Ep9 「椿の花が落ちない前に」
二日ぶりに帰ってきた自宅。ベランダには男物の衣服と、女もののセーターやジーンズが干してあった。だから竜彦は、椿がいるのだろうと勝手に考えた。玄関には鍵がかかっていて、彼は自分の部屋ながらもインターホンを押す。何分、その経験は初めてだったためいくらかは奇妙な気持ちに見舞われた。中から女の声がする。でもそれは、空島のあの声ではない。もっと明るく、元気の溢れる声。椿だった。
彼女は覗き口から竜彦の姿を確認すると、急いで鍵を開けた。二日ぶりに家主が帰ってきたのだ。驚くほかない。内側からドアを開けてもらう。エプロン姿の椿は、空島と違って若かりし優雅さを持った女に見えた。
「家を空けてしまって申し訳ない」と竜彦は言う。そして頭を下げる。
椿はとんでもないと言わんばかりに首を振った。自分の方は大丈夫だと、そう言った。しかし、けれどもと言う接続詞を使って続ける。あやちゃんの方は、正直言って思わしくない、と。竜彦さんがいなくなった夜には赤ちゃんみたいに大泣きしたし、ここ二日間は何も口にしていない。殆ど喋らなくなって、笑顔も消えてしまった。彼女は大体、そういった内容の事を言った。
竜彦は至って冷静な態度でそれを玄関先で聞いていたが、内心では誰よりも焦っていた。あやにとって、自分が父同然なら、俺にとって彼女は娘同然なのだ。それなのに俺は酒とセックスに溺れて、悦楽に耽って。
彼は自分自身がこの上なく愚かであると感じた。体調を崩されようものなら全て自分の責任。それ以前に、この一件の非はすべて己にあり、糾弾されるべきは全て自分であると、そう譴責したてた。
「あの子は今何処に」と竜彦は言う。
「多分、寝室に」と椿は言った。
竜彦は分かったという言葉を残し、靴を脱いで廊下を渡る。いつもならあやが走り、先導して自室なり、キッチンなりに行く場面だが、この時だけはその存在はない。いつも当然のようにあった筈の光が消え、幽暗が訪れている。
入るぞ、という言葉を掛け、寝室のドアに手を掛ける。最初それは玄関のそれと同じように鍵がかかっているのではないかと感じられたが、ただ単に彼の手に力が入っていないだけだった。自分の非力さを憎み、彼は渾身の力を込めて押し切る。やはり、それはすんなりと開いた。
あやはベッドの上に膝を抱えて寝転がっていた。竜彦からは哀愁漂う背中が見えているだけだ。彼女には竜彦の声もドアを開ける音も届いていないのか、こちらを一瞥さえもしない。そんなあやに、竜彦はゆっくりと近づいていく。ベッドの傍まで忍び足で来た自分を馬鹿らしく感じたのは、あやのその姿を近くでまじまじと見たからだった。
あやに背を向けてわざと強気にベッドへ腰掛ける。その反動でそれは強く揺れた。
「今日は一緒に風呂でも入って一緒に寝るか。久々だしな」と竜彦は言う。
囁くような声で「ばか」と言ったあやの声が耳に入った。
「もうおねえちゃんとしかはいらないもん…」と涙ぐんだあやの声は彼の脳裏で反響する。
「そうか。ならもう俺は必要ないよな」
あやはその言葉に声にもならない悲痛の叫びを上げ、泣き始めた。なんでそんなことを言うの、あやはそう言ったつもりなのだろうが、彼にはよく聞き取れなかった。ただでさえ掠れた声に、その悲痛の叫びと嗚咽交じりの声。何度聞いても人間が話す言葉とは区別がつかない。
しばらく呆然としていた。素直になれない自分自身が歯がゆかった。なにが糾弾されるべきは全て自分だ。そう思ったのならさっさと謝ってしまえばいいのに。なんであやを攻めているんだ、今の自分は。果たして、今俺が成すべきこととはなんなのか、やるべきことはなんなのか…。
お兄ちゃん、お兄ちゃんと呼ぶ声がする。その声はまるで水中から外の音を聞いているみたいで、不思議な感覚がした。不意に体の方にも負荷がかかった。あやが後ろから抱き付いてきていたのだ。
おかえり、おかえり、と何度も連呼される。背中の部分に感じた汗のような感覚は、あやの涙だった。竜彦もただいまと呼応させて言った。
半開きのドアの間からその光景を見ていた椿も、やはり二人は一心同体なんだな、という考えを改めて深く感じた。それから袖を捲って、今夜の夕食を豪華にさせる献立を頭に巡らせる。しかし時刻はまだ、午前十時であった。
夕食になるまで竜彦とあやは桜並木の立ち並ぶ通りを散歩しに出かけていた。二人は椿に一声だけ掛けて家を出て行っていた。ちょっと遠くに散歩しに出かけてくる、と。椿は笑顔でそれに応えていた。季節はすっかり冬から春になっていた。と言うのも、春の陽気な雰囲気だとか、温かな気温だとかは彼にとっては一種の部分要素に過ぎず、それは春でなくとも味わえるもの。ただ彼は季節の花や風景には敏感で、視界に入るそれらのもので季節と言うものを感じ取っていた。
桜並木の通りの外は広場や小川が流れていて、休日のこの日に限らず多くの人の憩いの場として賑わっていた。その広場の一角に淡い赤色を成して咲く椿の花を見ていると、彼の心は和んだ。丁度それは小川の近くに群生していて、水しぶきを浴びた椿の花々には透明な水晶のように光を放つ水滴が付着している。光は陽光を反射しているのだとすぐ分かったが、尚もその美しさは変わらなかった。既に花開いて何事かあって落ちている椿の花もある。だが、それもその美しさを買われて誰かに拾われていく。需要だとか欲だとかそういう話をなしにして、竜彦は花には花独特の優雅さと気品があるな、と心をふるわせていた。
桜の葉が舞い落ちる。小さなあやの表情は晴れ晴れとしていて、子供ながらの無垢さがあった。彼女が感じているものは、二日間の孤独によって空いた心の穴が癒えていく感覚である。あやの全てはその時に終わったと彼女自身が感じていた。捨てられたのだと。未だ彼女が経験したことのない失恋よりも質の悪い代物だった。彼女はそれによって少なからずダメージを受けたし、やはり自分がなぜこんな存在なのかと自暴自棄になったりした。卑下されるべき立場にして己の存在ならば死んでもいいと思った。でも死ねなかった。そこにはいつも希望があったからだ。一秒待てばお兄ちゃんが帰ってくるかもしれない、笑顔で迎えに来てくれるかもしれない。あやは竜彦がいない間、そういったことを一分一秒たりとも欠かせず考えていた。当たり前である。あやと言う存在と、竜彦と言う存在があれば、彼女が思う希望はなにものにもかえられない光を帯びて有ることになるのだ。二人がいる限りは誰しもがあやが思う希望が無いとは言い切れない。それがどんな形であれ、存在はするのだ。
「邪魔だったら外していいよ。麦藁帽」と竜彦は言う。「あやはもう、あやのままでいいんだよ」
あやはその言葉に一瞬の戸惑いを覚えた。外にも殆ど出してもらえなかった筈の自分が、他の人とは違う自分が、果たして素を出していいのかと、そう思ったからである。ただ、応えずともあやは麦藁帽に手を掛けていた。あやは片方の手で竜彦に手を繋ぐよう視線で催促した。無言の声を彼はすぐに理解して、その白い小さな手を握る。握った途端にあやの手に力が入った。体が硬直したような感覚を覚えながらあやは麦藁帽を取ったのだ。それから少しの間は視界に何もいれまいとする体の抑止力が働いて、全てを塞ぎ込んでいた。息を止め、目を瞑って姿勢を低く低く保つ。
あや自身は歩いている状態だと思っていた。しかしそれは間違いだった。あやは麦藁帽を片手に持ったまま、その場で止まってしまっていたのだ。自分を隠すものがなくなり今回ばかりは本当に恐ろしくなってしまったのか、足が動かなくなってしまっていたのだ。しかし、よくよくあやが自分自身を案じてみれば、体の全ての部分は彼女の思い通りにはならない。完全に硬直状態に陥ってしまっているのだ。あやは泣きたくなった。目の前に、屈んだ状態の竜彦が必死に呼びかけているにもかかわらず声を上げて泣き叫びたくなった。
やがて竜彦があやを抱きかかえる。あやは竜彦の胸中に顔を埋め、必死に涙を堪えていた。だが、その意を介さず、彼女の目からは大粒の涙が流れ、そして零れていく。周りの人間は、確かに竜彦たちを怪訝で、そうして不憫な目つきで二人を見ていた。時にはすれ違いざまの犬に吠えられることさえもあった。あやは痙攣を起こしているみたいに怯え、震えていた。
「あやはあやのままでいい。誰が何と言おうと、お前はお前に違いならないんだ」と竜彦はあやの背中をさすりながら言う。「怖いことなんて一つもない。笑うやつがいても気にするな。奇怪なものを見る時のような目つきをするやつがいても気にするな。そんなのは人間の屑だ。俺たちと同類のやつしか対等に会話できない屑だ。嘲笑うがごとき行為は、俺が俺の意思で殴ってやる」
あやは対して何も言わなかった。それは何も言えなかったのかもしれないし、本当に何も言わないという意思かもしれなかったが、彼はどちらとも分からなかった。ただ彼女の涙は止まっていて、少なくともその言葉はあやの心には届いているのだろうな、ということは分かった。何にせよ、彼が今できることは、彼女が外の世界と共になれる練習をさせることぐらいである。まず一歩目と思ったが、彼女には荷が重すぎたらしい。もう少し考えて行動せねばと思った限りだった。