20 カザンの草原にて
日が、じりじりと照っていた。
クラウス、ヴァシリー、サラ、ツァガンの四人は、真夏のような突き刺す陽射しの中を、ひたすらに歩いていた。
ユグラの村を発ち、それからすぐに年が明け、季節は真冬でなければいけないのだが、それを表す白いものは、未だ姿を見せなかった。
――今年の冬は、厳しい。
ユグラのチョスヴァの言葉が、胸に引っかかる。
その言葉には、色々な意味が含まれていた。
天候、災害、飢餓、戦争。
そのうちの、戦争は、既に起きている状態であった。
皇帝と親衛隊の暴虐と、異民族への侵略だ。
災害も、ある意味で起きている、真っ最中であった。
ヴァシリーの兄の、放浪と狂乱である。
残る二つは、足音を立てずに、忍び寄っていた。
雪の降らない、冬だった。
冬なのに、冬でない、今のありさまは、明らかに異常であった。
雪が無ければ、春の洪水は起きず、肥沃な土地は、もたらされはしない。
土は痩せ衰え、植物は立ち枯れ、作物は実りを忘れる。
待ち受けるは、飢饉という地獄だ。
大地が、黒きもので覆われるのも、時間の問題だった。
草原。
カラカラに乾いた風が、大地を吹き抜ける。
北方諸民族が居住する、樹林地帯を抜けた先は、どこまでも広がる、無限の草原だった。
「ねえねえ、ヴァシリー」
目印らしい目印もない、茫漠と広がる大地を眺めつつ、ツァガンは言った。
地平の彼方では、馬に乗った者たちが、土煙を上げて疾走している。
「なんですか、ツァガンくん」
「オイラ、相談、ある」
「相談?」
「うん、オイラの、氏族のこと」
彼は、語り出した。
ある秋の日のこと、ツァガンの故郷である、東方世界の大樹林で、火事が起きた。
火は、瞬く間に燃え広がり、広大な森は灰燼と帰した。
森が死んだことで、食料が取れなくなった。
木の実は減り、獣は姿を見せなくなり、その日、その日の食事にも、事欠くような有様になった。
森を蘇らせないと、我ら狼の氏族が死に絶えてしまう。
父はそう言った。
ツァガンたちは、東方世界の獣人なのだが、なぜか自分たちのシャマンを持っていない。
森の周囲に住む、他の獣人氏族たちは、自らのシャマンの力で、なんとか森を蘇らせようとしている。それが出来ないのは、ツァガンたちだけ。
こうなったら、西の世界にいるという、春の呪術師に頼むしか無い。
そう言われて、ツァガンは西の世界へと来たのだという。
「ヴァシリーは、シャマン。春の呪術師の子供。魔法、使える、森を蘇らせる」
「でも、それは……」
無理だと、彼は言った。
彼も、彼の父である、春の呪術師も、そんな芸当は出来るわけが無かった。
各シャマンは、自身の氏族のためにしか、祈ることは許されない。
世界の命運を託された、勇者に祈ることは可能でも、それはあくまで世界のため。
いつ敵に回るやも知れない、他の氏族に祈りを分け与えるなど、言語道断であった。
「じゃ、じゃあ、よそのシャマンを、オイラの氏族にするの、どう?」
「どうって……、それも無理な話ですよ」
「ええー」
「シャマンは、誕生した氏族に属しています。途中で氏族を変えるなんて、まずありえません」
「そ、そんなあ」
「あとは……、うーん」
ヴァシリーは唸っていた。
「女のシャマン」
そう呟いて、頭を振った。
この世界、シャマンは数多く存在すれど、それは存在しないと、言われていた。
女のシャマンとは、その氏族に属しながら、異なる氏族の男と結ばれることで、両の氏族に祈りを捧げることが出来る者だ。
だが、その者は、長いシャマンの歴史の中でも、ただ一人しか、確認されていなかった。
太初のシャマンは、この世界に初めて存在したシャマンであり、遥か昔に消えた女である。
その女が、実際に両の氏族を祈ったかは、分からないが、男しかいなかったシャマンたちは、こぞってその女を、そうと決めつけた。
「なーにを、話し合っているんだー?」
クラウスが、無造作にツァガンの頭から、キノコをむしり取った。
「い、い、いたい!」
不意の痛みに、ツァガンが転げ回った。
「悩み事か?」
「まぁ、それに近いものです」
ヴァシリーは、かいつまんで説明をした。
「つまり、ツァガンの氏族とやらは、シャマンを必要としているのに、ヴァシリーにはどうすることもできないのか」
「う、うん」
頭をさすりつつ、ツァガンが答えた。
クラウスは、少しだけ考えた。
北方諸民族のシャマンの祈りは、現在、彼にかけられている。
世界を救うという、命運を託された勇者の、その歩みを支えるために、彼らは日夜、祈り続けている。
そして、水底の王が言った、全てを解決する者という言葉だ。
もしかしたら、これらが合わされば、ツァガンの件は解決できるのでは、あるまいかと、彼は思いついていた。
あるいは、解決まではいかなくとも、それを解きほぐす糸口になれば――。
そう、結論づけた。
「おい、ツァガン」
黄金色の頭をさする、彼を見る。
「ヴァシリーの代わりに、俺がなんとかしてやるよ。俺は勇者だからな」
その言葉に、ツァガンの尻尾が、激しく振られていた。
「ほ、本当?」
「ああ、嬉しいだろ?」
「う、うん、オイラ、嬉しい!」
屈託の無い、笑顔だった。
カザンの草原。
突き刺す陽射しが、焼けるように暑い。
クラウスは、流れる汗を拭いつつ、遠くに見える陽炎を追っている。
大きく開いた口から舌を出し、ツァガンは喘ぐような息づかいである。
ヴァシリーは、丈の長い衣服を捲り上げて、少しでも涼しい風を中に取り込み、サラは、ヴァシリーの掲げる、太鼓の影に身を寄せていた。
「おーい、少し休まないか?」
クラウスが、限界だとばかりに、声を出した。
「賛成です……」
「オ、オイラも……」
「異議ないですぅ……」
一行は、岩が無造作に転がる、その場所で、休憩を取り始めた。
岩が作る僅かな日陰に、皆は腰を下ろし、しばらく遠くをぼんやりと眺める。
草原と砂漠の合間だろうか、そこには、駆け抜ける騎馬の姿があった。
「ここ、どこなんだ」
クラウスが、喘ぐような声で、誰とも無しに聞く。
「カザンの領域に入ったようですね、走っているのは、タタールどもですよ」
ヴァシリーが、地平の向こうの騎馬を指した。
――月と星が支配する、ところ、か。
それが意味するものに気づいて、ヴァシリーは緊張した。
「大丈夫なんですか、こんなところ」
サラが、少し怯えていた。
「馬、まだ遠く、いる、こっちには、気づいて、いない」
ツァガンは、額の汗を拭った。
四人はしばらく押し黙り、消耗した体力を取り戻そうと、大きく深く呼吸を続ける。
やがて汗も引き始め、クラウスは情報を整理しようと、もちかけた。
「まず、天に向かう鹿、ですね」
ヴァシリーが、サーミのヤッパに言われた言葉を出した。
「それから、右に杯、胸に掲げ、夜明けに向かえ、です」
サラが、ヴェプサのヤコフの言葉を継ぐ。
「それと、うた」
クラウスが、ネネツのギィダンのそれを言う。
「男が、いる、男は、上を向く、鹿は、夕陽に向かい、男は凍れる地へ、歩く」
ツァガンが、一つ一つ、ペチェラのソランダーの言葉を、丁寧に思い出す。
「男は剣を持つ、倒れることのない、不滅の男、うたが、それを目覚めさせる……」
ヴァシリーが、最後の手がかり、ユグラのチョスヴァのそれを、言った。
「分からないな」
クラウスが、息を吐いた。
「天に向かう鹿って、何なんだ。鹿が空を飛ぶとでも、いうのか」
「鹿って、大きく跳びますよ。それじゃないんですか?」
サラの言葉に、ヴァシリーは首を振る。
「そうではないんです。ないんですが、うーん」
悩む三人を横目に、ツァガンがもぞもぞと動いていた。
腕を組み、頭を何度もぐるぐると巡らす。
暑さで、ついに気が狂ったのかと、クラウスは思っていた。その時。
「あ、あ!お、思い出したっ!」
大声と共に、彼は立ち上がった。
「天に向かう鹿、オイラ、見た!こっちの世界、来る途中、見た!」
「ほ、本当か!」
三人は、一斉に声を上げた。
「あれ、鹿石!鹿石のこと、言ってる!」
「鹿石?」
「そ、そ、そう、背の高い、大きな石に、鹿が、彫られてる、やつ!」
それは、何なのか、クラウスは問うた。
「あ、あのね、こんな感じの、石で……」
ツァガンは、自分の背後にある、細長い石を叩いた。
「え、それ……」
ヴァシリーが、指をさす。
ツァガンは、振り向いた。
そして、驚いた。彼が触っているもの、それこそが、鹿石であった。
四人で最も背の高い、ヴァシリーの身長を遥かに凌駕するそれは、地面を穿ち、そこに永遠に立ち続ける、一種の印、ともいうべきものであった。
「み、見て!鹿!鹿がある!」
「これは……、また見事な紋様の……」
鹿石の表面を優しく撫でながら、ヴァシリーは息を吐く。
表面には、鹿のように見える、大分デフォルメされた動物紋様が刻まれており、大きな角と、天に向かって駆け上がる、躍動的な鹿の動きが、いくつも見受けられた。
鹿の目玉は、大きく丸く描かれ、鼻っ面は鳥のクチバシの如く細く伸びてはいるが、それを見た誰もが、これは鹿である、と思わせる強烈な印象を放っていた。
鹿石の周囲の、一見無造作に転がっている岩は、よくよく見れば規則正しく並んでいるのが分かり、それは鹿石と同列か、少しずれた位置に平行して続いていた。
「鹿は夕陽に向かい……って、ここから西に向かうのか?」
「どうやらそうですね、この鹿は、動かないものですし」
「西……」
四人の双眸が、地平の彼方を見つめていた。
日が、正面の地平に向けて傾き始めている。
薄い筋雲が空に描かれ、厳しい陽射しも少しは柔らいだ様子だった。
遥か彼方に見えた、それを目指して、一行は歩き続け、ようやくそこに辿り着いていた。
「これが、次の印か?」
クラウスは、開いた口がふさがらなかった。
「確かに、上、ですけども……」
ヴァシリーが、少し目を反らす。
「あはは、こいつ、すごい」
ツァガンは、ただ笑うばかり。
「男の人、ですか?これ?」
サラは、不思議そうに、それを見ていた。
四人の目の前には、人の形をした、石の像――石人があった。
風貌は、口ひげを蓄えた、丸い顔の男になっており、鹿石と同じく、デフォルメされたデザインが特徴的なものだった。
石人は、きちんと両腕までが彫り込まれ、その手には棒だろうか、細長いものが握られている。
そして、何よりも目を引くのが、股間に彫り込まれた巨大な男根で、明らかに胴体とそれのバランスが合っていなかったうえに、屹然と怒り立っている状態であった。
――うそだろ、ルーシ人は皆こうなのか?
ちらりと、クラウスはヴァシリーを窺う。
――男根は生命力を表すと言いますが、さすがに巨大すぎますね……。
ヴァシリーは、ツァガンを見る。
ツァガンは、腹を抱えて笑っている。
「クラウスさん、これ……」
何も知らないサラが、指を差したのに、二人は慌てていた。
「ヴァ、ヴァシリー、どっちに行けばいいんだ?」
「お、男は、凍れる地、ですから、北ではないですかね」
「だっ、だよなー、行くぞー」
なるべくそれに目を向けないよう、二人は笑うツァガンとサラの手を引いて、北へと向かう。
道中、それについて言ったツァガンの頭をひっぱたき、もうそれのことは口にするな、とクラウスは念を押す。
ヴァシリーも、逆らうな、としか言わなかった。
北へと向かうこと数日、またも目の前に石人が、現われていた。
今度のそれは、周囲に石列を伴い、何かここで祭式が行われていた。そういう空気を醸し出していた。
「今度のやつは、手に何か持っているな」
ものを言わないそれは、胸のあたりに杯を一つ、掲げていた。
「右手に杯……ですね」
「夜明けというと……」
サラの言葉に、皆がその方角を見た。
そこには、峻険なる峰々が座す、大山脈がある。
「本当に、こっちでいいのか?」
クラウスの声が、不安の色を帯びる。
「信じるしか、ないでしょう」
力のない、ヴァシリーの返答。
「オイラ、ここ、越えた。余裕、余裕」
脳天気な、彼の言葉に、クラウスはますます不安になった。
山の中を、一行は歩いていた。
雪の無い山道は登りやすく、お互いに手を取り肩を貸しあい、どこかにあるであろう印を目指して突き進む。
あらかじめ麓で仕留めた獣を保存食にし、彼らは山中を探し回る。
ゴツゴツとした岩が重なる、草木も生えない荒れた地を通り、強風吹き荒れる谷筋を、這うように歩く。
横を流れる川は、飛沫の激しさを増し、それが傾斜の厳しさを物語るようであった。
視界の両側に聳える、断崖絶壁からは、時折、落石が起き、一歩間違えば、それが死に繋がりかねない危険をも孕んでいた。
やがて川は姿を消し、礫の目立つ底が見えるようになる。
水の絶えた沢を越え、不安定な足場を、懸命に進む。
本来であれば、ここは雪で閉ざされ、来る者を拒む、白き壁となる。
だが、そうならなかったのは、クラウスにかけられたシャマンの祈りのお陰なのか、はたまた世界の終わりの気候変動による影響なのか、それは誰にも分からなかった。
ただ一つ、言えることは、これはそういう運命だ、という事だけであった。
「あ、あれ……」
誰かが、声を出した。
険しき山の頂上近くに、大小様々な岩が転がっている。それらの隙間に、石の男が立っていた。
虚空を見つめる、石人の手には、大きな剣らしきものが彫られている。
「男は、剣を持つ――」
クラウスが、肩で息をしつつ呟いた。
「ここで、うたを、歌う……」
仮面の下の、ヴァシリーの声が荒い。
彼は、太鼓を構えた。
サラとツァガンは、その様子を、黙って見届けた。
タン、タン、タン――。
ヴァシリーの口から、ネネツの、カマスを称える歌が、紡がれる。
紡ぎ織られた言葉は、目の前の石人に向けられ、そして永遠なる天へと広がっていく。
澄み切った、雲一つない青空の彼方に、今もいるであろう、カマスへ向けて、うたは飛ぶ。
彼らは聖剣を守護し、北方諸民族や、ひいては東方の獣人と溶け合った、幻の氏族だ。
半ば、伝説となったそれを、目覚めさせようと、ヴァシリーは太鼓を叩き続ける。
偉大なる、氏族。
原郷にいた、者たち。
皆、いずこへと散らばり、今は、孤児として、聖剣を護る。
ただ、独りの――。
「ヴァシリー」
クラウスが、喉から絞り出すように、声を発した。
彼と、ヴァシリーの目の前に、銀色の大きな剣が、浮かんでいた。
錆一つ無い、顔が映り込みそうに、鋭く磨き上げられた、剣があった。
「クォデネンツ……」
剣は、その言葉に応えるように、短く甲高い音を立てた。
これが、聖剣だ。
これこそが、大地を割る聖剣である。かつて赤毛の勇者が所有していた、剣なのだ。
クラウスの、身体が震えていた。
寒い訳ではない、ただただ純粋に、恐ろしくも神々しい、その姿に自然と震えが起きていた。
「クラウスくん」
ヴァシリーが、彼を見つめる。
仮面の下の双眸が、彼に取れと訴えかける。
あれは、君にしか触れることを許さない。
手を伸ばして、掴み取れ、世界を救う勇者クラウスと、そう目で語りかけた。
クラウスは、静かに歩み出し、ゆっくりと手を伸ばす。
震えは、ない。
破裂しそうな、心臓の鼓動が、体内に響く。
だが、指が、それに触れそうな距離に迫った時、彼はその鼓動の音が聞こえていない事に気づいた。
音はどこかへ消え失せ、白い静寂が彼と聖剣を包む。
剣を掴んだ。
それと同時に、白い静寂は弾けた。
弾けた後、何かが視界の隅をふわりと飛んだ。
――雪?
そう思った時には、それは影も形も消えていた。
「クラウスさん」
「クラウスくん」
「クラウス!」
皆が、彼の名を呼んだ。
手には、銀色の剣がある。
「や、やった……、ついに……」
クラウスの身体を、熱い血が、駆け巡っていた。




