19 ユグラの熊祭
南へ、歩いていた。
ペチェラの地を発って、一月余りの日が過ぎた。
この国は、南北に長く伸び、東西にも限りなく広がっている。
草原や荒野であれば、進む足は速くなるが、樹林地帯では、進む道が限られているうえに、倒木などが多く、一行の足は中々速くはならない。
そのうえ、冬を迎えて、昼の時間はどんどん短くなり、獣の捕獲にも苦労する有様では、足が鈍るのも、仕方が無かった。
そんな道中、森の中を穿つ道を歩きつつ、ヴァシリーは、ぽつりと言葉を発した。
「ペチェラのソランダーさん、鷲を倒す、と言いましたね」
「うん、そうだな」
クラウスが、返事をする。
「俺、ヴェプサのヤコフさんに、双頭の鷲と戦ってる様子を、見させられた」
「鷲……」
「決まっているんだとさ、俺だって」
「鷲は、私の兄に関わりがあります」
「えっ?」
クラウス、サラ、そしてツァガンの三人は、思わずヴァシリーを見た。
「私の兄は、祖霊が鷲だと聞いています。ライチョウではなく、鷲なのだと」
「う、うん?ヴァシリー、ライチョウ、なのに、兄、鷲?」
ツァガンが、首をひねった。
「私と兄は、血の繋がりがありません。兄は異民族の生き残りと聞いています」
ヴァシリーの目が、遠くを見つめた。
それは、今から十年以上も昔のこと。
モスクワ大公国は、北の異民族を、一つ、滅ぼした。
それは、毛皮税を納めないからだとも、異民族どもへの脅しだとも、言われている。
滅ぼされた者たちは、皆殺しにされ、その氏族の血は絶えたものと思われた。
しかし、そんなある日、モスクワにある、キタイ・ゴロドのヴァシリーの家に、二人組の男がやって来た。
一人は、かなり歳を取った老人で。
もう一人は、まだ幼い子供だった。
老人は、乞食のような衣服が、所々血で汚れており、先頃滅ぼされた氏族の者と名乗った。
そして、この子を指導して欲しい、この子は素晴らしい素質の持ち主で、長じて偉大なるシャマンになれる男だと言い、老人はその場で絶命した。
残された子供は、赤い髪の、幼いながらも目つき鋭く、老人の言うとおりの素質を窺わせる、内なる輝きを秘めていた。
ヴァシリーの父、春の呪術師はこの子を引き取り、弟子とすることを決めた。
一人っ子であったヴァシリーは、最初のうちこそ人見知りしていたが、すぐに打ち解けて、まるで本当の兄弟のように、二人は仲良く育ち、腕を磨いた。
兄の素質は、ヴァシリーよりも遥か上を行き、自身の赤い髪のように、炎を自在に操り、シャマンとしての腕も、信じられない成長力を見せていた。
「でも、あんなことを考えていたとは、私は知りませんでした」
「あんなこと?」
「皇帝の暗殺です」
クラウスは、思い返していた。
ヴァシリーの父と兄は、宮殿に召し出され、そこで事件があり、父が死んだというのを。
兄の暗殺計画が露見したがために、父は殺されたも同じだった。
「兄は、正義感の強い人でした。それ故に、氏族を滅ぼした皇帝が、許せなかったのでしょう」
その言葉に、クラウスは、少し引っかかった。
「私は、シャマン。そして弟なのに、兄の心を分かってやれませんでした。情けないことです」
「うーん、それはおかしいぞ」
「えっ、どうして、クラウス?」
ツァガンとサラが、不思議な目でクラウスを見る。
「俺、妹と弟がいるから思うんだけどさ。お前の兄貴の立場だったら、暗殺とか絶対にしないぞ」
「なんでですか、クラウスさん」
サラが、興味深そうに問う。
「だってよ、弟が実質人質にされているわけだろ?何かあったら、連座で牢屋行きになるわけだろ?だったら何もしないって」
「そうなんですかー?」
「そうに決まってるだろ。一人っ子のお前らには、分からないだろうけどな」
「もー、クラウスさんのいじわるー」
頬を膨らませるサラを、適当にあしらいつつ、クラウスは軽く笑っていた。
――だとしたら、兄さんの身に、一体何が起きたのか。
宮殿で何かがあったのは、間違いない。
あの、悲鳴渦巻く、宮殿で。
ヴァシリーの背中を、悪寒が駆け抜けた。
さらに二十日近くの時が過ぎた。
季節は、もう長い冬になっていた。
陽の光は短く、暗い闇が大地を長い時間、支配する。
交易の道でもある、森の中を通り、川を渡る度に、彼らの目に映るものがある。
世界を東西に分けている、大山脈と言われる、天然の要害を。
それは、恐ろしく、そして峻険なる峰々を有し、人を拒み続ける、恐ろしき場所だ。
それを、ツァガンは、越えたのだという。
何の目的かは、語らないが、彼は確かに、ここを越えた。
東方世界から、何かを求めて、やって来た。
それは、確かだった。
ユグラの村に着いたのは、昼過ぎのことだった。
「なんだか、賑やかだな?」
木造の民家が建ち並ぶ、ルーシ人と変わらない小さな村だ。
その村の中心部の方から、楽しそうな歌と笑い声が聞こえていた。
「そのようですね」
「音楽が聞こえますよ」
ツァガンの頭の耳が、何か聞き取ったかのように、目まぐるしく動いていた。
「う、ま、祭?」
賑やかな声のする方へと、四人は歩く。
「いいときに来たね、お客人」
「わわっ」
突如、クラウスの前に、仮面を被った男が姿を現わした。
白樺の樹皮で作られたそれは、真新しい匂いを放っていた。
「ちょうど今、熊祭をやっているんだ、良かったら参加していくといい」
男はそう言って、クラウスたちに、仮面を被せた。
大きな、一軒の家。
その中に、これまた大きな熊の死体が、祭壇の上に載せられていた。
熊の頭には、人の被る帽子が乗り、閉じられた両目には、白樺から作られたコイン状のものが置かれ、そして柔らかくないパンと、小麦粉を練って作られた様々な動物が、捧げられていた。
「一体、どうしたら……」
クラウスが、仮面の下で、困り顔をしていた。
「黙っていた方が、いいですよ。私たちは客人です」
元から仮面を被っているヴァシリーは、別段気にも留めず座っている。
「ツァガンさんだけ、仮面の模様がおかしいですね」
サラは、そう言って笑っていた。
「えー、なになに?どんな模様?」
ツァガンは仮面を取ろうとして、ヴァシリーに止められた。
「取ってはだめです。顔を覚えられて、熊に逆襲される危険があります」
「そうなのかー?」
「そうです。ユグラの熊祭は、そういう掟なのです」
「うん、分かった」
ツァガンが、再び仮面を被り直すと、すぐに歌が始まっていた。
――天の神。
小気味良い、手拍子が聞こえる。
歌は熊の、天に生まれた事から語り、どうして彼が、地に落ちたかを綴る。
ただし、熊の名を呼んではならない。熊は森のじいさん、おまえ、黒い賢人などと呼び、決して『熊』という単語を用いてはならない。
それを用いると、熊は二度とやって来なくなる。もしくは、人を食い殺してしまう、と強く信じられていたからである。
熊は賢く、そして強いものだ。
森の絶対王者であるからこそ、人々はその恩恵にあずかろうと、熊を仕留め、熊祭を開催する。
その祭も、限られた期間でのみ行われ、冬の、それも暮れの押し迫った時期こそが良いとされていた。
――楽しい、楽しい、我らが祭。
――だが、呼んでいないヤツも、やって来た。
――そいつは、素顔を、隠している。
唐突に、歌が乱れた。
何かを察知したかのように、歌は乱れ、予定にない文言が、皆の口から出る。
群衆の中から、男が一人立ち上がった。その時だった。
祭壇に置かれた、熊の死骸が、燃え上がった。
「おいおい、どうした、一体?」
クラウスが、ヴァシリーに聞く。
ヴァシリーは、それに答えなかった。
悲鳴が、室内に響き渡る。
「皆、表に出ろ!」
立ち上がった男が、叫んだ。
男は、慌てて熊についた火を消そうとするのだが、燃える火は勢い激しく、瞬く間に熊を焼き尽くした。
「お、おぉ……、なんということだ……」
男が嘆き、膝をつく。
「クラウス、そと!」
仮面を脱ぎ捨て、ツァガンが、表へと、走り出していた。
家の外、薄暗くなった村の中に、それは、いた。
「オマエ!また来たな!」
ツァガンが、威嚇するように、そいつに唸り声を向けていた。
まだ少しだけ、薄暮の色残る、北の大地の空の色よりも、赤い、紅い、髪の男が、佇んでいた。
「兄さん!」
ヴァシリーが、叫んだ。
「どうしてこんなことをするのです!あなたに何があったのですか、答えてください、兄さん!」
だが、男は答えない。
太鼓をゆっくりと叩き、くるり、くるり、とその身を翻す、のみ。
「聞こえていないのか、答えたくないのか、どっちだろうな」
クラウスは、仮面を取り去り、剣を抜く。
「答えたく、ないのでしょうか」
サラが、彼の背後から、声を出す。
「だと、いいけどな」
剣を、構えた。
赤い髪の男から陽炎が立ち上り、それは、ゆらゆらと、揺らめいて見えた。
ダァン!
太鼓が、激しく打ち鳴らされた。それが、戦いの合図、だった。
男の周囲に、真っ赤な業火が出現し、それは次々に家を、木々を焼き始めた。
そして、太鼓はさらに鳴る。
クラウスが、ツァガンが走り出し、男は黒い渦から、それを喚びだした。
「あっ、あ、だ、だめっ!」
しかし、ツァガンの身体が、硬直した。
クラウスは、お構いなく、それらを切り捨てるが、彼は首を振り、それを激しく拒絶する。
「何やってんだ!戦えっ!」
「で、できない!オイラ、できないよ!」
ツァガンの目の前には、双頭の狼が、立ち塞がっていた。
「ツァガンさん、戦うの嫌がっていますよ!」
サラの魔法が、ツァガンの前にいる狼に、炸裂した。
「どうしましょう、ヴァシリーさん!」
「困りましたね……」
「おい、あの小僧どもを、引っ込めろ」
二人の会話に、中年の男が一人、加わってきた。
非常に大柄で、熊のように厳ついその男は、灰色の髪とひげを有していた。
「あ、あなたは……」
「俺は、シャマンのチョスヴァだ」
男の目が、黄金色に輝いているのを見た、ヴァシリーは、クラウスに合図を送る。
「早く!」
「ったく、ツァガンのやつ!」
立ちすくむ、ツァガンの身体を引っつかみ、彼は急いでヴァシリーの元へと走る。
そうして、彼は見た。
村のあちこちから、光る何かが飛んでくるのを。
それは、双頭の狼の目に、深々と突き刺さり、狼は咆吼を上げて地面に倒れた。
光るそれは、赤い髪の男にも、襲いかかる。
四方八方から、飛ぶものは、男の炎によって焼き尽くされ、高い金属音が辺りに響いた。
「休むな!撃ち続けろ!」
「祭を邪魔したやつだ!殺しても構わん!」
村人の声が、する。
大事な祭を妨害された怒りは激しく、殺気立った双眸が、赤い髪の男を捕らえて、放さなかった。
絶え間なく向かってくる、狩猟民の矢は、躱すのも難い。
男は、さらに炎を燃え上がらせて、それらを焼き尽くした。
「あ、あ、に、兄さん」
目の前で、兄が戦っている。
殺意の目に射られて、兄は、命の危機に陥っている。
ヴァシリーの口から、悲痛な声が、漏れた。
「小僧、よく見ていろ」
チョスヴァが、シャマンの太鼓を、叩いた。
叩いたと同時に、それが、見えた。
炎の魔法を放つ兄の背中あたりから、黒い、ぼろ切れのようなものが、見えていた。
だが、それを四人が確認した時には、既に黒いそれは、見えなくなっていた。
「見たか、あれが正体だ」
ヴァシリーは、震える身体で、大きくうなずいた。
「あれは、本来地の底にいるはずのもの。神々が地に封じたものだ」
「それがなぜ、ヴァシリーの兄貴に?」
クラウスが、聞いた。
「分からん。どこかで取り憑かれたとしか、思えんな」
チョスヴァは、そう言って、進み出した。
一歩、一歩と、その歩みは重く、彼の体格も相まって、それは見えない重圧と化していた。
「若きシャマンよ、俺が相手だ」
言葉と共に、空気が押し潰される感触がした。
双頭の狼が、圧縮されるそれに負けて、血反吐を吐いて消えた。
赤い髪の男は、炎を繰り出す。
それを、チョスヴァは空気の壁で遮断する。男は、またも黒い渦から何かを喚びだした。
「チョスヴァさん、気をつけて!」
渦から現われたのは、大量の白い丸いものだ。
大きいのから、小さいのまで。大小様々のものが、村の広場を埋め尽くす勢いで、出現していた。
「邪魔だ!」
みしり、と空気が、それを押し潰した。
押し潰したと同時に、それは破裂した。
余りにも簡単に弾ける様に、チョスヴァは慌てた。
「それは、叩くと破裂します!叩かないで!」
クラウスが、叫んだ。
しかし、チョスヴァの周囲は、全て白い丸いもので、埋め尽くされていた。
そこに、炎が走った。
炎の刺激で、丸いものは、次々に破裂する。
破裂して、破裂して、丸いものは際限なく弾けて消える。
走る炎が消え、丸いものが、全て破裂しきった時、そこに男の姿は、無かった。
「おい、ツァガン」
クラウスが、仁王立ちしていた。
「なんで戦うのを、やめた?」
「ご、ごめん、なさい」
ツァガンの尻尾が、垂れ下がっていた。
「あれは怪物だ。本物の狼じゃない、戦えるはずだ」
「で、で、でも、あれ、狼。オイラの、祖霊」
「頭二つの狼が、どこにいる?ええ?」
「ふ、二つ、でも、狼!オイラ、氏族の掟、守る!」
「うるせえ!ここは西の世界だ。お前の田舎の掟なんか、知ったこっちゃねえ!」
「そこらへんにしときな、勇者どの」
怒鳴るクラウスに、チョスヴァが、口を挟んだ。
「その小僧は、東の獣人だ。俺らとは勝手が違う、大目に見てやれ」
低く、威圧する声で、彼は諫めた。
「……分かりました」
冷ややかな目で、クラウスはツァガンを見下ろした。
「どれ……」
チョスヴァは、太鼓を持った。
ヴァシリーのよりも、二回りほど大きく、また紋様もたくさん描かれているそれは、恐ろしいまでの力を、秘めていた。
「春の呪術師の息子、ヴァシリーよ。これが最後の手がかりだ」
チョスヴァの目が、黄金色に輝き、次いで太鼓の音が、一つ、鳴った。
「男は剣を持つ、倒れることのない、不滅の男。うたが、それを目覚めさせる」
また、一つ。
「空」
また、一つ。
「頂」
また、一つ。
「其は、天、何者にも染まらない色が、支配している」
チョスヴァは、そう言って、空を見上げた。
「見えて、いるな?」
「はい」
ヴァシリーの目が、何かを捕らえていた。
白一面の空間に、燦然と輝く銀色の剣は、目覚めるのを待っているのか、時折、強い煌めきを発している。
その剣の傍らには、姿こそ見えないが、一つの人間の影が、寄り添うように佇んでいた。
影が、ゆっくりと剣の周囲を巡る。
白いものが、ふわりと舞っていた。
「見えます、ハッキリと、聖剣クォデネンツ――」
彼は、その先を言わなかった。
彼が見たそれは、この世のものではない、恐ろしい空気を醸し出していたからだ。
人なのだが、人ではない、剣を守る、氷のように透き通った――者。
それが、ネネツのギィダンが言う、カマスなのだろうかと、彼は思っていた。
「よし、上出来だ」
ひげだらけのチョスヴァの顔が、にやりと笑った。
「なあヴァシリー、ようやく、聖剣が手に入るのか?」
クラウスが、問うた。
「はい、もうすぐです」
そう言って、彼はうなずき、微笑んだ。
チョスヴァの家。
一行が招かれて入ると、そこにはチョスヴァと同年代の太った女と、それよりは大分若い男と女がいた。
彼らはチョスヴァの嫁と子供たちで、皆立派な体格を有していた。
ユグラの民は、熊を祖霊とする氏族ではあるが、大山脈西側に住む者の宿命に漏れず、その身体には、獣の特徴など、一つも残ってはいなかった。
「父さん、熊祭は……」
若い男の声が、暗かった。
それにチョスヴァは、黙って首を振った。
熊祭が、異様な終わり方をした。
これは、本来あってはならないこと。正常に終わらない祭は、悪いものを引き寄せる。
それは、災害であったり、飢餓であったりと、様々であった。
「今年の冬は、厳しい、よくないことになりそうだ」
その言葉は、半分的中していた。
もうすぐ年明けになろうという時期なのに、雪がまだ、降っていない。




