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真白の祈り 後編

 あの日と同じように夜半に降り出した雪は深々と降り積もる。

 ジェラスティンは無言で雪の中を分け入っていた。

 己の呼吸音と雪を掻き分けて歩く足音だけの世界を黙々と歩く。そうして無心に歩き続けたどり着いた先でジェラスティンおもむろに屈み込んだ。

 一年前の再現のように、眠るように横たわる女の上へ真白の薄衣が掛けられていた。

 違うことといえば、陶磁器のように白くなろうともまだ生気を感じられることか。

 女を抱え上げると踵を返し、来た道を先ほどよりも深く足跡をつけて戻っていった。






 しっかりと暖められた室内を抜け、ジェラスティンは浴室に足を向けた。

 つるりとしたタイルを張った浴室。植物をあしらった足の真っ白なバスタブが中央に配されている。あらかじめ用意させていたバスタブの中には、もわりと白い湯気を立てる湯がたっぷり満たされていた。

 バスタブの前にたどり着くと欠片の躊躇もなく、腕に抱えていた女を落とす。


 激しい水音と高い水飛沫が上がる。


 落とした女が小動物のように湯の中から慌てて這い上がり、そう深くもないバスタブの縁にへばりついてむせる様子をジェラスティンは冷淡な瞳で見下ろしていた。

「けふっ……こほっ、……」

「おはようございます?」

 小さく首を傾げるとジェラスティンの身につけている装身具が、場違いに涼やかな音色を響かせた。

「けほっ、ひどい……」

「どこがですか。これ以上ないくらい適切な処置でしょう」

「ぅう、バスタブにわざと人を放り込むのが?」

 縁に必死にしがみついて鼻をぐずらせる女に殊更低い声で告げる。

「いい子で待っているように、と言いおいたでしょう? 人の話を聞かないからこうなるんですよ、リサ」

 リサはむくれて押し黙る。

 水を吸った服の重みに負けて、ともすると溺れそうな様子にジェラスティンは溜息と共に屈み、リサの脇に腕を入れて少し引き上げてやる。そうすると落ち着きなく、居心地悪そうに身じろぎしている。

「温まるまでもう少しそのまま浸かっていなさい」

「ん……」

 リサは座り直し、膝を抱えて湯に身体を埋めた。

 雫がぽたりと顔を伝って落ち、波紋が広がる。しばらくの後、リサは口を開いた。

「……いつ、気付いたの?」

 おそるおそる聞こうとするさまに内心呆れながら、ジェラスティンはあっさりと答えた。

「今朝、ティーカップの縁を指でなぞっていたでしょう。この一年、貴女があの仕草をしたのは今朝の一回きりでしたよ」

 その一言にリサは身体を震わせた。

 あれが癖であると、理解するほどにこの人は見てくれていたのかと。高揚感でスカートの裾をきゅっと掴んでいると「それで?」とひんやりした声が注がれる。

 その声音に先ほどとは異なる意味で身を震わせた。


「一体なんのつもりだったのですか、リースェイラ」


 ひたりと見据え、ジェラスティンはこの一年あえて呼びかけることのなかった名を呼ぶ。

 リサは気丈にも微笑みを浮かべ、しかしその顔色は雪に埋もれていた時よりも青い。

リースェイラは人を煙に巻くのは得意だが、嘘を吐くのは存外に下手な娘だった。

「なんのつもり、というほどのことでもなかったのよ」

 ただ……と口ごもる。

「ただ?」

「もう終わりなのかなって、思ったら……」

「そうではないでしょう」

 首をかしげる妻にジェラスティンは冷え冷えとした視線を遣る。

「一年前の話をしているんです。あのまま誰も気づかなければ貴方は死んでいるところでしたよ」

「それはその……」

 口ごもる様子など解さず先を促せば、ひどく言いづらそうに口を開いた。

「どうしたらめんどー事を避けてジェスと結婚できるかと考えてたら、ああなっただけで……」

「……──。」

「痛いっ?!」

 目と目で見つめあい、長い黙考のあとジェラスティンはおもむろにリサの額を指で弾いた。

 あまりのくだらない形で発現された『神の奇跡』に頭が痛くなる。

 この一年間違いなくリサにはリースェイラとしての記憶がないことは、幼い頃から見てきたジェラスティンにはわかっていた。生活知識があるのに不思議なほどリースェイラの癖がちらりとも出なかった。今朝を迎えるまでただの一度もだ。

 ただ器だけは本人のものであると、それだけは確信して傍においた。

 それはそれとしてやはり発覚した事実に苛立ちは隠せない。たとえイイ歳をした大人であってもだ。

 ジェラスティンは額を押さえて呻いている妻の姿に少しだけ気が晴れた。

「馬鹿馬鹿しいことこの上ないですね」

「全然馬鹿馬鹿しくなどないし、願いが果たせたのだから文句はないわ」

「貴女のその突拍子のなさと理解しがたい前向きさを愛せる己がこれほど口惜しいと思ったことはありませんね」

 さらりと一息に告げられ、リースェイラは頬を染め口をはくはくさせた。

「ぅ、あう……ジェスずるいっ」

「貴女には負けます」

 怒るに怒れないと目で言い募るリースェイラにジェラスティンはしれっと躱した。

「ところで、もう終わり、とはどういう意味でしょうか」

 元々の質問が別にあったとはいえ、最初の言葉を流す気もなかった。

 リースェイラは目を丸くした。

「だって、私、記憶が戻ったのなら戻らなくてはいけないでしょう?」

「なぜです?」

「え、あ、だって、その、責務を果たさなくてはいけないから……」

 記憶が戻ったということは自らが何者であるかを思い出したということだ。

 生まれついて課せられた責務を一年とはいえ長く放棄していたのだ。思い出したからには、放棄していた以上に勤めを果たす義務がある。

 それを男はこともなげに首を振る。

「私の元へ嫁したときにその責務のおおむね免除されていますよ」

 リースェイラはその言葉にいっそう目を丸くした。

「何のためにこの一年、私が働き尽くめだったと思ってるんです。いままでの人生でこれほど働いたことはありませんよ」

「それはたしかに」

 後半の言葉を受けて思わず真顔で首肯する。

 リサであった頃は働く姿を当たり前のように受け止めていたが、リースェイラとしての記憶を取り戻した今、ジェラスティンの勤勉さには目を瞠るものがある。

 手を抜いているわけではないが、有能なくせに怠惰を当然としているのがジェラスティンだ。

 そんな彼が寝る間も惜しんで働いている。

 主たる王にすら軽口を叩いて仕事の山をかわす彼が、だ。

「そこで、なんで? と聞くようなら覚悟してくださいね?」

 うかつに開きかけた口は慌てて閉じられた。

 残念という顔をされてリサは頬を膨らます。


 解答などわかりきっているでしょう。


 ということらしい。

 らしくもなく馬車馬のように働いた理由。

 変わらずここにいてもいい、と。

 導き出される答えにリサは思わずバシャバシャと湯を撥ねさせていると、ひたりと人差し指で額を押された。


「しっかり温まってから出ていらっしゃい」


 呆れ顔のジェラスティンは言い残すとびしょぬれのまま浴室から出て行った。

 リサは言われたとおりに身体を温めるが、落ち着かない気持ちをもてあまして、手指を動かしたりうなり声をひとしきり発していた。






「風邪を引きますから、こちらにいらっしゃい」

 どこへ行ったのかと探せば、ジェラスティンは二人の寝室にいた。上掛けのめくられたベッドに大人しく入る。

 ジェラスティンはナイトテーブルに置いていたカップを持ち上げると、リサへ差し出す。

 両手で受け取るとカップに半分ほどの量のミルクが湯気をたたえていた。

 一口飲めば甘い香りがふわりと広がり、はちみつとブランデーが垂らされていることがわかり、顔を綻ばせる。

 酒精を感じて喜んでいる、と呆れているのではないかとハッと気づき、ちらりと夫を見る。

 今更でしょうと語るその顔になんだかしょぼくれてホットミルクをちびちびと飲む。

「落ち着きましたか?」

「ええ。ありがとう。それで、私いったいどういう処遇になっているの?」

 責務はともあれ、王都にいる家族のことは気にかかってそう訊ねた。

「今でこそ大変な酒豪ですが、貴女は元々病弱でこの地に療養に来ていたくらいですからね、王都の空気がやはり堪えるということで私と結婚後はこちらで過ごすことになったということになっています」

「余計な前置きがついた気がするけれど、つまり会いに行ってもいいのね?」

「ええ、覚悟の上、是非ともに」

 背筋の寒くなることを聞いたと震え上がるリサの肩をジェラスティンはやれやれと抱き、頬と額に口づけを落とす。

 リサはお返しと同じように口づけて、ジェラスティンに抱きつくと二人して寝台に埋もれた。

 暖かなぬくもりに包まれて、リサは眠る。

 明日起きたら────



3年越しの投稿失礼いたします。

これにて完結いたします。

お読みくださりありがとうございました。

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