン、あそこに石人があるわ」

「本当、だ。じゃあ、今夜は、そこにしようか」

「ええ」

 道中、薪になるような枯れ枝や草、乾燥しきった獣の糞を拾い集め、二人は石人の側で、一泊と相成った。

「ね、オイラの頭、見て」

「もう、そう言って、膝枕して欲しいんでしょう」

「えへへ、ばれた?」

 食事も済ませ、ツァガンはエルージュの膝に、頭を乗せる。

視界の端には、赤く燃える焚き火が、ゆらゆらと揺らめいているのが見えた。

 太陽は、とうに地平の彼方へと沈み、夜のとばりが周囲を覆いだしていた。

天は、緋の色から、漆黒の闇になり、星が一つ、二つと姿を出している。

 冬だというのに、気温はあまり下がらず、ぬるい空気が、草原に漂っていた。

「雪、降らない」

 ツァガンが、星の輝く夜空を見上げて、呟いた。

「いつになったら、冬、戻る?」

「そのうちかしら。天候は急に戻らないの、ゆっくり、ゆっくり、少しずつ元に戻るのよ」

「そうなの?」

「ええ、そうよ」

「でも、オイラのキノコ、急に生えなくなった。どうして?」

 彼の頭の耳が、ぱたぱたと動いた。

「私のせいかもしれないわね」

 エルージュが、微笑みながら、彼の黄金色の頭を撫でた。

「なに、それ」

「私と口づけしたでしょう?その時に、あなたを守りたいって思いが、伝わったのかもね」

 ツァガンの尻尾が、激しく揺れだした。

「じ、じゃあ、あの時、も?」

「あの時?」

「クラウスたちと、最後の戦いの時。オイラ、火に囲まれたけど、熱く無かった」

 それが彼にとっては不思議で仕方が無かったらしく、どうしてそうなったのか、疑問を投げかけた。

「そうね、あれも同じね。私はあなたが心配で、災いは降りかからないようにって、お祈りをしたのよ」

「でも、なんでオイラにしたの?クラウス、勇者。お祈り、みんなに、すればよかったのに」

「うふふ、それは出来ないわ」

 微笑むエルージュに、ツァガンはキョトンとした顔をする。

「ツァガン。あなたは、私が他の男の人と口づけをしたら、どう思うの?」

 それを言われた段階になって、初めて彼はそのことに思い至った。

 驚き、戸惑う顔が、次第に曇り、ハッキリと拒絶のものに変化する。

「う、そ、それは……。オイラ、やだ」

「そういうことなのよ」

「うん」

 女の白い指が、男の褐色の頬を、そっと撫でさすった。

ヒゲも未だ生え揃っていない肌は、彼がまだ成長途上であることを、如実に表わしていた。

 そんなツァガンの双眸が、エルージュの膝の上で、とろりととろけた。

 瞼が、ゆっくりと下がりつつある。

「眠いの?」

「ん……」

 ツァガンは、口中の牙が見えるほどに、大あくびをした。

「今日は、もう寝る?」

「そ、う、する……」

 返事も半ばに、彼の動きが止んだ。

 エルージュは、ツァガンを起こさないよう、そっとその身体に、一枚の布を被せた。

 夜の闇の中に、二人を赤く照らす焚き火が、輝いている。


 翌朝。

支度を終えたツァガンは、石人の目の前で、それを凝視していた。

「……でかい」

 目線が、下にある。草原に佇む、石で出来た人の彫像は、ヒゲを生やし、胸に杯と腕に剣、そして股間に巨大な男根を有していた。

「おまたせ、ツァガン」

 背後から声をかけられて、彼の身体はビクリと震えた。

「あ、エルージュ」

「どうしたの?」

 振り向いたツァガンの目が、明らかにおかしい。

何かに動揺しているのか、落ち着きが無かった。視線が、あらぬ所を彷徨っている。

「この石人が、どうかしたの?」

「あ、その、えっと、こいつ、大きいなって」

 ツァガンの手が、それを指している。石人の股間に、雄々しく聳えるそれを。

 石人の全長の、三分の一が、それの大きさである。

明らかに、身体とのバランスが合っていないそれは、勇ましく屹立していた。

「オイラ、こんなに、大きくない。西の人間、みんな、これぐらいあるのかな?」

「どうして、そう思うの?」

「前も、こういうの、見た。それも、これぐらいあった。だから、あの」

 エルージュは、頬を紅くしながら、笑っていた。

「これはね、わざとこの大きさにしてあるのよ」

「えっ、そうなの」

「石人は、強い男でありたいって、願うための印なの」

「しるし?」

「ほら、こっちから見てみると、分かるわ」

 石人の背後に回った彼女が、手招きをしている。

ツァガンは、よく分からないままに、彼女の横に並び、それを見た。

 頭から足元まで、円柱状のくびれの一切無い石人の首部分に、妙な段差のある太い首輪がついている。

 首から上は丸っこく、首から下は、大地から伸び上がる直線に近い柱だ。

「あ、これ」

 ここで、ようやく彼は気が付いた。

この石人自体が、男根そのものであることに。

「これはね、男の人を表わしているの。そして生命力の元でもあるわ」

「生命力、の元?」

「そうよ、これが無いと、子孫繁栄もままならなくなってしまうの」

「子孫、繁栄?これが?」

「もう、それはツァガンが、よく知っているでしょう?私に言わせないで」

 エルージュの顔が、紅く染まり、耳までがその色で覆われている。

その彼女が、長い睫毛を幾度も瞬かせ、熱く潤んだ瞳でツァガンを、恥ずかしげに見つめた。

 艶めいた女の唇が、何かを訴えるべく、動いた。

「……ましょうか」

 最初の部分は、聞き取れなかった。

彼女は、何かをしたいと、言ったようだった。

 頭が、ぼんやりとする。

 手を、握られた。彼女の手の平を通じて、その熱いまでの体温が、感じられる。

 胸の鼓動が、急に激しくなった。頭から、汗が湧いて出た。

視線が、定まらない。ぐるぐると、地面が回っている錯覚に陥った。鼻息が荒い。

「ツァガン」

 彼女の声で、回る世界が、ピタリと止まった。

「お祈り、していきましょうか」

「……えっ?」

 声が、裏返っていた。


 白鳥の女が、祈り舞っている。

長い黒髪が、動きに合わせて靡いていた。

 女の前には、男根を模した石人。石人の足元には、小石の並ぶ環状列石が見える。

 列石は、女陰を表わしていた。その環の中心に、屹立した石人だ。

 これらが示すものは、男女の交合そのものであった。

 男と女、互いのものを合わせると、女の胎に命が宿り、月が満ちて子が産まれる。

命を産む女は、何よりも尊い。豊かな胸は、子を育む豊穣の証で、大きな尻は安産の証だからだ。

 その女を孕ませる男は、勇ましく、また雄々しく無ければいけない。

女を悦ばせ、強い子を産ませる、その男は生命力に満ちあふれているものだ。文字を持たない者たちが、男とはこうあるべきだと願って作られたのが、この石人だ。

 石人は、石から作られている。

 木材や粘土では、こうはいかない。木は経年の劣化で朽ち、粘土は風雨によって脆く崩れ去る運命だからだ。

 だが何も無い草原に、ぽつんと立つ不滅の石人は、容易に腐る人の身とは違い、永きに渡って有り続ける。

 雷に打たれようが、風に吹かれようが、世界の四方よもに目を光らせられる、滅する事の無い強く逞しい者なのだ。

 そして自らがしるしとなって、後世の人を、導く存在でもある。

 最初は、単純に男というものを示すだけのものであった。

それが、いつしか氏族の族長を称えるものとして、生前の姿に似せて、墳墓の周囲、または祭祀の場に置かれるようになった。

 長い年月が過ぎゆく中、この石人が何者であったか、知る者は消え去ってしまったが、役割を理解し、伝える者たちは少数だが残っていた。

 それが、シャマンと呼ばれる者たちだった。

 太鼓の音が、鳴った。

女の口から、祈りの文言が紡がれる。言葉は子孫繁栄と、夫婦和合、そして、天と大地を称える、ふるきシャマンの詩だった。

 ツァガンには、踊るエルージュの言葉はよく分からないが、その祈りは、己と彼女に向けられているのを、薄々感じていた。

「オイラも、強く、なりたい」

 そう、願った。

 石人が強い男を象徴するならば、己もそうなりたいと、ツァガンは思った。

今よりも強くなり、大好きなエルージュを守ってやりたい。もう病弱だなんだとは言っていられない、女を守るためには強くならないといけない。

 ツァガンは、心の底で決意していた。

 女が跪いた。長いこと、彼女の頭は、大地につかんばかりに伏せられている。

 踊り疲れたのだろうかと、ツァガンは近寄った。

「エルージュ……」

 声をかけ、心配そうに彼女の顔を覗き込む。

「わっ」

 その瞬間、ツァガンの胸にエルージュが飛び込んでいた。

「ツァガン」

「え、あ、エルージュ?」

「私、テングリの神々の声を、聞いたの」

 喘ぐような、息づかいと共に、彼女の声がする。

「私は、次代を紡ぐ使命を与えられたわ。あなたと共に歩み、共に暮らす、大事な使命をね」

「し、使命?」

「ええ、狼の氏族のために、この身を尽くせって、そう言われたの」

「エルージュ」

「ツァガン、好きよ」

 お互いの唇が、触れ合った。

踊りを終えた女の口は、ほのかに塩の味が、した。

 ツァガンは、エルージュの身体を、掻き抱いた。

強く、強く、もうどこにも飛んで行かないように。狼は両の腕で、白鳥を捕らえる。

 周囲には、人気など全くない。

遮るもののない、茫漠の草原が、広がっている。

 時折、吹き抜ける風が、二人の髪を揺らしていた。


 鹿石が、あった。

褐色の石が、草原に生えている。大きさは、ツァガンの背丈を、優に越す。

 その表面には、石人とも違う、幾何学的な紋様と、天に向かって飛翔する、何頭もの鹿の彫刻が施されていた。

「ああ、鹿石だわ」

 エルージュが、懐かしそうに、呟いた。

「これ、知ってるの?」

 ツァガンが、驚いた顔をしていた。

「ええ。鹿石はね、石人よりもずっと長く、大地に立っているのよ」

 そう言って、彼女は鹿の姿を、指でなぞった。

 躍動する、鹿の身体の頭部には、巨大な角が生え、鼻面は鳥のクチバシのように細く長く伸びている。目は小さい瞳ではなく、まん丸に大きく描かれ、一見間抜けだが、どことなく愛嬌のある図柄で表現されていた。

「うん?じゃあ、鹿石のが、先に作られた?」

「そうよ、先に鹿石があったの、石人はその後に作られたわ」

「でも、なんで、鹿の、模様なの?」

 ツァガンの問いに、彼女は首を振った。

「それは、私にも分からないわ。でもね、鹿って大きく跳ぶでしょう、鳥とは違う、天に向かって跳ぶ、四つ足の獣だからかしら」

「鳥と、違う?」

「鳥は、天から降りた生き物と言われてるの。テングリの神々の声を地の人に届け、シャマンを生み出した、白鳥と同じ飛ぶ生き物。片や鹿は、地面を走り、時折、地から天へと大きく飛び跳ねる獣なのよ」

 エルージュの説明に、ツァガンは頭を必死に回転させて、何かを考える。

「普段、走るヤツが、跳ぶ、から?」

「そう、人よりも速く走り、大きく跳ぶ。見て、鹿石の先端には、何があるかしら」

 彼女の腕が、石の先を示している。

そこには、円形の図形が一つ、鹿よりもハッキリとした線で、刻まれていた。

「……太陽だ」

「その通りね、太陽は天にあるもの、鹿はそれを目指して跳ぶ。そうする鹿を神聖視していた人たちが、昔いたのでしょうね」

 にこりと、エルージュが微笑んだ。

 佇む彼女の背後には、大きな白鳥の翼が見える。

その翼の遥か向こう、蒼き天とみどりの草原が交わる地平の彼方に、茶色の動くものがあった。

 草原を埋め尽くすほどの、大量の茶色のものが、一頭、二頭と、大きく飛び跳ねた。

跳ねたものは、次々に青空へと吸い込まれ、すうっと消えていく。

「あっ、え、ええっ?」

 ごしごしと、ツァガンは目を擦った。

「どうしたの?」

「エ、エルージュ、今、向こうで、鹿が、空に、消えた!」

 慌てて指さした方角を、エルージュは振り向き、見回す。

だが、その先には、なにもない。ただ、碧の草原が、無限に広がっている。

「なにもないわよ?」

「う、うそっ、そんな、オイラ、見たのに」

 首を傾げる彼女の横で、ツァガンは必死に、今見たものを主張した。

 茶色の、大きな角が生える鹿が、小気味よく弾みつつ飛び跳ねたと思ったら、冬の澄んだ青空の中に、消え去ったというのだ。

「ツァガン、その鹿って、どんな形をしていたの?」

「えっと、目がまん丸で、全体的に丸っこくて、鼻が突き出てて、角がすごく大きい……」

 二人の目線が、鹿石の彫刻に注がれる。

「こ、こんなの」

 ツァガンの顔が、深い困惑の色を示している。

それもそのはず、彼が見たものは、今指を差している鹿石の彫刻、そのままの姿だったからだ。

「オイラ、こんな姿の鹿は、いないって、知ってる。でも、今見たの、これと同じ、だった。どういうこと?」

「私も分からないわ。でも……」

「でも?」

「もしかしたら、よ。この鹿石を、私が触った事で、少しだけ昔の記憶が見えたのかも、知れないわ」

「昔、の記憶?」

「そう、むかしむかしの、この鹿石の記憶。そして石に込められた、太古の人々の風景よ」

 エルージュは微笑む。彼女は、シャマンの職能で、声なきものの記憶を呼び覚まし、無意識にそのヴィジョンを、ツァガンに見せたという。

「あなたを形作る魂は、狼のもの。四つ足の獣だからこそ、あれが見えたのかもね」

 推測ではあるが、優しくそう言われて、ツァガンの尻尾は無意識に揺れていた。


 大山脈を越え、二人は歩いていた。

世界を東西に分かつ、巨大な大地の峰を、ツァガンは幾度も横断した。

 最初は、西の世界の、春の呪術師ヴィスナーシャマンに会うために。

 二度目は、仲間と共に、テングリを目指すために。

 三度目は、巨悪を倒すために。

 そして今度は、白鳥の女を共に連れて、故郷へと帰るために。

 二人は、東方世界へと、足を踏み入れていた。

果てしなく広がる、大樹林地帯の、ほんのきわの、草原と森の境目を、ツァガンとエルージュは、手を繋ぎながら歩いている。

「ねえ、ツァガン」

 エルージュが、少しだけ早足になったツァガンに引っ張られる形で、声を発した。

「なに?」

 彼が、足を止めた。

「この先に、町はあるのかしら」

 沈黙の後に、ツァガンは答える。

「ない。この辺り、たまに遊牧する、ヤツだけ。あとは、オイラの村まで、町、ない」

「そうしたら、ヴァシリーにもらったこれは、どうしましょうか」

 そう言いつつ、彼女は己の手に握られたそれを出した。

 小さくて丸く、平たいそれは、鈍い銀色をしていた。

「何だっけ、お金、だったかな?」

「そう言っていたわね」

「町の宿に泊まる時に、使えって。でも」

「今までの通り道に、町は無かったわ」

 二人の歩んできた所は、草原の道だ。古代から人々が行き来した、交易の道でもあるのだが、現在はその道も別のものに置き換わり、通る人はほとんどいなくなってしまっていた。

「結局、使わなかった、ね」

 エルージュの手に乗る銀貨を、ツァガンは、一つだけつまみ上げた。

所々、黒い色に覆われたそれは、鈍いが微かに輝いているようにも見える。

「取っておこう、か」

 ツァガンは、銀貨を眺めつつ、言った。

「これは、オイラと、ヴァシリー、クラウス、サラ、みんなとの、思い出、だから」

 銀貨を握りしめた。彼の尻尾が、嬉しそうに揺れている。

「それと、エルージュに、渡せる、誓いのもの、だし」

 彼は笑顔で、手中の銀貨をエルージュの手に戻し、そのまま握らせた。

「えっ、だってこれは、ツァガンにって、ヴァシリーがくれたものでしょう?」

「そうだけど、オイラ、エルージュに、一番あげたい。ちゅーだけじゃ、その、男らしく、ないもん」

 照れくさいのか、ツァガンの頬が紅く染まる。笑顔が、少しぎこちなかった。

 そんな彼の姿に、エルージュも自然と、笑みがこぼれた。

「では、あなたの思い出は、私たち二人で大切にしましょうね」

「うん」

 二人は、銀貨を大切に仕舞い込むと、再び歩き出していた。


 どれぐらい歩いただろうか。

相も変わらず、草原は続いている。しかし、その色は西に比べて少し濃い。

 森の木々も、寒さに負けないとばかりに枝葉を広げている。

 植生は、西の世界とさほど変わらない。常緑の針葉樹林と、少しの落葉樹林が混じる大樹林地帯だ。

 エルージュは、歩きながら、己が身に震えが来ているのを覚えた。

それは、見知らぬ土地に来たというものではなく、寧ろ懐かしく温かな感触から来るものだ。

 視界の端々に映る、森の隙間から、白いものが見え隠れしている。

ツァガンは、それに気が付かない。見えているのは、エルージュ、ただ一人。

 満ちあふれている生命力の中に、白鳥の気配が僅かにだが、残されていた。

――消えては、いなかった。

 安堵の思いと共に、涙が一つ、こぼれ落ちた。

 彼女の氏族である白鳥は、彼女一人を残して、消え去ったと言われていた。

しかし、それは事実に反していた。白鳥の氏族は、血が絶えた訳ではない。限りなく薄くはなったが、東方世界の獣人の間に隠れただけだったのだ。

 その残された微かな気配が、彼女を、エルージュを出迎えている。

姿無きものが、声無き声で、太初のシャマンの帰還を、喜んでいる。

「見えた!オイラの村だっ!」

 ツァガンが、大きな声を出した。

彼の双眸の先には、森と草原の交わる境界に、複数の天幕があるのが見える。

 二人の足が、少し速くなった。

 視界の先の天幕が、どんどんと大きくなる。

 外を歩いていた者が、こちらに手を振っている。

 ツァガンも、大きく手を振った。

「ただいま!父さん!」

 声が、弾んでいた。

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