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大きなイチョウの樹の下で  作者: おきついたち


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3/3

3.イチョウの花言葉

駅前のロータリーで定常はイライラとスマホを操作していたけれど。

諦めてバスの時刻表を見に行く。

今日に限って駅前にタクシーは無いし、配車アプリでも捕まらない。

幸い後竺寺の近くを通る路線バスが5分後にある。

キレイに撫でつけてる髪をぐしゃっと壊してタメ息をつく。


珍しく一晩中既読が付かないから。

定常は朝一番で宵に電話をしてしまった。

「昨日どうしたんだ?寝落ちか?」

学生時代のふにゃりとカワイイ寝顔を思い出しながら言ったのに。

スマホから返って来たのは、必死で涙を堪え鼻水をすする音。

うっぐすっううう…。

定常の心臓も動揺してスマホを持つ手が汗ばんでしまう。

「宵?どうした?今どこに居るんだ?」

「オレ…全然あかん無力や…なんも…出来んで…。

救いを信じるキモチさえ無くさせてもおた…」

「ちょっと落ち着け、どうした?ゆっくり話を」

「ちょっとお。

どおせ何ンも出来んくせに。放おっといてくれるぅ?

宵は少ぉし疲れとるんや、寝れば治るんで。ほんならおやすみ」

話途中なのに優美がスマホを取り上げて通話を切ってしまった。


定常が知っている宵は。

他に楽する方法はあっても手を抜かず真面目に頑張って。

しんどくても笑顔でダイジョウブなんて言ってしまう性格。

だから、それすら出来ずに涙声で本音を溢すなんて余程の事態。

もう一度電話したところできっと優美に遮られる。

直接行くしかないと、予定変更して外出する手順を考えていると。

寺務員が焦った様子で声を掛けて来た。

「外越さん、お電話です。協議会から急ぎの件だそうです」




だから渡りに船とばかりに、何もかも後回しにして駅へ向かったのに。

信号機トラブルで私鉄は遅れて新幹線に間に合わずそしてタクシー難民。

その間、宵からの連絡は無いままだし。

やっとバス停に着いて寺に向かって歩き出すけれど。

一体何があって、宵がどれだけ落ち込んでいるのか悲しんでいるのか。

悪いコトばかり想像してしまい、足早になる定常の白衣の裾は乱れてしまう。

妙に遠く感じながらやっと後竺寺の簡素な門をくぐったトコロで。

定常は違和感を覚えて足が止まった。


新緑の季節なのに、大きなイチョウの樹は黄金色の葉がキラめいている。

そしてその下に優美と僧侶が居て。

それは宵のはずなのに、宵では無くて。

穏やかな顔立ちはそっくりだけど剃髪した中年の僧侶。

法衣も古ぼけた木綿か麻か、少なくとも今の素材では無い感じ。

2人は定常が見えてないみたいに、ゆったりとお喋りをしている。

優美が足元に落ちている葉を1枚取り上げ、僧侶に見せて楽しそう。

「イチョウの葉は特別やねん。

普通の葉っぱはなあ、根元から先端が外に向かって広がって広がって。

限界までなったらそっから萎んで楕円形になるねん。

けどイチョウは逆や。

先端から根元に向かって成長すンで、袴みたいな形のまんま大きなる。

あんたらの生き様は、欲のままに広がって終いに先細る楕円葉っぱや。

そんなあんたらと同んなじ流れに居るのに。

イチョウだけは逆の流れも持っとる。

せやからココが、あんたらと私らの接点になったんかもな」

「ほんならユウビさんは、どっか根元に向かって生きとるんですか?」

「私らは時間の流れの外に居るンやから、生きとぉとは言わんなあ」

「せやけど私と暮らしてお喋りしとるやないですか」

「ちょおっと流れン中に足突っ込んで遊んどるよーなモンや」

「遊び…この世はユウビさんには楽しいンやろか?」

「楽しいなあっ」


わっと大袈裟に優美が両腕を広げると。

イチョウの葉が宙いっぱいに舞い踊って金ピカに眩しく輝いて。

まるで画に描かれた極楽浄土。

でもその中で大きく浮き上がっているのは鬼女。

引き裂かれた大口から牙を剥き出し、血走った眼でギョロリと定常を睨む。

「何ンやあんた、いつの間に紛れ込んだんや」

「オレは…宵に会いに来た。あなたこそ何んなんだ」

もうココは何処なのか。夢か現か地獄なのか判らないけれど。

定常はぐっと固く拳を握り、真っ直ぐな姿勢とキモチは揺るがない。

そんな小さな存在を見下ろす鬼女にどろりとした笑みが浮かぶと。

輪郭がぼやけて火の玉みたいな姿に変る。

「そおやなあ、この世のヒトらあは鬼火とか遊火とか呼んどるけど。

まあ、あんたらとは違う世のモンや。

ふうん。あんたから中江の匂いがすんな…」

遊火は探るように定常にまとわりつく。

「どっかの中江とつながっとるみたいやな」

「どういう意味だ?」

ぼやけた輪郭の遊火の向こうに透けて見える僧侶が、定常は気になっている。

20数年後の宵が居るみたいに、佇まいがあまりにも似ていて。



非現実的空間に独りでも怯えもしない定常に、遊火は飽きたみたいで。

すうぅと優美の姿に戻ると、イチョウの下に居る僧侶の元に戻った。

「中江のニンゲンは、このイチョウに気に入られとぉもんなあ。

私らが遊びに来る為にはイチョウに元気で居って貰わんと。

せやからイチョウを世話する中江の縁を途切らす訳に行かん」

優美は粘つくように僧侶に身体を寄せて妖しく笑うと。

僧侶は少し困った顔で微笑み返す。

「また私の昔を千切って、先の世に持って行くンやろか」

「千切る言うても別にあんたは痛くも痒くもナイんやから、エエやろぉ。

つーか、あんた自身そおやって今ココに居るんやし。

そん齢まで生きんのに困るコトも無かったやろ?何んも問題無いやんか。

まあこの世は争いも欲も妬みもごちゃ混ぜで汚なぁて貧弱な造りやけど。

何んかあったらその命くらいは私らが助けたるワ」

「どおやろ…真っ当な生き方とはちゃう気ぃしますけど。

人は貧しぃて弱い生き物やからこそ、信仰いうンが在るんやし。

信じるいうンは今より少ぉし先を思うことやから。

御仏を、何んかを信じ続けるいうンが、生きる過程そのものな気ぃします」

「はーっよお言うワ。

その場限りのちんまいコトにしがみ付いとるダケやん。

流れ次第で正も義もコロコロ変わるし。

ひっくり返せば善でも悪でもどっちにも成るし。

私らがチョイチョイて動かして辻褄さえ合うたら、何んでもホンマに成る。

薄っぺらいなあ。

吹けば飛ぶてこのことやな」

優美は遊火に戻りながら文字通りイチョウの葉を吹き上げて舞散らす。


イチョウの葉で見え隠れする風景はツギハギで。

隠れる部分は想像でしかなくなっても。

中江の僧侶は優しい目で遊火を見つめ見失わない。

「せやからこそ。

信いうモンが在って。

これだけは真やと言うもんが、人ん中には在るんです」

その言葉は独り言みたいに小さく、ぼわっと膨張してる遊火には届かない。


遊火は確かにそこに在っても。

別の時空の存在で、別方向の思考と在り方で。

どうやったって相容れるコトは出来ないモノだけれど。

流れの中で一瞬だけでも交わったことを、哀しく寂しく愛おしく思う目。

そしてその瞳のままゆっくりと定常を見て微笑む。

「そこ居る人、先の世の中江ンことよろしくなあ」

定常の視界に映ったその僧侶の柔らかな笑みは、ホントにそっくり。

出張ついでに一緒に過ごした後、別れる時の宵の笑みに。

思わず定常は2人の方へ駆け出して腕を伸ばす。

「宵は…オレの宵は何処だ?」

定常のその言葉に、煩そうに遊火がもわりと歪むと。

金色の葉は一斉に反転して辺りはメッキの裏側みたいな錆黒い色に変わる。

そしてまた鬼女の姿になった遊火がぐわりと巨大な口を開くと。

そのまま定常を丸ごと飲み込んだ。

「あんたみたいな強い意識はなあ。

ぼんやりふんわりしたはざまには要らんヤツや。

ここで見たコト持って帰られるンもヤヤコシイし。その辺漂っとき」


遊火に飲み込まれながら。

反射的に振り返った定常の視界に、動くモノが映る。

半分透けた遊火の向こうから宵がコッチ側に駆けて来る。

イチョウの下の僧侶ではなくて、定常がよく知ってる宵。

眼鏡がズリ落ちそうになりながら必死で走ってる。

裸足のパジャマ姿で泣きそうな顔は、布団から飛び出してそのままなカンジ。

(泣くなよ)

それだけ思って、定常の意識は無くなった。




「さだつねっ!

母さん、定常は?さっきココ居ったやんな?イチョウん中に消えてもた!」

宵の目の前には、イチョウの下を掃除するいつもの優美だけ。

でも宵は、優美の黒ワンピースの袖を掴んで必死な顔で迫る。


もうすぐ着くと定常のラインを見て、宵は布団からなんとか身体を起こす。

昨晩のゴチャゴチャで宵の思考回路はパンクして熱を出して寝込んでいた。

だって。

佐藤法子さんの酷い遺体も。

泣き崩れる佐藤久子さんも。

絶望と罪に苦しんだまま遠くなってしまった竹内くんの顔も。

宵はすべて覚えているのに、現実は違っているから。

IK教団内のいざこざで幹部候補家族が死亡する事件が公になり。

殺人事件として教団に捜査が入っていた。

それは正に優美が造り上げたリアル。

宵が経験したはずの一晩はもう無くなっていた。

それをどう理解すれば判らずニュース速報をぼんやり眺めていたら。

定常の声が聞こえてパジャマのまま外へ出てみると。

何故か。

門をくぐった定常は、呼ばれるようにイチョウの下へ進んでしまって。

そのまま年季の入った太く縦筋だらけの幹に吸い込まれてしまった。

もう宵には解らないことだらけ。

でも昨晩からのゴチャゴチャも、目の前で定常が消えた仕組みも。

もう解らなくても構わない、全部放り出して。

ただひとつ定常を無くしたくないと言う想いだけになっていた。



宵が優美に掴みかかるなんて初めてのこと。

少し傷ついたように顔をしかめた優美は苦々しい声を出す。

「あんなあ。

私があんたのハハオヤちゃうんは判ったやろぉ。

もおそないに呼ぶン止めぇや」

「けど。オレにはやっぱ母さんやし」

「あっそお、そんならスキにし。

せやけど、あんたのカレシは面倒やな。

あんたと違って、頭よお回るし警戒心も意志も強い。

おまけに私らが知らん内に、中江のニンゲンと繋がってまうしな。

気に喰わんからアッチの世に放ってもおたで」

「アッチって…」

宵の手をほどいた優美がイチョウの幹を指先で触れると。

その部分だけ木肌がぼわりと歪んで、まるでモニターのモザイク処理。

「この世の流れの外側や。

ははは!これでスッキリや。

せやけどなあコッチのバランス保つんに、欠けた分を埋めなあかん。

私が化けたろか?そしたら暁ん時みたいに夫婦ゴッコ出来るで」

にまーっと意地悪な笑顔を作る優美に、宵はじっと目を合わして。

小さく小さく決心を声にする。

「定常が居らんこの世なんて地獄と同んなじや」

そして震える唇をきゅうっと結んで泣き顔みたいな笑顔を作って。

「母さん、今までありがとおな」

宵がイチョウの歪む木肌に触れると、イチョウは宵を受け入れた。

「定常そっち行くから」

「ちょおっ宵っ!待ちって!」

まるで水面の向こう側みたいに遠くから優美の声が追いかけて来たけれど。

宵にはもう定常のことだけだった。



凍る水に飛び込んだらこんなカンジかも知れない。

冷たさで身体も内蔵も痛いくらい縮み上がって、呼吸も止まって。

一瞬で動きと思考を奪われる恐怖心で本能的に足掻き混乱する。

でも。

霞んで行く宵の視界に、定常の白い法衣が映ったから。

渾身の力で凍えて硬くなって行く手を伸ばして。

やっと定常の左手指に宵の指が触れる。

さだつねと名前を呼んだつもりの口元からはゴボリとあぶくが浮き上がり。

その苦しさを最後に辺りは真っ暗に落ちて行った。





手に誰かの体温を感じて、宵がゆっくり目を開けると。

いつもの古びた天井が見えて、久しぶりの父親暁の顔が覗き込んでいた。

「父さん…」

「うん。久しぶりに会うんが見舞いとはなあ。

色々大変やったな、まずは身体休めぇ」

暁は穏やかに微笑んでいるけれど、少し寂しさも混じっている。

「定常は…」

「外越さんは台所で何んか漢方みたいな飲み物ン煮詰めとるで。

エライ臭いしとったけど、出来上がったらがんばって飲んだり」

「無事なんや…」

揶揄う暁の言葉に思わず宵の目元に涙が浮かんでしまう。

それを見た暁は、宵の手を優しく包んだままゆっくりと語り出した。


「母さんがおまえと外越さんをアッチ側から連れ戻してくれたンや。

私んトコにも遊火が知らせに来てくれて。

宵はもお母さんが何ンなのか知っとるんやんな?」

「知っとる言うか…。

不思議なコト出来て、その。現実を作り替えて現実にして、ええと」

「ははは、まあ混乱するワ。

自由に時間も場所も行き来して、上も下も過去も未来も関係無いしなあ。

けど全然悪気は無いんやで。

ほんま思うがままで義理にも情にも縛られんだけや」

楽しかった出来事を思い出しているのか暁は明るく笑う。

「父さんは初めから知っとったん?」

「いや、見合いで結婚して。姿は綺麗やし辛口な会話が楽しいて。

ちょっとした違和感あっても流しとった。

割れたはずの湯飲みがまた食卓に乗っとる程度のコトやったし。

でも、それでは済まんよおな事があってなあ。

いつかは離れなあかん思うよおなって、本山に戻らせて貰うたんや」


宵はまだ熱っぽいしダルくて身体が動かせないけれど。

暁は握っていた宵の手を見える場所まで持ち上げた。

「こっちの手ぇが黒ぉなってもた。

2人を連れ戻すんに母さんが掴んどったからや。

さすがに力使い果たしたみたいでな、疲れた言うてアッチ側に戻ってもた」

確かに宵の左手は何かが沁み込んだみたいに黒っぽくなっていた。

目立つけれど痛みも無いし普通に動く。

「これもしかして定常も?」

「うん。外越さん自身は生まれつきの痣やと思っとるけど」

「はーあホンマ母さんすぅごいなあ。

さっき付いた痣を、時間遡って生まれつきとかに出来るンや」

そんな場合じゃナイけれど、宵は感嘆してしまう。

「母さんまた戻って来てくれるやろか?」

「どおやろなあ。戻って来ても何百年後とかかもな」

発熱で火照る宵の頬に優しく触れて、暁は少し心配そうな声になる。

「今回みたいに、母さんがアッチ側戻ったコトがあってな。

そん間ずうっと私も具合悪かったンや。

母さんが戻って来るまで身体ダルくてヨロヨロしとった。

多分な中江の者ンは、母さんのお陰で安定しとるみたいなんや。

これからは無理せんと身体に気ぃ付けて過ごすんやで。

特におまえは2回もアッチ側と行き来したんやから」

「2回?」

「あんな…聞かん方がエエんかも知れんけど、言わせてくれ。

この世は私らは、未熟で不完全で過ちに満ちとおけど。

そんでもこの世には信じるに足るコトは在るて思うンや。

信じるいうンは、今よりも少し先を願うとるコトで。

そうやって先を思い続けとおと、生きるいうことになる。

せやから生きとお時間には色んなキモチが詰まっとるンや。

笑ったり泣いたり、幸せを感じたり悲しみに暮れたり。

そうやって生きる時間はその人だけの物ンになる」


布団に横になってる宵は眼鏡を外しているから。

暁の表情もボヤけてはっきりは見えない。

でも暁の声が少し震えているから、宵も緊張してしまう。

(父さん泣いとる?)


「母さんは遊火は、中江の縁を切らさんために。

寿命を迎えた中江の人を、赤ん坊として持って来るンや。

せやから私もおまえも繰り返し生き直しとる命なんや。

けどな、環境で人は作られるて言うやろ。

今ここに居る私らは、それぞれの暮らし様で出来上がったヒトリや。

産まれ直したとしても、おまえだけの時間で出来た者ンや。

それだけは忘れんでくれな」

唐突な話で宵はぽかんと思考停止。

確かに、暁と遊火の間で自分が生まれるワケは無いのだけれど。

「自分がここに居る理由を知った時は私も。

自分は何者ンやろかて混乱してもたし。

母さんが赤ん坊のおまえを抱いて戻って来た時は。

親として接することが出来るやろかて不安やった。

せやけどな。

あれこれ考えとる暇無いくらい3人で毎日楽しかったんや。

そおやって過ごす時間でいつの間にか親子になっとった。

おまえは宵や。

だからおまえが水の事故で心臓止まってもた時に母さんは言うた。

宵に替わるモンは無いて。

そんで、もう一回赤ん坊持って来ることはせえへんで。

おまえを流れの外から連れ戻したんや。今回みたいにな」


もう暁の声は震えが無くなって、ゆっくりと重みのある声に戻ってて。

「遊火やイチョウのチカラはなあ。

流れン中を自由に変えてしまえるチカラや。それを知ってまうと。

ニンゲンなんて生きることなんて無意味に思うかも知れんけど。

そんな想いも全部まるごと自分の中に詰めて。

そんな想いのまんま生きて行くんや。

それが人なんや。

私もまだまだ迷い中やけど、そお信じてお勤め続けて行くつもりやし。

おまえもどおか信心を捨てたり諦めたりせんでくれな」


宵は黒くなった左手をじっと見る。

(これは母さんがオレを生かしてくれた証なんやな。

取替や無うて。オレに生きて欲しいて思うてくれたんやな)

そしてきっと一生記憶から消すことが出来ない、生徒のことを思う。

(オレは確かに何ンも出来んかったけど。

生かされとる限り。どんなに重ぉても火傷しそぉでも。

あの晩の、ヒトの業と果はしっかり抱いて行くんやな)

ただ少し心に引っかかるコトは。

暁が言った「それでは済まんよおな出来事」。

それはもしかして。

(オレが過去に水難事故で死んどるんなら。誰かと置き替わったんやろか…)

でもきっとそれは暁が抱えているコトで。

いつか暁が語ってくれるまで待つべきな気もして、その問いは飲み込む。

「父さん」

宵は精一杯の笑顔になって。

「ん?」

「母さんにも言うたけど、父さんにも。ありがとおな」

「ん…」




と、むわっと怪しげな臭いが漂って来て。

ふすまが開くと、定常が湯気立つ小鍋と湯呑を乗せた盆を持っている。

いつもと変わらないキリっとした姿。

心配よりも、宵が元気になることを考える迷いのナイ顔。

(あー…定常やあ)

宵がほっとするのに重なるように、定常も笑う。

「おーよかった目が覚めたか。

ちょうど特製漢方が出来たとこだ。

十全大補湯を参考に四君子湯と四物湯とケイヒ・オウギ・チンビそれから」

「いくら身体にエエ言うても鍋1つにまとめんでも」

「少しずつ飲めばいいだろ」

「えー?それ全部う?」

「何か食べられるなら粥とか作るけど」

「うーまだ食べるンは無理そおや」

「だったらコレしか無い。はいどーぞ」

「うえー」

思い切り顔をしかめながら宵は起き上がって湯呑を受け取る。

その時にはっきりと定常の左手指3本に黒い痣が沁み込んでるのを見て。

ついぽそっと言葉が漏れ落ちる。

「これも、生きて欲しい言う欲なんかなあ」

「何んだよ」

「いや黒い痣やなあて」

「今更?宵の左手と揃いで、学生の時からこれも縁だって言ってただろ」

「そっか…」

定常は怪訝な顔で、宵の額に手を当てて体温を確認したりしてしまう。


そんな2人きりの雰囲気に、暁はちょっと喉を鳴らして存在をアピール。

「こほん。外越さん部屋はどないします?」

「はい。お話頂いた通り2階の6畳間を使わせて貰えたらと考えてます」

「私が本山へ戻る時に全部片づけてもたんで、何んも無いですけど。

どおせ私はもおここに戻ることは無いし。

外越さんがエエよおに使うてください」

「ありがとうございます」

湯呑の焦げ茶色を舐めていた宵は目を丸くする。

「え?定常ここに住むん?」

「宵おまえ記憶混乱してるのか?頭痛は?視力とか聴力は?」

ホンキで焦る顔の定常が、宵の目の前に迫って。

笑いながら暁がフォローしてくれる。

「ははは、まあまだ頭寝ボケとるわな。

外越さん。休耕地の件はまだ公になって無いんでしたっけ?」

冷静さを取り戻して定常は姿勢を正す。

「ほらIK教団に捜査が入っただろ。

休耕地買収も中止になって、代わりに協議会の案件が採用になる予定だ。

これから宗教法人と連携した公営霊園の建設が進められる。

法改正もあって自治体管理の合同墓地や合葬墓も増えてるトコだしな。

ほぼ確定間違いない。

関東都市部から便利な静岡はその実績が豊富だから、オレも参加する。

副住職としてココでお勤めしながらな。

よろしく中江住職殿」

発熱だけではナイ熱さで宵の思考は大噴火で狼狽える。

「さだつねとふたり…」

「母さんは実家に戻って貰うたし、おまえの体調も不安定やけど。

外越さんとならやって行けるやろ?」

すっかり暁も楽しそう。


これは優美の置き土産?

それこそ柱の陰からニヤニヤ笑って見てるかも。

「ほんまにあのコはポケっとしとるから。

おからクッキー焼くだけで一生終わってまいそぉやもんな」

そんな優美の声が宵には聞こえた気がした。





ナントカ小鍋いっぱいの特製漢方を宵が飲み切った頃。

帰り支度を済ませた定常が部屋に入って来た。

「ほんとに1人で大丈夫か?今晩だけでもオレ泊まろうか?」

「ありがと。

もお大丈夫や、どおせ寝とおだけやし。明日からゆっくりやってくワ。

父さんも一緒に駅行くん?」

「ああ後5分でタクシーも来る。

暁さんは今日中に本山に戻りたいそうだ」

修行僧としての規律や勤めが厳粛で大切なのは判るけれど。

実の息子が体調不良なんだし、もう数日看病で残ればイイのにと。

不服な思いが定常の顔に出てしまっていて。

宵はちょっと焦る。

なんとなく定常の感情がプラスもマイナスも多めな気がするし。

「父さんな、ココ居ると。

母さんと3人で暮らしとった昔を思い出して、寂しいんかも」

「あー…」

そう言われて定常は失言を反省する。

色んな執着を断ち切って修行の道を選び直した覚悟はあっても。

失ったコトを実感してしまう場所は居心地悪いかも知れない。

それは暁にも宵にとっても。

「すまん、ちょっと嫌味ぽかったな」

定常は素直に頭を下げて、それからひょいと顔を近付けると。

宵の額にキスをして耳元で囁く。

「すぐ戻って来る」

その一言で、熱で乾いた宵の唇が笑みになる。

「ダイジョウブや、オレは寂しないで。

来週からは定常と一緒やもんな。

オレ半人前やし、しかもこんなフラフラやと1/3人前かも知らんけど。

定常が居ってくれるて思うだけで、何んかもおめっちゃ気分良えねん。

これからが楽しみで幸せやあ」

「実はオレも浮かれてると言うか、テンション上がってて。

まさか本当に宵と一緒に生きて行けるなんて。はは、夢みたいだ。

霊園建設や宗派混在の運営て、目に見えない感情や想いも絡むし。

若輩者が受けるには大変なコトだと判ってるけど。

でも必ずやり切ってみせる。宵も手伝ってくれよな」

そうこれからは何んでも2人で抱えて行くのだから。

宵のキモチも決まっている。

「うん、あの。オレな。

定常に聞いて欲しいコトがようけ有るんや…」

「おう一晩中でも話そう。

これからは帰る時間を気にする必要も無くなるんだからな」

「そおやな」

定常の黒ずんだ指先が、宵の髪に優しく触れてくれて。

2人は額を合わせて笑った。




暁と定常を見送った宵はイチョウの下に立ってみた。

何処を探しても、遊火と繋がるような入口ぽいのはもう見当たらない。

(母さんがよおこの辺掃除しとったな。

もしかしたら時々アッチ側とつながったりしてたんかな)

本堂や家の掃除は宵にさせるくせに。

イチョウの掃除は必ず優美がしていたことを思い出す。

そしてイチョウの樹を見上げてた優美の言葉も思い出す。

(確かイチョウにも花言葉がある言うて…。

樹齢が長いから長寿とか荘厳とか、それとそおや鎮魂や。

もしかしたらここは、たくさんの魂と繋がっとおのかも)

古い樹皮は厚く縦の筋割れだらけでゴワゴワだけど。

宵はそっと耳を当ててみた。

その割れ目から何かが聞こえてきそうで。

(オレはここで定常と一緒に、たくさんの魂に手を合わして行くんや)



新しい緑の葉が重い程重なって、小さな宵の上に広がっていて。

静かに夜が更けて行く。

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