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38 青空とたまねぎ

「光あれ」

 そう、言葉が聞こえた。

 重く垂れ込めた雲の隙間から、一筋の光が射していた。

 周囲には、雨上がりのぬかるむ地面がある。

あれだけ燃え盛っていた、モスクワ木造の町ゼムリャノイ・ゴロドの火事は、ようやく収まろうとしていた。

 それでも、未だくすぶる火は、香ばしい臭いを周囲に漂わせ、隙あらば炎が、再び勢いを増しそうな、そんな危険を孕んでもいた。

「ひどいものだな、ほぼ燃え尽きているではないか」

 鹿毛の馬に跨がった男が、そう言った。

男の衣服は、湿り気を帯びていた。短い黒髪にも、濡れたのを拭き取ったような跡がある。

「だが、燃えたのは、外側までのようだ。あの内側城壁から向こうは、無事と見える」

 栗毛色の馬に乗った、鎧の男も、指で城壁を示した。

その大きな身体を動かすごとに、鎧の表面を、水滴が滑った。

 大雨が、モスクワを覆い尽くしたのは、彼らが攻撃を開始して、間もなくであった。

前も碌に見えない、土砂降りの中、諸公国軍はその手を休めて、タタール軍を警戒していた。

 直に変化は起きた。

絶え間ない雷鳴と稲光が輝き乱れ、随所で悲鳴がし、濡れた地面を細い稲妻が無数に走った。

 タタール軍の足並みが乱れた。彼らは稲妻に恐怖し、持ち場を離れ始めた。

 しかし、それを咎める者は、いなかった。

指揮官が、雷の直撃を受けたとの話が、彼らの逃亡の助けとなっていた。

 そこへ、好機と見たハールィチ公国軍らが攻め寄せたのだから、軍が崩壊するのも仕方が無いことであった。

「タタールどもも、あの雷では、どうしようもあるまい」

 栗毛馬が、足を止めた。

「コストロマ公、どうした」

「いや、馬が急に」

 コストロマ公と呼ばれた男は、馬の視線の先を見た。

 燃え落ちた外側城壁の前に、一人の女が、佇んでいた。

女は、長い黒髪に雨粒をまとわせ、白い衣服がずぶ濡れで、身体にピタリと貼り付いている。

「ハールィチ公、誰かいるぞ」

「誰だ」

「分からん。ただ獣人にも見えるな」

 二人の男は、騎乗したまま、その女に近づいた。

「女、何者だ。お前は、タタールの者か?」

 その問いに、彼女――エルージュは黙って首を振った。

 背中に生える、大きな白鳥の翼と、手には、異民族の使う謎の円形太鼓を持っている。

濡れた服が肌に吸い付き、身体の線を浮き立たせるその様子が、なんとも艶めかしい姿だ。

 彼女の顔はうつむき、その表情は窺い知れない。

ただ、荒く吐かれる息と、大きく動く肩が、体力を消耗しているのを感じさせた。

「では、モスクワの者か?」

 その問いにも、彼女は首を振る。

「モスクワでも、タタールでもない。なのに町を守り、タタールを撤退させたというのか。いや、これはあっぱれとしか言い様がない」

 コストロマ公は、そう言って大声で笑った。

「おぬし、クラウスと共にいた女か?」

 ハールィチ公の問いに、大きく、頷いた。

「クラウスらは、どこへ行った。まさかタタールにやられ……」

「違います」

 肩で息をする彼女が、町の中心部を指さした。

皇帝ツァーリという男の元へ、行きました。今頃は、向こうも全てが終わっているはずです」

「なに!」

「クラウスの役目は、巨悪を倒す勇者です。彼はそれを成し遂げました」

「どういうことだ、ハールィチ公!お前は抜け駆けをしたのか!」

 コストロマ公の顔が、みるみる紅くなる。

「違う!これは、私も初耳だ!」

 彼に襟首を掴まれて、ハールィチ公の顔が、苦しげに歪んだ。

「あれは、モスクワに行きたいと申し出た!だが、皇帝を倒すとは、知らなかった!知っていれば、私とて、撤退などしなかったわ!」

「嘘をつけぇ!」

 目の前で、大男二人が、つかみ合い罵り合っている。

「落ち着いてください」

 暴れる男らを、女の凜とした声が、諫めた。

「皇帝は、死んではいません。彼は皇帝に取り憑く悪を、倒しただけです」

「何を言っているのだ、皇帝が悪ではないのか」

「実際に、その目で確かめたら、よろしいと思います」

 そう言って、エルージュは宮殿クレムリンへと歩き出した。

「コストロマ公、我らも行こう」

「ああ」

 男二人も、手綱を引き、馬を進めた。

 先を行くエルージュの身体が、フラフラと揺れている。

「女、疲れているだろう。私の馬に乗れ」

「いいえ、結構です」

 ハールィチ公の誘いを、断った。

「私は、歩きたいのです。歩いてその足で、あの人を労わないといけないのです」

「……気丈な、女だ」

 エルージュの横を、ハールィチ公は付き添って、進んでいた。


 宮殿クレムリン前の広場は、人でごった返している。

 モスクワ中の人々が、家を失い、また火災を避けるために、逃げてきていたからだ。

だが、その中に、明らかに違う姿の者たちがいた。

 頑丈な兜を目深に被り、揃いの上衣を羽織る、三叉矛の旗を持つ、四人組だ。

 疲労困憊の顔色をした彼らは、汚れ破けた服を気にすること無く、人混みの中を進んでいた。

「なんだか、どっと疲れたな」

 旗のついた槍を片手に、クラウスは呟いた。

「当たり前ですよ、あれだけの大仕事を成し遂げたのですから」

 ヴァシリーは、そう言って、勇者であるクラウスを労うも、その足は泥のように、重かった。

「歩くの、もう嫌ですぅ」

 はぁ、とサラは大きな息を吐く。

「エルージュ、無事、かな」

 そんな彼らを尻目に、一人元気そうなツァガンが、晴れ間の見える空を見上げた。

「とりあえず、私の家で、休みますか?この近くですし」

「そうだな、そうしよ……」

 ヴァシリーの提案に、クラウスが同意を見せた。その時。

 ツァガンが、一人で、走り出していた。

「おい、ツァガン、どこに行くんだ?」

「エルージュ、来てる!」

 兜を放り投げた。黄金色の狼耳と髪が、陽光の下に輝いていた。

「エルージュ!」

 通りの向こうから、女が歩いていた。

その後ろには、馬に跨がる男が二人いる。いずれも鎧兜に身を包み、武装した出で立ちである。

 ツァガンは、走った。

彼女の背後に、かなりの数の兵が見えるが、そんなものは、どうでもいい。

 一刻も早く、彼女を、この手で抱きしめたかった。

「エルージュっ!」

 その声に、女も、走った。

黒髪につく雨粒を飛び散らせ、彼女は濡れた衣服の重さも、気にならないのか、懸命にこちらへと向かう。

「ツァガン!」

 悲鳴のように、叫んだ。

 生きていた。お互いにその思いが、胸を埋め尽くした。

「あああ!エルージュ!無事、無事だ!よかった!」

「ツァガン、あなたも、無事だったのね!」

 エルージュが、ツァガンの胸に飛び込んだ。

服が濡れていようが、水がしたたっていようが、それは気にする余裕も無かった。

 愛する男の胸で、安心したかった。ただ、それだけであった。

 二人は、抱きしめ合った。

強く、強く。もう二度と、離れ離れは御免だとばかりに。

「うん、オイラ、頑張ったよ。エルージュに、褒めてもらいたくて、うんと、頑張った!」

「えらいわ、ツァガン。よくあれを倒したわ、頑張ったのね」

 涙が、溢れた。

彼の濡れる頬を、エルージュの手が、優しく撫でる。

 ツァガンの尻尾が、ちぎれんばかりに、激しく揺れていた。

「あ、あー、その、お二人とも、なんだ」

 我に返ったエルージュが、後ろで気まずそうに見ている、二人の男に気が付いた。

ハールィチ公は、目のやり場に困り、コストロマ公は、肩を震わせて笑っている。

「すみません、嬉しくて、つい」

「まあ、お互いに無事でよかったではないか」

 男らの背後の兵たちも、冷やかし半分、喜び半分で、二人を囃し立てていた。

「ハールィチ公様、撤退したのでは、なかったのですか?」

 そこへ、クラウスらがやって来た。

頭の兜を慌ただしく取り、膝をつこうとする一行を、ハールィチ公は、何も言わず手で制した。

「挨拶はいい、我らはタタールどもを退却させた。それを皇帝ツァーリに知らせるために来たのだ」

「ええっ、あの数を、退かせたのですかっ」

 クラウスが、驚いていた。

「正確には、我らと、このコストロマ公国、援軍のユーリエフ公国と、スタリツキー公国でだがな」

「信じられません……」

「とにかく、お前たちが無事なら、それでいい。ご苦労であったな、クラウス」

「はい、ありがとうございます」

 公国旗をクニャージに返還し、クラウスは、宮殿へと向かうハールィチ公の背中を、眺めていた。

その後に続く、お供の兵たちに、喜びと労いの言葉をかけられて、五人は使命を成し遂げた充足感で、気分が高揚しているのに、気が付いた。

 広場へと差し掛かったハールィチ公が、同じぐらいの年頃の厳つい男と、声を掛け合っている。

 きっと、あれが援軍の指揮官なのだろう。クラウスは、そう思っていた。

「これで、皆が揃いましたね」

 サラが、笑顔で言った。

「そうだな」

 クラウスも、笑っていた。

「う、ヴァシリーの家、行くのか?」

 ツァガンは、エルージュの手を握ったままだった。

「あ、大事なことを忘れていました」

 ヴァシリーが、少し慌てていた。

「何かあったか?」

「兄を、忘れています。西のてで、眠ったままのはず。迎えに行かないと」

「その必要は、無いですよ。ヴァシリー」

 エルージュが、にこりと微笑んだ。

「膝をついて、両腕を出してください」

 ヴァシリーは、訳が分からず、言われたまま膝をついた。

 エルージュが、何か言葉を呟いている。

鳥の羽根の形をした、光る何かが無数に彼女の前に出現した。

 それは、ふわふわと舞いながら、一つに固まり、やがては人の形を取った。

「気をつけて、急に重さがかかりますから」

「わっ」

 光が止んだ。それと同時に、ずしりと重さが伝わる。

ヴァシリーの腕には、未だ眠ったままの、兄の姿があった。

「兄さん……」

 両腕が震えた。

重さから来る震えではない。余りにも軽すぎる事に、無意識でおののいていたのだ。

「命に別状はありません。ただ、体力が落ちているので、自然に目覚めるのを待つのが、いいでしょう」

 エルージュの言葉に、兄の胸にある白鳥の羽根が、白く輝いていた。


 キタイ・ゴロドのヴァシリーの家。

 それは宮殿クレムリン前の広場からほど近い、モスクワ中心地区に位置する。

ここに、彼の家こと、春の呪術師ヴィスナーシャマンの住処はあった。

「ふう、家が無事でよかった」

 そう言いつつ、ヴァシリーは皆を家の中へと通した。

「皆さん、適当に腰掛けてください。少し埃っぽいですが、そこは許してくださいね」

「いいよ、いいよ。長いこと留守だったんだし、それは仕方が無いさ」

 寝室に向かう彼を、クラウスは笑いながら見送り、椅子の埃を払った。

「あの、私は遠慮しておきます」

 エルージュが、入り口のところで言っていた。

「どうしたんだ?」

「服が濡れていますから、表で脱いできます」

 クラウスは、吹き出した。

「ま、ま、待て。外は、まずい」

「え、でも」

「おーい、ヴァシリー!空いている部屋は無いかー?」

「あ、はい、今行きますー」

 寝室から、ヴァシリーが急ぎ足で、出てきた。

その間に、クラウスは室内を見回して、何かを拾い上げていた。

「ええと、タライはこれか。ほらよ、ツァガン」

「うん?」

 ツァガンに、タライを放り投げるクラウス。

「濡れた服は、このタライに入れて、脱ぐんなら、部屋の中で脱いでくれ。外は人の目があるからな」

「クラウス、なんで、オイラにタライ、渡す?」

「手伝ってやれって、ことだよ。お前にしか出来ないんだからさ」

 今イチ理解していないツァガンと、何か理解している様子のエルージュを、奥の別室に押し込めて、クラウスは扉を閉めていた。

「……クラウスくん、聞き耳はダメですよ。ここは私の家なんですから」

「わ、分かっているよ」

 そう、口では言うものの、彼の耳は扉にへばりついていた。


 別室にて。

「手伝え、言ったけど……」

 ツァガンが、黄金色の頭を、ぼりぼりと掻いた。

目の前には、顔を真っ赤にした、エルージュが佇んでいる。

 髪は濡れているせいか、黒く艶が輝き、衣服は水分を含み、身体の線がくっきりと浮き出たものだった。

 彼の心臓が、激しい鼓動を、刻んでいた。

「あの、無理はしないで、いいから」

 エルージュが、ツァガンに背を向けた。

衣擦れの音がしたのに気づいて、ツァガンも慌てて目を逸らした。

 だが、やり場の無い目は、宙を泳ぐものの、頭の狼耳は、ずっと彼女に向いたままだ。

服を取り去る音や、切ない女の吐息など、少しも聞き漏らすまいと、本能が動かしていた。

「ツァガン、タライをくれるかしら」

「ご、ごめん」

 その手に握ったままのタライを、彼は渡そうとして、思わずそれを見てしまった。

 白い淡雪のような肌に、締まった腰のくびれと、そこから続く高い位置にある、丸くて大きな尻に、そして背中から生える、彼女を象徴する白鳥の翼があった。

 流れるような丸みを帯びた身体の線は、成熟した女そのものだ。

 それは、あまりにも鮮烈で、彼には刺激が強すぎる光景だった。

「きれい」

 無意識に、言葉が出た。

彼女の身体が、どんどんぼやける。白い肌に靄がかかり、輪郭は不鮮明になる。

「えっ」

 重いものが倒れる音で、エルージュは振り向き驚いた。

そこには、タライを抱えたまま、狼の男が真っ赤な顔で倒れ、伸びていたからだ。

「やだ、ツァガン、しっかりして」

 己が全裸なのにも関わらず、彼女は懸命に彼を介抱する。

ツァガンの顔は、とても幸せそうなものだった。


「……物音が、止んだぞ」

 クラウスの目線が、扉に注視していた。

「あいつら、おっぱじめたのか?」

 鼻息が、荒かった。

「いい加減にしなさい、ここは私の家だと言ったでしょうが」

 さすがのヴァシリーも、疲労で苛立ちが募っていた。

 部屋の窓際にある長椅子では、サラが小さな寝息を立てている。

「サラちゃんも寝ていますし、私も寝ます。クラウスくんも、もう寝なさいっ」

「そう怒るなって、ヴァシリー」

 サラの小柄な身体を抱き上げて、ヴァシリーは奥の寝室に向かった。

 クラウスも、名残惜しそうに扉の前を離れ、彼の後について歩きだしていた。


 明けて翌日。

モスクワの外側地区の、木造の町ゼムリャノイ・ゴロドでは、早くも町の再建の動きが見えていた。

 宮殿クレムリン前の広場には、昨日とは打って変わって、落ち着いた様子の人々が歩き、小規模ながらも市が開かれてもいた。

 広場の、モスクワ川を望む坂の上には、たまねぎ型の屋根がいくつもある、大聖堂が鎮座し、今日も人は祈りを捧げるために、引っ切りなしに出入りしていた。

 そんな大聖堂の裏手で、何やら動いている人影がある。

「おーい、そっちは準備できたかー」

 クラウスが、物陰へと声をかけた。

「はい、こっちもいいですよー」

 その向こうでは、サラの、嬉しそうな声が聞こえる。

「クラウス、オイラ、どうしたら、いい?」

「いいから、お前は黙ってここに立ってろ。後は俺らが合図するから」

 少しだけ着飾ったツァガンだが、これから何があるのか、実は知らされていないらしく、クラウスに問いかけては、しきりに首を傾げるのみだった。

「お待たせしましたー、それでは始めましょうか」

 八端十字架の杖を持ったサラが、急ごしらえで作った台に飛び乗った。

「では、エルージュさん、どうぞー」

 その名を聞いて、ツァガンの目が輝いた。

お尻の尻尾も、少しずつ動きが激しくなる。

 物陰から、ヴァシリーに手を取られたエルージュが、伏し目がちに姿を見せていた。

「おお、いつもよりキレイに見えるな」

 クラウスが、笑顔で呟いた。

「はいでは、ツァガンさん、エルージュさん、私の前に並んでくださーい」

 サラの顔は、満面の笑みがこぼれている。

「これから、お二方の結婚式を執り行います」

「えーっ、そんなの、オイラ、聞いてない!」

 慌てふためくツァガンの尻尾を、クラウスはキツく握って黙らせた。

 式は、サラが見よう見まねだと言いつつも、滞りなく進み、やがて誓いの品の交換となるのだが。

「持って、ない」

 ツァガンの顔が、引きつっていた。

「え、うそだ、お前本当に何もないのか!」

「な、ない!どうしよう、クラウス!」

「モスクワに来るまでに、いくらでも用意できる場面はあっただろ。なんでお前」

 頭を抱えて困るツァガンに、ヴァシリーがそっと耳打ちをした。

「え?」

 思わず聞き返すも、ヴァシリーはやれと目と手で語るのみ。

 ツァガンは、意を決して彼女に近寄った。

「エルージュ」

 名を呼んだ。そして間髪入れずに、彼女の口に、己の唇を押しつけた。

「オイラ、君に渡せるもの、持ってない。だから、これで、誓う。いい?」

 エルージュは、驚いた顔で、二三度瞬きをしたが、やがてにこりと微笑んだ。

「ええ、あなたの誓い、確かに受け取りました」

 そう言い、嬉しそうにまたも口づけを交わす。

「あーっ、これじゃ段取りが、違ってきますぅー」

「いいではないですか、二人とも幸せそうですし」

「そうだそうだ、これだって正式なものじゃないんだ。硬いこと言うなって」

「んもー、そうは言っても、私の初めて手がけた式なんですからー」

 頬を膨らませているサラと、笑いながら喜び、クラウスは手を叩く。

ヴァシリーも、祝いの言葉を投げかけ、万雷の拍手を送る。

 ツァガンは、いつの間にかエルージュを抱きしめ、自分の頬を彼女の首筋に擦りつけていた。

「ったく、あんなにベタベタくっつきやがって」

 クラウスは、呆れつつも、笑っている。

「あれですが、どうも意味があるみたいですよ、クラウスくん」

 ヴァシリーも、笑みがこぼれる。

「どういうことだ?」

「犬とか猫は、何かに身体を擦りつけて、自分のにおいを付けるんです。そうして、これは自分のものだと主張するんですよ。だからツァガンくんのあれも……」

「自分のものって、言いたい訳か」

「ですねぇ」

 皆の笑い声が、大聖堂と、そして広場の上の青空に、こだましていた。


 数日後、ヴァシリーの家にて。

「ええーっ、二人とも、帰るのか!」

 大声を上げて、ツァガンは驚いていた。

「ああ、俺の役目は終わったし、もうプロシアに帰らないと」

 寝台に腰をかけ、履き慣れた革靴に足を通し、クラウスは淡々と言った。

「私も帰ります、父たちが心配していますし」

 サラが身支度を整え終わり、一足先に居間にいるヴァシリーの元へと向かう。

 クラウスもその後を追った。

「ついにお別れの時が、来ましたね」

 居間にいたヴァシリーが、感慨深げに、そう言う。

「そうだな、長いようで短い感じもするけどな」

 クラウスが、無理をしている笑顔を、見せた。

「まず、ノヴゴロドに向かいますか?」

「いいや、一旦プロシアに戻るよ。そこから海路でヴァラームに行く。サラを送って、それからノヴゴロドにも寄っていく。サトコさんやウラジスラフさんにも会いたいし」

「二人に会ったら、道中お世話になったと、皆元気だと伝えてください。向こうも、復興が進んでいる頃ですから」

「分かった、伝えておくよ」

 クラウスは、大きく頷いた。

「ヴァシリーさん、ツァガンさん、エルージュさん。たまにでいいので、お手紙をください。私も皆さんにお手紙を書きますから」

「サラちゃんらしいですね。宛先は、ヴァラームのスオミ主教座教会でいいですか?」

「はい、それで充分に届きます」

 サラは何度も頷き、ヴァシリーと宛名の確認をするが。

「手紙?エルージュ、知ってる?」

「……ごめんなさい、私も分からないの」

 二人だけが、何も知らないと、顔を見合わせていた。

「えっ、手紙ですよ。紙に文字を書いて、それを届けて貰って読むっていう……」

 少し慌てた顔のサラが、身振り手振りでそれを伝える。

「紙?文字?」

「文字って、何かしら?」

 そこまでされても、ツァガンどころか、エルージュまでが分からないと言う。

「えー、冗談ですよね……」

 サラの顔が、引きつっていた。

――やっぱり、あいつらは田舎者だ。

 表情に出さず、クラウスは腹の底で、そう思っていた。


 家の前に、五人の男女の姿があった。

クラウスとサラ。そしてヴァシリーとツァガン、エルージュが、お互いに別れを惜しんでいる。

 クラウスは、照れくさそうに、皆と握手をし、サラも涙ぐみながら、握手と抱擁を交わす。

様々な思い出が、胸中に去来し、皆の目が、自然と潤んでいた。

「う、うー、クラウス、オイラのこと、忘れないでね」

「忘れないさ、ツァガン。お前と旅した思い出は、俺の一生の宝物だ」

「あり、がと」

 ツァガンの目から、涙が豪快に溢れ、鼻水も同様に溢れた。

「エルージュさん、ツァガンさんと、末永くお幸せになってください。私が手がけた結婚式ですから、幸せでないと困りますよ」

「ありがとう、サラ。あなたの祈りは優しいものですから、きっと幸せになりますよ」

 二人も、しっかりと抱き合い、名残惜しそうに言葉を交わした。

「ヴァシリー、今までありがとう。お前の兄貴も、よくなるといいな」

「クラウスくんも、いろいろ、ありがとうございます。君の旅を支えることが出来て、私は本当に幸せです」

「うん、俺も、皆と旅が出来て幸せだよ」

 クラウスは、顔を紅くしながら、笑顔でそう言う。

「エルージュも、早く子供、出来るといいな」

「はい、ツァガンには、しっかりと頑張ってもらいますから、ねっ」

 エルージュが、ツァガンにそう微笑んでいた。

「あっ、え。うん、オイラ、頑張るよ?」

 よく分からず答える、その姿に、クラウスの顔が引きつる。

彼はすかさず、ヴァシリーに耳打ちをした。

「あいつら、絶対、やってるって」

「もう、その話は止しましょう」

 ヴァシリーが、笑っていた。

「クラウス、手を」

 エルージュの声に、クラウスは、手を差し出した。

ゴツゴツの、剣を握り続けた男の手が、ふわりと柔らかな女の手に、包まれた。

「勇者クラウス、今まで、お疲れさまでした」

 その言葉に反応して、腰につけた聖剣クォデネンツが、激しく輝いた。

光は強く、目も開けていられないほどにまばゆくなり、クラウスは思わず目をつぶった。

「あれ、聖剣が……」

 時間にして、一瞬だった。本当に短い間、彼は目を閉じたのだが、その間に、聖剣クォデネンツは跡形も無く、消え失せていた。

「消えた……」

「役目を終えたからです。聖剣は再び眠りにつきました、おそらくもう目覚めないでしょう」

「目覚めない?」

「はい、聖剣を必要としない時代になるからです」

 エルージュの、不思議な物言いに、クラウスも、そんな予感がして止まなかった。


 モスクワ、キタイ・ゴロドで三人と別れ、クラウスとサラは一路プロシアへと戻る。

 一年以上前に、プロシアから来た道を使い、陸路、川路と伝って、ようやくクラウスは、故郷の町へと辿り着いた。

 戻るなり、仲間の騎士団員からは、喜びと懐かしさで出迎えられ、クラウスも古巣に戻った安心感に、思わず胸を撫で下ろしていた。

 だが、少しだけ変わった顔ぶれと、どことなく重い空気に、彼はふと、あの事を思い出していた。

 上司には、無事帰還した旨を報告し、サラを送り届けるという名目で、追加で一時の休暇をもらい、彼の足は次の場所へと向かう。


 そして、ヴァラーム。スオミ正教会主教座教会にて。

「お父様!ただいま戻りました!」

「サラ、無事であったか。嬉しいぞ」

「お嬢様、おかえりなさい!」

 サラが、満面の笑みで、父に抱きつく。

それを修道士たちは、優しい眼差しで見守っていた。

「おや、少し背が伸びたか?服が……」

「そうですかっ、嬉しいです!」

 賑やかに談笑するサラたちに、クラウスもようやく、肩の荷が降りた様子だった。

「クラウス」

 声をかけられて、彼は振り向いた。

そこには、サーミのヤッパ、ヴェプサのヤコフ、ネネツのギィダン、ユグラのチョスヴァが笑顔で立っていた。

「よくやった、勇者の働きにより巨悪は倒された。ありがとう」

 褐色の髪のヤッパに手を取られ、彼はシャマンたちと握手を交わす。

「クラウス、カマスには、巡り会えたようだね」

 ギィダンの目が、潤んでいる。

「あの若きシャマンも助けたのか、さすが勇者に相応しき男だ」

 大柄なチョスヴァが、頷いていた。

「見えるよ、クラウス。このめしいた目でも、ちゃんと見える。世界は救われたね」

 白く濁った目だが、ヤコフはそう言い、涙を流した。

 だが、一人、姿が見えない事に、クラウスは疑問を投げかける。

「あの、えっと、ソランダーさんは……」

「彼は、死んだよ」

 ヤッパが、残念そうに、答えた。

「ソランダーは、モスクワに抵抗した。そして殺された。だが、彼だけではない、あの辺りの諸民族は、皆消えてしまった」

 クラウスの胸が、ちくりと痛んだ。

「仕方が無いよ、これもそういう流れだ。我ら北方諸民族は、西の人間と同化するしかないんだ。そういう運命なんだ」

「でもね、同化しても、記憶は残る。私が、カマスを覚えていたように」

 ヤッパに続き、ギィダンも、言葉を続けた。

「俺たちは、クラウスを英雄として語り継ぐ。ルーシ人が口承叙事詩ブィリーナとして、英雄を語るように、我らも君を、子孫に伝えていこう」

 チョスヴァの、厳つい顔が、緩んでいた。

「君は、勇者。紛う事なき、英雄だよ、クラウス」

 ヤコフが、シャマンたちが、そしてサラと父親、正教会の修道士たちもが、皆口を揃えて、彼を称える。

 クラウスは、世界を救った。

それは、世界の大部分の人が知ることでは無い。だが、一握りの、限られた人々は知っていた。

 この活躍は、次代に、そして未来に向けて、シャマンの語る英雄叙事詩の中に組み込まれていくであろう。

 長い、旅であった。


 ノヴゴロド。

町の至る所で、賑やかな大工道具の音が聞こえてくる。

 住人は、半数以下に減ってしまったが、それでも残された人々は、往時の勢いを取り戻さんと、復興に熱を上げていた。

 そんな町の、見覚えのある通りを進み、クラウスは、一軒の真新しい建物の前で足を止めた。

「ようこそ、お客――」

 扉を開けて、聞き覚えのある声を聞いた。

「こんにちは、サトコさん」

「クラウスくん!」

 白い肌に、茶色の髪とヒゲ。温かそうな毛皮の衣服に身を包んだサトコは、転びそうになりつつも、入り口に立つクラウスに、抱きついた。

「よかった、無事だったんですね、本当に、よかった……」

「サトコさんも、元気そうで安心しました。顔を出すのが遅くなって、ごめんなさい」

「気にしないでください、会いに来てくれるなんて、嬉しいですよ」

 サトコの声が、湿り気を帯びていた。

感激の余り、涙が止まらなかった。

「ヴァシリーが、道中お世話になり、ありがとうと、言っていました。サラもツァガンも、皆元気です、俺も勇者の使命を成し遂げました」

「本当ですかっ、それは、おめでとうございます」

 クラウスは照れくさそうに、頷いた。

「そうだ、あの黒髪の女性は、どうしました?私の傷を治してくれた、人は」

「エルージュですか?彼女も元気です。とは言っても、ツァガンのものになりましたが」

「おお、そうだったんですね。彼らなら、お似合いの夫婦になれますよ」

 立ち話もなんだからと、クラウスは奥の部屋に通された。

積もる会話に、時の経つのは早いもので、日の光が西に傾き、赤い夕陽が町を覆う頃だ。

「おおーい、サトコ、いるかぁー」

 野太い声が、入り口から聞こえる。

「はい、どうしましたか?」

 サトコは立ち上がって、部屋を出て行った。

「いや、町中で、クラウスらしき男を見たって、芸人スコモローフから聞いてな。ここに寄ってないかなと」

「ええ、いますよ。どうぞ、ウラジスラフさん」

 ウラジスラフは、賑やかな足音で中に入った。

部屋の扉を勢いよく開くと、そこには、茶色の髪の、少年というには少し大人びた姿の男がいた。

「ク、クラウス、お前……!」

「お久しぶりです、ウラジスラフさん」

 飛びつく勢いで、彼は、クラウスを抱きしめた。

「無事だったか!そうだな、お前は勇者だもんな、当たり前だよな!」

 男泣きだった。

 住む国が違う、民族が違う者同士が、こんなにも気にかけてくれていた。

北国の人の、情深い思いに、クラウスの胸も、自然と熱くなった。

「ありがとうございます、本当に、俺……」

 言葉が、続かなかった。

感謝の思いしか、見当たらない。

 ふるき勇者の血は、使命を果たした新しき勇者を、称えている。

 クラウスの頬に、涙が伝っていた。

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