第六話 言葉の向こう
第六話 言葉の向こう
翌朝、朔は約束どおり、いつもよりほんの少し早く六条邸へ来た。
門内で待っていた千鶴は、壁の時計を見上げてから、何でもないことのように声をかけた。
「三分だけ早いようですね」
「早すぎましたでしょうか」
「いいえ。ほんの少しですから、約束どおりです」
朔は安心したように笑った。千鶴が右腕の具合を尋ねると、もう痛みはないと答え、梶棒を持ち上げる動きにも先日のような固さはなかった。千鶴はそれを確かめて、ようやく安心して車へ乗った。
走り出して間もなく、千鶴は鞄から、朔が届けてくれた英詩集を取り出した。
「一つ、尋ねてもよろしいですか」
「私に分かることであれば」
「昨日、この詩を読んでいたのですが、うまく意味を取れないところがあるのです」
荷車が往来を横切ろうとしていたため、朔は人力車を道端へ寄せて足を止めた。千鶴は栞を挟んだ頁を開き、そこに記された短い一節を読み上げた。
それは、長い旅を終えた者にとって、家とは建物ではなく、自分の帰りを待つ人のいる場所なのだという意味の英文だった。
朔は英文へ静かに耳を傾け、ほとんど迷うことなく、その意味を日本語で説明した。
「言葉どおりに訳せば、ただ『家へ帰る』となります。けれど、この詩でいう家は、屋根や壁のことではありません。自分の帰りを待っている人のいる場所を、家と呼んでいるのだと思います」
「やはり、そうなのですね」
「お嬢様も、そのようにお考えだったのですか」
「ええ。でも、自信がありませんでした」
「私より正しくお分かりになっていたのでしょう。お嬢様には、帰りを待ってくださるご家族がいらっしゃいますから」
荷車が通り過ぎると、朔は再び走り出した。
千鶴は本を閉じながら、昨日、自分が朔を待っていたことを思い出した。しかし、それを口にする勇気はなく、代わりに彼の背中を見つめた。
「朔さんにも、きっといらっしゃいます」
「私を待っている人が、ですか」
「はい。今はまだ、どこにいるのか分からないだけです」
朔はすぐには答えなかったが、その後の足取りは、それまでよりわずかに軽く見えた。
*
私立瑞花高等女学校の校門前には、その朝、外国人の夫婦が立っていた。近くのホテルを出て道に迷ったらしく、二人はホテルの名が入った地図を手にしていた。
二人は通りかかった人へ何度か声をかけていたが、言葉が通じず困っている様子だった。千鶴が人力車を降りると、夫婦のうちの女性が近づき、英語で停車場までの道を尋ねてきた。
千鶴は授業で英語を学んでいたものの、突然話しかけられると、適切な言葉がすぐには出てこなかった。道順を頭の中で組み立てているうちに、後ろから朔の声が聞こえた。
朔は落ち着いた英語で夫婦へ道順を説明し、途中で目印となる建物まで伝えた。女性が聞き返した言葉にも自然に答え、最後には冗談らしい一言を添えたのか、夫婦はほっとした表情で笑った。
「ありがとうございました」
夫婦を見送った千鶴が言うと、朔は自分の口から出た英語に、本人がいちばん驚いているような顔をしていた。
「今の言葉も、考える前に出てきました」
「ずっと英語を使っていらした方のように聞こえました」
「そうなのでしょうか」
校門へ向かう生徒たちが、足を緩めて二人を見ていた。遥は感心したように目を輝かせていたが、奈緒美は周囲を見回し、不安そうに袖口を握っている。洋子は何かを確かめるように、黙って朔の横顔を見つめていた。
そのとき、上級生らしい二人の女学生が、聞こえるか聞こえないかほどの声で言葉を交わした。
「六条さんは、車夫から英語を教わっていらっしゃるのかしら」
「ずいぶん変わったご趣味ですこと」
千鶴が振り返ると、二人は何事もなかったように校舎へ入っていった。
「気になさることはありません」
朔はそう言ったが、先ほどまでの笑みは消えていた。
*
昼休みの終わりに、千鶴は校長室へ呼ばれた。
校長は五十を過ぎた物静かな女性で、千鶴を叱ることはせず、今朝、外国人へ道を教えた車夫について尋ねた。ちょうど門内から、そのやり取りを見ていたという。
「たいへん立派な英語でした。困っている方を助けたことも、責められるようなことではありません」
「では、なぜわたくしをお呼びになったのでしょう」
「あなたが六条家のご令嬢だからです」
校長は声を落とした。
「華族の令嬢が、年若い車夫と親しく言葉を交わしている。それだけで、事実とは異なる噂を作る者がいます。噂はあなたの評判だけでなく、あの車夫の仕事も奪いかねません」
千鶴は膝の上で指を組んだ。
「身分が違えば、親切にしてはいけないのでしょうか」
「親切であることは、間違いではありません。ただ、同じ行いであっても、あなたと彼とでは背負わされるものが違います。そこまで考えることも、相手を大切にするということです」
校長の言葉は厳しかったが、悪意から出たものではなかった。それが分かるだけに、千鶴は言い返すことができなかった。
放課後、校門の外では朔がいつものように待っていた。
千鶴は挨拶をして車へ乗ったが、それ以上の言葉が出てこない。朝にはあれほど自然に話せたのに、誰かに見られていると考えた途端、何を口にしても間違いになるような気がした。
朔も何も尋ねず、黙って人力車を引いた。
車輪の音だけが続く帰り道は、昨日、別の車夫に送られたときよりも遠く感じられた。
*
屋敷へ戻った千鶴は、縁側で繕い物をしていた睦の隣へ座り、校長から言われたことを話した。
「お母様も、わたくしが朔さんと言葉を交わすのは、いけないことだと思われますか」
睦はすぐには答えず、縫いかけの布を膝へ置いた。
「千鶴は、朔さんを困らせたいのですか」
「いいえ」
「では、朔さんを珍しい見世物のように扱っていますか」
「そのようなことは、決してありません」
「それなら、親切にしたことまで恥じる必要はありません。ただし、校長先生のおっしゃることにも一理あります」
睦は庭へ目を向けた。池の周りには、散った桜の花びらが淡い縁取りを作っていた。
「千鶴の何気ない一言は、六条家の一人娘の言葉として受け取られます。あなたが軽い気持ちで近づけば、周囲は朔さんのほうを、身の程を知らない男だと責めるでしょう」
「では、どうすればよいのでしょう」
「自分の気持ちだけでなく、相手の立場も考えて行動することです。話してはいけないと申し上げているのではありませんよ。あなたが何を守りたいのか、よく考えてお決めなさい」
睦はそう言うと、再び針を動かし始めた。
答えを与えられなかった千鶴は、しばらく母の横顔を見つめた。けれど、不思議と心は先ほどより落ち着いていた。
*
翌朝、朔は昨日と同じく、約束の時刻より三分早く来た。
友子と女中が見送る前で、二人は必要な挨拶だけを交わした。朔も人目を意識しているのか、千鶴の顔を長く見ることはなかった。
人力車が六条邸を離れ、朝の往来へ入ってから、千鶴は膝の上で手を握りしめた。
「朔さん。昨日は、黙ったままで申し訳ありませんでした」
「お嬢様が謝ることではございません」
「校長先生から、あなたと親しく話せば、あなたの仕事を奪う噂になるかもしれないと言われました」
朔の足が、一瞬だけ遅くなった。
「校長先生のおっしゃるとおりです。これからは、学校の近くでは必要以上にお声をかけないほうがよろしいでしょう」
「それが、朔さんのお考えですか」
「お嬢様をお守りするためです」
「わたくしのことだけではありません。朔さんご自身を守るためでもあります」
朔は驚いたように振り返りかけたが、すぐ前へ向き直った。
「わたくしは、朔さんのことを、珍しい車夫だと思ってお話ししているのではありません。けれど、わたくしの振る舞いがあなたを困らせることも、ようやく分かりました。ですから、人前では気をつけます」
「承知いたしました」
「でも、言葉を交わすことまで、すべて間違いだったとは思いたくありません」
しばらく聞こえたのは、一定の調子で回る車輪の音だけだった。
やがて朔が、前を向いたまま答えた。
「私も、そうは思いません」
その短い言葉だけで、千鶴の胸にかかっていたものが少し軽くなった。
「では、昨日の詩のお話には、まだ続きがございます」
「続き、ですか」
「はい。ただし、学校へ着く前までです」
「それなら、急がずに参りましょう」
朔は走る速さを、気づかれないほどわずかに緩めた。
春の朝の往来を、人力車はゆっくりと進んでいった。今はまだ、二人の間には身分の壁があったが、その壁の向こうへ届けようとする言葉まで、失われたわけではなかった。




