37 雷帝
激しい雷が、外で鳴り響いている。
モスクワ大公国の首都にある、宮殿内部に、クラウスら四人はいた。
石造りの、冷たくも荘厳な建築物は、白い漆喰と、そこに描かれた色彩豊かなフレスコ画が飾られており、さらに諸外国から招いた職人の手による、豪華な装飾彫刻が施されて、ここが殿上人の居城であるというのを、如実に表していた。
その石畳の廊下を、一行は、歩くのだが。
――おかしい。
クラウスは、感じていた。
今まで訪れた、幾つもの宮殿や教会、その他、大きな建造物には独特の空気があった。
人の背よりも、天井は遥かに高く、居並ぶ僧侶と従者は重厚な気配を持ち、厳かに綴られる祈りの言葉は、神聖にして冒しがたい迫力を伴う。
民衆は事あるごとに、そこに集い、日々の祝祭や、町内の話し合いなどを行ってきた。
そこは焚かれる香の匂いと、古ぼけたカビの匂いに、人々の紡いだ歴史の重みがある。
だが、ここには、それが、無い。
人の気配自体が無い。何も無い、がらんどうの空間なのに、得体の知れないものが、ここを埋め尽くしている。
空気が、固く粘ついている。においが、濡れた衣服のように生臭い。
身体に纏わり付くそれは、彼らの動きを阻害せんと、手足の自由を奪い絡みつく。
天井は、高く。それを支える円柱は、太く雄々しい。
高いところにある、窓の隙間が、激しく光った。戸板を、雨粒が叩く音がする。
円柱に据え付けられたロウソクの炎が、揺れている。
心臓の鼓動が、強くなった。
息が荒くなる。握りしめた両拳に、汗が滲んだ。
誰も、声を発しない。喉が灼ける感覚がする。
足だけは、前に進み続ける。
それが、見えてきた。
廊下と部屋を区切る扉に手をかけ、ゆっくりと力を入れる。
何の抵抗もなく、それはすんなりと開いた。
扉の向こうから漂う臭いは、今までのものよりも数倍強く、むせかえる湿気が広間に充満している。
サラが、鼻を押さえた。
ツァガンの顔も、歪んでいる。
赤黒い絨毯の先の、一段高みにある、白い玉座に、老人が一人、座っていた。
「……皇帝」
クラウスの喉が、絞り出すように、声を出した。
あれが、皇帝だ。冷酷で苛烈な、このモスクワ大公国の主である。
色艶のいい絹の衣服と、毛皮の上衣を身に着けて、大公の証である、毛皮で縁取りされた黄金の冠に、そして権力の象徴である、黄金の杖を携えた、四十半ばの男だ。
しかし、その風貌は実年齢とかなりかけ離れたものであった。
しわだらけの、白いヒゲが、顔の下半分を覆う、六十ぐらいに見える老人だった。
クラウスは、公国旗を片手に、聖剣の柄を触れた。
ヴァシリーが、太鼓を握りしめる。
ツァガンの尻尾の毛は、逆立っている。
サラの、八端十字架の杖が、震えていた。
「誰だ」
しわがれた、低い声だった。それは、広間の奥から、幾重にも響いて聞こえた。
「そこにいるのは、息子か?タタールどもは、片付いたのか」
玉座からは、クラウスの姿は見えない。ロウソクの明かりの影になっているのだ。
皇太子である息子は、親衛隊を率いて、宮殿を出た。
十万ものタタール軍を、モスクワ川に浮かべてやると言い残し、齢十六の後継者は、剣を取り威風堂々と出陣した。はずであった。
その息子が、戻っているのか。
何かが前線で起きたのか、火をかけられたか、城壁を落とされたか、はたまた援軍が到着したのか。
皇帝の顔が、苦虫を噛みつぶしたように、歪んでいた。
「どうした、なぜ、返事をしない」
黄金の杖の先端が、床を細かく打ち鳴らす。
クラウスが兜を取り、一歩前へ進む。
彼に続いて、皆も兜と上衣を脱ぎ去った。
足音と共に、ハールィチ公国旗が出現し、次いでクラウスの髪が、明かりを受けて鮮やかな茶色に輝いていた。
「何者だ、おぬしらは」
『来たな』
皇帝の声に重なって、地を震わせる、低く重い声も聞こえる。
「ここをどこと心得る、宮殿であるぞ。気安く立ち入っていい場では、ない」
『ここまで追ってくるとは、さすが欲の皮の突っ張る人間だ』
皇帝の背後の、肩口のあたりから、黒い陽炎が揺らめいていた。
「下がらぬか小僧、汚い服で余に謁見出来ると、思うな」
『天の力を得て、白鳥の力を得て、次は何を望む』
ヴァシリーが、何かを感づいた。太鼓のばちが動いた。
魔法の言葉が詠唱される。
力強く、それを叩いた。
広間に、蜘蛛の巣のような光が、一瞬走った。
縦横無尽に拡がるそれは、まるで網目を成し、部屋の壁から窓、果ては天井までを覆い尽くした。
――足止めの魔法。これで巨悪は逃げ出せません!
ヴァシリーの目が、黄金色に輝いた。
「誰か!親衛隊、おらぬか!」
皇帝が立ち上がり、大声を出した。
だが、やって来る者は、一人とていない。
腕の上がったシャマンの魔法は、声すらも、この広間に縫い込めていた。
「サラ、この旗を、大事に持っていてくれ!」
「はい、クラウスさん!」
彼から、ハールィチ公国旗を渡されたサラは、大きく頷いた。
「おぬし、見覚えがあるぞ。キタイ・ゴロドの、シャマン親子――」
言いかけて、皇帝の両目が、裏返った。目や口、耳と鼻。穴という穴から、黒い煙が無尽蔵に立ち上る。
煙は皇帝の頭上で、一つの塊を成した。
塊は不定形だった。熊のようにも見えれば、次の瞬間、鳥にもなる。ボコボコと内部から何かが膨らんでは、急速にしぼむ。
顔のようなものが、中心を割って現われた。樹木の洞の如き目と口を伴った頭が、裂けた隙間から押し出されている。
頭上に、枝葉のように大きく伸びた角が、生えている。脈打ちながら蠢いている。
両の目から、黒い粘つく液体が、垂れた。床に落ちたそれから、また新たな異形を生む。
皇帝の身体が、硬直したまま、音も無く倒れた。
『邪魔をするな!人間如きが!』
空気が震えるほどの咆吼が、こだました。
クラウスが、素早く聖剣クォデネンツを抜いた。
剣は、外で轟く雷鳴に呼応し、銀色に鋭い輝きを放つ。
「ツァガン、サラ、ヴァシリー!」
大声で、叫んだ。
「これで、決着を付けるぞ!」
「はいっ!」
「うん!」
「分かりました!」
サラが、ツァガンが、ヴァシリーが、皆、それぞれの思いを乗せて、言葉を返した。
目の前の黒い塊から、粘液がぼとり、ぼとりと落ちる。
落ちたそれがのたうつ。のたうちながら、次第に獣の形を取る。獣は蛇を身体にまとわせたライオンとなった。
蛇が、黒い炎を吐き出した。
石造りの床面に、それは広がり、盛んに燃えていた。
クラウスが、ツァガンが、走った。
黒い異形の怪物どもは、無尽蔵に出現している。
塊が脈動し、粘液が飛び散るごとに、その数を増やしている。
「クラウスさんっ、危ないです!」
ライオンに肉薄したクラウスの目前を、蛇が待ち構えていた。
蛇は大口を開けて、炎を吐こうとしている。
だが、それをサラの魔法が吹き飛ばした。
ライオンの爪が、クラウスの上衣を切り裂くも、その動きは突如止まる。
聖剣が、獣の胴を、一刀両断に切り捨てていた。
視界の隅では、ツァガンが、跳ね回る丸いものを、次々に弾き飛ばしている。
まるで踊っているかのように、狼の身体はしなやかに舞い、拳が、蹴りが、異形の怪物どもに、めり込んでいた。
その二人目がけて、さらに翼を羽ばたかせて、空飛ぶトカゲが襲い来る。
トカゲの翼を、ヴァシリーの風の魔法が、切り刻んだ。
残る本体も、サラの爆発魔法が粉砕した。
丸いものが、ツァガンに蹴り飛ばされて、本体の黒い塊に突っ込み、弾けた。
その先から、粘液が四方八方に飛び散って、さらに新しい異形を生み出している。
「うん?なんで、増える?」
ツァガンが、首をひねった。
「油断、するなぁっ!」
クラウスの叫びがする。
黒い粘液が、その形を取って、ツァガンに襲いかかっていた。
「あ、うあ!」
形は、二つ頭の狼だった。
ツァガンの足が、すくむ。
彼にそれは倒せない。狼は彼の祖霊であり、氏族を庇護する獣だからだ。
「オ、オイラ……」
首を、激しく振る。
二つ頭の狼と戦うことを、彼は拒否していた。
狼の頭の片方が、口を開いた。炎が、深く裂けた口から吐き出された。
さらに、追い打ちをかけるように、双頭の狼と、縞模様が燃える虎が、際限なく湧いては、ツァガンに襲いかかる。
炎の渦が、彼の身体を覆い尽くした。だが。
「あ、あれ?」
熱さを感じなかった。確かに炎が目の前にあるが、熱や痛みがない。
よく見れば、少しの隙間を空けて、炎が何かに阻まれている。
不思議だと、彼は思った。
サラの魔法が、狼と虎を吹き飛ばした。
爆風の向こうからは、雷をまとったイタチと、硬い鱗を背負った化鳥に、木の葉を飛ばす狐が、それぞれ十数頭、飛びかかっていた。
異形の怪物は、尽きるところを知らない。
尋常ではない早さで湧き、魔法を放ち、クラウスたち四人を襲う。
外では、地鳴りのような音が、止むこと無く響いている。
雨は滝に匹敵する勢いで、天から降り注いでいた。
世界の終わりが、来ているのかと、皆は思った。
こんなに激しい雷雨は、今まで生きてきた中でも、体験したことがない。
雨と言えば、しとしとと降る小雨か、霧雨であるのが、普通であった。
リヴォニアで経験した、通り雨の激しいものは、年に数度あるかないか。
今、外を洗い流しているそれは、まさに天変地異と言うに相応しいものだった。
「守りは、私に任せてください!」
ヴァシリーが、祈りの文言を、太鼓の音に乗せて、唱える。
皆を護り、体力を支え、駆け回る怪物どもを、風の魔法で引きちぎる。
エルージュが戦線を離れた今、この芸当が出来るのは、自分だけの役割と知り、彼は懸命に舞い祈った。
勇者を導き、仲間を助ける。
それは、シャマンである彼にしか、為し得ないものであった。
「全部、消えなさいっ!」
サラも、必死だった。
際限なく出てくる異形ども目がけて、彼女は詠唱を途切れさせる事なく、爆発魔法を放つ。
この旅を始めた当初のプロシアでは、魔法を唱えるという行動すら取れなかった。
あまりの恐怖に怯え、震える身体で、クラウスらプロシア騎士団が戦うのを、ただ見ている事のみ。何かをしようという気すら、起きなかった。
その後、クラウスと旅をし、モスクワでツァガンと出会い、ヴァシリーにも巡り会った。
一人っ子だった彼女は、頼れる兄のような男たちに支えられ、魔法の腕を、めきめきと上達させていた。
威力は上がったものの、彼女は、魔法の狙いを定めるのが不得手ではあった。
油断をすると、すぐに明後日の方向に、魔法は飛んでいってしまう。
だがそれも、ヴァシリーの言う、狙いなど不要、全てを吹き飛ばせという言葉で、救われた気がした。
魔法には、向き不向きがある。
自分のは、広範囲に放ってこそ、意味があるものだ。
そして、それは、一行の危機を救った一手となった。
サラが、攻撃の魔法に目覚めたのは、齢十になろうかという年の頃だ。
彼女も、一人前の魔法使いに、成長していた。
「かかってこい!この怪物ども!」
クラウスの両腕は、疲れを知らなかった。
次々に襲い来る怪物、それらを聖剣クォデネンツの刃の下に切り伏せて、それでもなお輝きを失わないそれを、彼は素晴らしいと感じていた。
通常の剣であれば、幾度も肉を切る度に、切れ味は衰え、刃は脂や血に覆われて使い物にならなくなるのが、当たり前だった。
しかし、剣は鋭さを失わず、異形どもを容易く切り裂いている。
一介の騎士団員に過ぎなかった己が、今や世界を救う勇者として、ここに立つ。
聖剣の存在すらも、知ることの無かった人生を、変えてしまった北方諸民族のシャマンたち。
いつだったか、その存在をなじり、罵倒した時もあったが、それでもシャマンたちは勇者を信じ、旅が成功するように、祈りを絶やさずにいた。
年を経たシャマンたちは、クラウスの感情が、若さ故のものだと、分かっていた。
いたからこそ、この経験すらも成長の糧になると、見守った。
仲間と共に歩み、笑い、喧嘩もし、お互いに励まし喜び合うことも、今思えば必要な事だった。
世界は、広大であった。まだまだ、知らないことが、たくさんある。
サラ、ツァガン、ヴァシリー、エルージュ。皆、その知らない世界からやって来た。
彼を、勇者を支えるために、やって来た。
何ものにも代えがたい、大事な仲間であった。
「オイラ、頑張る!」
ツァガンが、敵陣深くまで踏み込んだ。
エルージュが、表で戦っている。タタール軍十万を倒すと、彼女は言っていた。
心配だと、ツァガンは思った。
十万という数が、どれぐらいを指すのか、彼には想像もつかないが、モスクワ突入の寸前に見た、あの騎兵の数は、今まで見たことも無いものだった。
それを倒す。信じられない言葉の衝撃だ。
だが、彼女には、シャマンの力、魔法の力がある。
自分には無い、その力で、この状況を切り抜ける。それは、ヴァシリーの兄を救った時のように。
ならば自分も、この戦いを制し、エルージュを出迎えて、笑顔で抱きしめてやるべきだと考えた。
よく頑張った。そう労い、心から愛する白鳥の女を、この手でしっかりと。
ツァガンの拳が、巨悪の黒い身に、めり込んだ。
「ん?」
感覚が、変だった。
泥水の溜まる沼に、足を踏み入れた時のような、ぐにゃりとしたものだ。
瞬間、尻尾の毛が逆立った。言いようのない悪寒が、背中を走る。
引き抜いた手には、ヒルのような、小さな黒い軟体動物が、無数にへばりついていた。
「う、うわ、あ、あ!」
手を激しく振る。それは、べちゃべちゃと床に散らばった。
「オ、オイラの、拳じゃ、アイツ、無理!」
床に落ちたそれが、一つの大きな塊を成す。
一本角のうり坊が、ツァガンの腹に激突し、彼は衝撃に倒れ込んだ。
「ツァガン、大丈夫か!」
クラウスの剣が、うり坊を切った。
角が、腹に穴でも空けてしまったかと、彼は心配そうに、覗き込む。
「う、うん、オイラ、平気」
だが、何のことは無い。ツァガンの腹は、衣服すらも破けてはいなかった。
「よかった、角が刺さったかと、思ったぞ」
「大丈夫、オイラ、獣人、だもん」
にこりと、ツァガンの無邪気な笑顔が、見えた。
「よし、エルージュのためにも、頑張れよな」
「あ、……うん!」
一瞬、顔が紅くなる。ツァガンは、大きく頷いていた。
四人は、戦った。
尽きることの無い、異形の怪物は、なおも湧いてくるが、その数は確実に減っていた。
輝く聖剣と、狼の爪牙に、少女の魔法と、シャマンの祈りが、怪物どもを蹴散らしている。
その彼らを、表で戦っている白鳥のシャマン、そして北方諸民族のシャマンたちが、支えていた。
黒い、巨悪の身が、震えた。
どす黒い炎が、塊から四方八方に飛び散った。
クラウスが、炎を断ち切った。
その身に熱傷が刻まれようとも、彼の腕は、炎を斬る。
「きゃああ!」
「サラちゃん!」
サラの悲鳴に、ヴァシリーが援護に入る。
吹き出す突風が、炎を散り散りに消し去った。
「ん?また……」
炎を避けようとして、ツァガンは不思議がっていた。
飛んできた火が、目の前で弾けて消えた。
まるで自分が、透明な何かに覆われているような、そんな感覚だった。
「ヴァシリー、サラ、無事か!」
クラウスの声が、飛んだ。
「はい、何ともないですっ!」
「こっちは平気です、クラウスくんも、気をつけてください!」
二人の声が、重なるようにして、聞こえた。
「クラウス、あの黒いの、オイラの拳、効かない。どうする」
ツァガンの指が、巨悪を示した。
その間も、黒い炎は噴き出すように、飛び散っている。
「じゃあ、黒いのは、俺がやる。お前は、周りのヤツを頼んだぞ!」
「うんっ!」
狼の尻尾が、揺れていた。
クラウスの腕が、動いた。聖剣の切っ先が、狙いを定めている。
腕の震えは、無い。胸の鼓動は多少早いが、呼吸も、大きく乱れては、いない。
これが、シャマンの祈りなのかと、彼は思った。
一歩、踏み込む。聖剣を、横薙ぎに払った。
手応えは、あった。
巨悪の塊にある、顔のようなものが、裂かれていた。
「うっ!」
だが、裂かれた傷口に泡が吹き、触手が湧いているのを、彼は見た。
粘つく何かが、絡み合い、くっつき合い、また、一つの平らな面へと、戻っている。
「くそ、なんだこれは!」
腕を振り上げ、何度も塊を切りつけた。
だが、その度に傷口は、ブクブクと泡を立て、元通りに融合してしまう。
その泡の一つが、弾けた。四方に飛び散る黒い飛沫は、クラウスの衣服や皮膚を容易に引き裂いた。
激痛と共に裂けた肌から、赤い血が流れる。
「聖剣も、効かないというのか!」
勇者の叫びに、聖剣が甲高い音を立てた。
何かを訴えるその音は、ヴァシリーの耳にも届いていた。
「サラちゃん、魔法の準備をしてください」
彼女を守りつつ、ヴァシリーはそう言った。
「えっ、魔法?」
「あの、ハールィチ公に託された魔法です。時が来ました」
肩にかかる、ハールィチ公国旗が、ずしりと重くなる。
サラは、思わず唾を飲み込んだ。
「クラウスくんを、助けます。聖剣クォデネンツも、そう言っています」
「は、はい」
詠唱が、開始された。
サラの手にある、八端十字架の杖が、くるりと翻った。
衣服の裾が、ひらひらと靡いている。銀色の髪が、ふわりと浮いた。
小柄な身体の前面に、青白い光が出現した。
熱くて冷たいそれは、石を熱した時のように、小さな音を立てている。
「彼が下がったら、撃ちます。用意はいいですか」
サラは、答えなかった。答える余裕すら、無かった。
双眸は、黒い巨悪の塊を、見据えている。
相手は巨大であった。外しようがない程の大きな身体を、宙空に浮かばせている。
それを、クラウスが、幾度も切り裂いていた。
何度も、何度も、腕の動きは止む事を知らない。
湧き出る怪物どもの攻撃を、その身に受けながら、両脚はしっかりと立っている。
しかし、それに致命傷を負わせるには、何かが足りなかった。
間合いを計るために、クラウスは数歩、身体を引いた。
「今です!」
ヴァシリーの両目が輝き、サラにその時を告げた。
「はい!」
凜とした少女の声が、広間に響いた。
次の瞬間、途方も無い圧力の塊が、巨悪の身を包み、部屋を埋め尽くした。
皆の鼓膜が、有りもしない音を捕らえ、わんわんと揺れる。耳が、塞がる感覚がした。
足元は激しく揺れ、床の石材に、無数のヒビが走る。
鮮やかな青い色が、弾けた。弾けて拡散して、再びそれは集い収縮する。
衝撃波が、幾重にも拡がった。
見えない壁のような風圧が、皆の衣服や髪を激しく揺らした。
サラの持つ、ハールィチ公国旗が、風にはためく。三叉矛を彩る金糸の刺繍が、青白い光を受けて輝きを放つ。
「あれ、寒く、なった?」
ツァガンの口から、白い吐息が漏れた。
室内の気温は、爆発の前よりも、明らかに下がっていた。
公国旗のある槍を支えにして、サラは巨悪を見る。
ヴァシリーが、叫んだ。
「クラウスくん、後は、君が――!」
クラウスは、聖剣を構えた。
目の前の、黒い、巨悪の塊が、キラキラと輝いている。
爆発の影響なのか、急激に熱量を奪われたそれは、表面が凍りついていた。
足が、動いた。
飛び散った黒い粘液は、凍ったおかげで、異形のものどもを、生み出さなかった。
本体である塊も、裂けた傷口に氷の塊がつまり、再生を阻害されている。
――凍る大地が溶けた時から、あれは始まった。
誰かの声が、思い出された。
――あれは、大地。すなわち、人々を指します。
軽快に、両脚は床を蹴る。
聖剣は、その輝きを失わない。勇者の手に抱かれて、使命を果たさんと、銀色の身体を鋭く煌めかせる。
――大地を割る聖剣。一振りで地が裂ける威力があるそうだ。
腕を振り上げた。上段から袈裟斬りの覚悟で、クラウスは息を止め突っ込んだ。
――中心の道は、天に通じる道。あなたしか、通ってはいけない道です。
黒い塊の正中線を、叩き切った。ガツリと硬い感触が、剣を伝い手に伝わる。
硬い何かが、砕けた。素焼きの壺を割ったような、薄く硬い手応えだった。
剣の先に、赤い何かが見えた。
赤い、紅い、血よりも赤いもの。
それは、切っ先に引っかかり、破けた。どろりとした液体のようにも見えたが、やがては霧状になり、空気に溶け込んで消えた。
「はっ、はぁ、はぁっ……」
クラウスの額から、大粒の汗が流れる。
全力で叩き切ったためか、呼吸がひどく荒かった。
「クラウス、やった、のか?」
ツァガンが、警戒を解かず、低い姿勢のままで、呟いた。
巨悪の黒い塊が、二分され、床に落ちた。
凍ったままのそれは、黒い粉雪となり、サラサラと溶けていた。
聖剣クォデネンツは、確かに、大地を割った。
大地そのものから生まれた、大地を表わす巨悪は、人の欲望と悪意を固めた、害なるものだ。
それは、地上を暴れては、刻の勇者によって、倒されてきた。
伝説は、真実のままであった。
「クラウスくん」
ヴァシリーが、近寄った。
右腕で、疲労の色濃いサラを支えつつ、彼は仮面の下で、微笑んでいるようだった。
「クラウスさん、やりましたねっ」
ハールィチ公国旗を、しっかりと握ったサラが、精一杯の笑みを見せた。
「クラウス!すごい、アイツ倒した!」
黄金の尻尾を振りながら、ツァガンが走り寄る。
「お、俺……」
クラウスは、ただただ呆然としている。
様々な思いが、胸中に去来し、言葉を発することが、出来ない。
故郷プロシアを旅立ち、世界を巡ること、一年以上の時が過ぎた。
長いようで短かった、彼の旅が、ようやく終わりを迎えようとしていた。
サラ、ツァガン、ヴァシリー、エルージュ。
そして彼を支え、祈り続けた北方諸民族のシャマンたち。
道中の町で、出会い、助けて貰った人々。いろんな人の笑顔が、浮かんでは消える。
外の雷鳴は、いつの間にか遠ざかり、雨の音も弱まりつつあった。




