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大きなイチョウの樹の下で  作者: おきついたち


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1.イチョウは成長が早い

駅近くにある個別指導学習塾の講座は全部終わって教室は消灯済み。

事務室や講師室があるフロアだけ明かりが付いている。

そのフロアの端にある「自習室3」もまだ明かりが付いていて。

1人ポツンと座って居た中江は、ちょっとタメ息を付いて机の上を片付けた。


「おつかれさまでーす」

講師室に中江が戻ると、まだ数人の講師が仕事中。

でもこの塾は志望大学絶対合格と言うよりも、苦手科目克服がメインの塾。

講師室の雰囲気もそんなにピリピリしていない。

「あれ?中江さん随分早いやナイですか」

「ははは今日はスっぽかされてもて」

「え~またですかあ」

「今日の予約て、竹内くんやろ?夕方の4人枠には来てましたよ」

「ほんまですか?」

「何ンやそれぇ。個別キャンセルすんなら、帰る前にそお言えばエエのに」

声大きめ講師が不機嫌な顔をするので。

キャンセルを喰らった中江の方が、なだめる側になってしまう。

「いやでも講座に来とったんならヨカッタです。

念のため安全確認せんとアカンかなあて気になってたんで。

次ん時にちゃんと顔見て、理由聞かせて貰おかと思います」

笑顔を浮かべた中江が穏やかな声で応えると。

仕事の疲れも混ざってモヤっていた講師室の空気は軽くなって。

まあしゃあナイなーとその話は収束、講師達は自分の仕事に戻って行く。


中江も隅っこの自席でスケジュールにキャンセルを入力して帰り支度。

スケジュール表の一番下にある「中江宵」の欄は他の講師とは違う色。

それは中江が正講師ではなくてバイトだから。

オシャレ度ゼロの短髪に丸眼鏡、その奥もまた丸くて大きな瞳の童顔28歳。

講師室での存在感が薄いのは、その外見やバイトという立場もあるけれど。

個別対応専門で予約がある時しか出勤しないし。

指導進捗や模試結果とは別分野で、ちょっと悩み相談室ぽい枠。

だから他の講師達はあんまり関わりたくないし。

みんな中江の本業を知っているからまるっとお任せ状態。

「すんません。お先に失礼します」

薄いハーフコートを羽織ってペコリと挨拶する中江はまるで大学生。

でもこれでも、後竺寺という小さな小さなお寺の住職だったりする。



宵はビルを出るとスマホを取り出して着信記録を確認。

そして「外越定常」の着信に折り返すとワンコール内に声が返って来た。

「終わったのか?」

「うん。遅おなってごめん、すぐそっち行くんで」

「テキトーに食べるもの買ってあるから手ぶらで来いよ」

「ありがと助かるワー」

通話をOFFにして、宵は駅へ向かう人の流れを逆方向に抜けて行く。

歩調は焦っているけれど。

頬はちょっと照れた色で、湧き上がるキモチを堪えている口元。

通話の声で、生徒のキャンセルで凹んでいた気分も回復してしまった。


シティホテルの部屋をノックすると。

シャワー後でほどけた髪にスウェット姿の定常がドアを開ける。

「バイトお疲れ」

「それが結局仕事にならんかって」

「はあ?何だソレ」

「予約してくれとった生徒が来えへんかった」

「キャンセルなら、すぐココに来ればよかっただろ」

「遅れてでも来るかなー思うて」

「あーそお。少しでも早くココへ来るって選択肢は無かったワケか」

「そおいう意味ちゃうけ、むっ」

言葉尻がヘンな音になったのは宵の唇が塞がれたせい。

まだバッグを掛けたままなのに、待たせていた相手は宵を抱き寄せてキス。

いきなり過ぎるし恥ずかしいしで宵はぎゅむっと目と唇を閉じてしまう。

「久しぶりで、やり方忘れたのか?」

とうとう定常はププっと噴出して、ゆっくり宵を解放する。

だって宵は硬直して、手はぐぅで握り締めて真っ赤な顔は汗だらけ。

「わ、忘れたいうか…思い出して困るいうか」

「困るって何んだよ」

「いやあの悪い意味や無うて。その」

「こっちも困らせるつもりは無いけど。食べるか?それともシャワー?」

「しゃシャワーしぃたい。今のでめっちゃ汗かいてもた」

「ははは、どんな汗だよ」

ほんとに宵の眼鏡の鼻アテ部分に汗が溜まってて、定常も笑うしかない。

宵のバッグを外してテーブル横に置いてやる。

「オレのTシャツでいいだろ?」

「そっか着替え考えてへんかった。ありがと」

「あんまり待たせんなよ」

「うん。すぐ!汗流すだけやから」

わたわた焦りながらバスルームへ入って行く宵の背中を見届けると。

定常はつい愚痴がぽろり。

「ったくこの部屋がダブルなの判ってんのかよ、あの小坊主は」



宵のコトを小坊主呼ばわりするけれど、外越定常は同じ歳。

2人は同じ仏教系大学で学んで修練・教修を得て、今はそれぞれ実家の寺勤め。

でもその差はゾウとアリンコ、胡蝶蘭とタンポポ。

定常が勤める寺は、由緒ある建造物や庭園を保有して静岡観光名所になるレベル。

今の住職は定常の父親だけど、他にも優秀な僧侶が数人勤める規模。

そして逆に宵の寺は、近所の檀家しか繋がりのない古寺で母親と2人暮らし。


環境は全然違うけれど、大学で出会ってから気が合ってずっと一緒に過ごして。

そのうちどんな理屈でも理性でも隠せない感情が芽生えてしまって。

今ではナイショの恋人な関係。


定常も剃髪していなくて、普段は髪をなでつけクールな目元は眼力が強い。

すらりとした長身に法衣をまとうと清々しい聡明さが際立って。

庭園ですれ違う観光客から二度見されたり隠し撮りされるほど。

そんな好印象な外見だから、宗派や地域の事業協力に行かされることも多くて。

かなり忙しい身だけど、そのお陰で関西の地方都市に引っ込んでる宵と会える。

両親からは跡を継ぐことを期待されてるけれど。

それでも自分は配偶者を持たないことだけは伝えてある。

母親を見ていれば寺族の協力がどれだけ重要かは解っているし。

生涯掛けて仏の教えと向き合うには、生き方を理解して支えてくれる存在は必要。

でも、だからこそ。

真の伴侶で無ければ、と定常は思っていて。

どれだけ修行を重ねても消せないナマの部分も共有して進んで行けるのは。

それは宵しか居ない。

それが定常の答えだった。



カリキュラムが超厳しい大学時代、寮生の宵は消灯までに課題が終わらなくて。

いつも定常の下宿先へ来て課題と格闘。

真面目で一生懸命だけど、要領がヨクナイ宵。

完璧にまとめられた定常の資料に助けられて、いつも何んとか期限に間に合って。

「ほんまにありがとおなあ。定常のお陰で修練取れるワ~」

まさに和顔悦色施なふんわり顔で宵はお礼を言う。

そして宵が作るお手軽精進料理を2人で食べながらアレコレ語り合って。

そのうち勉強疲れが溜まっている宵は寝落ちして。

テーブルと顔に挟まれた宵の眼鏡を外しながら、定常は寝顔を見つめてしまう。

可愛くて仕方ないけど、髪に触れたり頬にキスするのは必死で我慢。


寺育ちだから、仏の教えは自分の根幹。

だから今までは我欲を押さえるとか我慢とか感じるコトなんて無くて。

大抵のことは「教えの通り」すんなり受け入れて来たはずなのに。

宵への気持ちはどうしても消せないし、手放したく無かった。

そんな想いを白状すると。

宵は大きな目をもっと大きく丸くしたけれど、やっぱりほわりと微笑んで。

「そっかあオレもその、ずうっと胸ん中に柔いもんがあって。

多分それて定常のンと同んなじもんで。

オレも、このキモチどおやっても消せんで。

このキモチ外へ出さん代わりに。

これからも同門の徒として、定常と仲エエ関係で居りたいて思うとったけど。

でも、それでも足りんいうか寂しいいうか…ははは恥ずかし」

そして2人はぎゅうと抱き合ってキスをして、唯一の秘密を共有する関係になった。


そんな関係になっても、不思議と後ろめたい感情は無いし。

悔い改めたいワケじゃないから懺悔文は唱えない。

いっそ抱えてる煩悩があるから修行に身が入る、とか笑って言い訳して。

でも真正面から誤魔化すこと無く、それぞれ日々の勤めを果たしているつもり。


それにどちらかと言うと、違う種類の現実問題の方が悩ましい。


宵は学科の単位はギリギリだったけれど、人柄の穏やかさは別格。

読経の声は耳に優しいし、傾聴や受け応えはいつもやわらかで心地良い。

オマケに見た目もちんまり無害ほんと「小さなお寺のお坊さんにピッタリ」。

実家の寺に戻ったら、そのまま地域に溶け込んで慕われる存在になるはず。

だったのだけれど。

このご時世、供養への意識変化は大きくて。

オヒトリサマとか孤独死とか、墓を守り続けると言う背景は薄れ。

納骨堂での永代供養や、墓終いされない無縁仏とかアタリマエ。

つまり地方の小さな古寺の運営事情はめちゃくちゃ厳しい。

だから宵は大学で教員免許も取って臨時教師や塾講師の副業をしていて。

遠距離恋愛な上に、会う時間を作るのも一苦労だったりする。




シャワーを済ませた宵が、テーブルに並ぶ総菜とパッケージを見て驚く。

「うわーめっちゃ豪華や~。

わざわざ梅田のデパ地下で買うて持って来たん?重かったやろ?」

「この辺りでベジタリアン総菜なんて買えないからな。

て言っても多分卵とか魚とか使ってると思うけど」

「全然気にせえへんよ、いつもありがとおな。

ほんまはウチ泊まって貰うたら一番エエのにな。

そしたら費用もかからんし、オレが食事作るんにな」

宵は髪が湿ったまま、乾かす時間も惜しくて定常の隣にちょこんと座る。

ダブルルームのテーブルセットは2人並ぶとかなり狭くて。

ぴたと膝がくっついて、宵は真っ赤になってしまう。

定常のTシャツは大きいし、ズボンを皺にしたくないからパンツだけ。

それは学生の頃と同じ格好だけど。

今日はぐいぐいと定常が腿や肩を寄せてくるから焦ってしまう。

「ちょ、ちょおさだつね…」

「おまえの家泊まったら、こんなこと出来ないな」

「はははシャワーしたんに、また汗かいてまうワ」

「オレもだ」

定常が火照る宵の顔から眼鏡を取り上げると。

宵はゆっくり目を閉じて唇を向けてくる。

「いいのか?」

「昼飯喰うたん遅かったから、まだそんな腹減ってへんし。

その、食事もエエけど。あのその、めっちゃ会いたかった…」

宵の声に甘さが混じって、遠慮がちに伸ばされた手が定常の手に重なる。

ダブルベッドの意味は通じてたようなので、定常も理性を取っ払って。

キスしながらテーブルを離れてベッドに移る。

初めての時からずっとそうしてる。

誘う誘われな流れにはせずに、ちゃんと求め合う。

もしコレを執着や煩悩と呼ぶにしても2人で抱えていく約束だから。




ぱたんとドアが閉まる音がして、定常は目が覚める。

ベッド横の時計は深夜3時。

一応の確認に宵の温もりが消えたシーツに腕を伸ばして、また目を瞑る。

こうやって一緒に過ごしても、宵は泊まらず何時だろうと帰宅する。

仕事前に移動用原付をホテル近くに駐車しておく準備っぷり。

それは仕方ないと定常はもう諦めている。タメ息は出てしまうけれど。

宵の父親は、後竺寺を宵に任せて大本山の修行僧に戻ってしまった。

だから宵は住職の責任以外にも、残された母親への申し訳無さが大きくて。

仕事以外で母親を一人にしないよう気を遣っている。

その配慮は解らないでもナイけれど。

自分より優先するコトがあるのは、定常としてはやっぱり面白くない。

しかもこの母親がまたクセの強いヒトで、定常は少々いやかなり苦手。


学生時代に、宵の正月帰省に合わせて後竺寺を訪れた時。

本堂近くにある立派なイチョウの樹の下で、母親の優美が掃除をしていた。

とっくに葉は落ちて枝と幹だけなのに。

何の掃除?不可解そうな定常の視線に気付いた優美は笑った。

「ココはなあ、色々こぼれ出て来る場所なんや。

ヘンなもんが混ざらんよおにキレイに掃除しとかなアカンねん」

「はあ…あのお手伝いします」

礼儀としてそう応えたけれど、定常にはただ根が張った地面しか見えない。

そして返って来た優美の声には軽蔑がたっぷり含まれていて。

「いややわ~口ばっかり達者なコやな。

アンタにはゴミも何ンも区別出来へんくせに。何ンを掃除する言うんや」

そして刺すようにキツイ目でジロリと睨まれただけで終らず。

「アンタみたいな存在は予定してへんかってンけどな。あーあメンド」

唐突な上に不躾度MAXな言葉に、さすがの定常も怒りが湧きそう。

でも、ふわりと笑う宵の顔を思い浮かべて、ぐっと堪えた。

「…お役に立てず、すみません」

それ以来後竺寺に足を踏み入れてない。


宵から聞いていた母親優美は。

「オレは父さん似やねん、母さんとは全然似てへんで。

父さんが結婚した時は、美人な嫁さんやーて羨ましがられたんやて。

中身もな、オレと逆でいつも落ち着いとって慌てたりせえへん。

檀家さんともしっかり付き合うてくれて、何んでもよお知っとお。

父さんは勝手したンに、何んも言わんと変わらず寺ンことしてくれて。

オレがもっとしっかりして、母さんを自由にしたりたいンやけど…」

確かに優美はその年齢になっても不思議な魅力をまとっていて。

染めてない白髪はオシャレなボブ。

スレンダーな体型にピタリとした黒い服を着て背も高い。

でも、少し長めの前髪から覗く瞳は細くて鋭くて。

骨ばった輪郭のせいか、顔立ちはちょっと冷ややか。

薄い唇は微かな嘲笑を浮かべてるようにも見える。

クールビューティと言えなくも無いけれど。

(宵が母親似じゃなくてよかった)定常としてはそう思ってしまう。



今だって本当は、母親が留守番してる寺へ急ぐ宵を引き留めたい。

起き上がった定常はフットライトでほんのり明るい部屋を見渡す。

テーブルには畳まれた自分のTシャツと、宵手作りのおからクッキー。

学生時代に旨いと言ったら、会う時には必ずクッキーを作って来る。

多分、食事代やホテル代を受け取らない自分へお礼のつもり。

その気持ちは嬉しいけれど、全然足りない。

もっとずっとそばに居て欲しいのに。

でんと枝根を広げるイチョウと母親が睨みを利かせる寺へ宵は帰ってしまう。

(いっそ廃寺にして、宵がウチに来れば…)

ついそんな思いが過るけれど、でもそれは絶対言えない。

地域の信心や想いを守るために、宵はあんなに頑張っているのだから。




「ただいま戻りましたあ」

独り言みたいな小さな声で礼をして、宵は本堂隣の自宅に入る。

一応住職を継いだけれど、まだまだ半人前だし。

本堂も自宅も先代や父の存在が深く染み入ってる空間に思えて。

家へ帰ると言うより、お邪魔させて貰ってる気分。

「あらぁ?朝帰りちゃうのん」

暗い廊下の奥から母親優美の笑うような声が出て来た。

「あ、ごめん。起こして貰うた?」

「んー?別にたまたま目え覚めただけや。

それより相手んこと置いて帰って来たん?

そん程度の付き合いやったら、もお止めたらエエのに」

「つきあいて…」

「今更そんな照れんでも。甘ーてイヤラシイ匂いダダ漏れやで」

いつの間にか優美は宵の肩に細い指を置いて、頬の匂いを嗅いでいる。

「えっ!におい?ちゃんとシャワー浴びて」

「ほんまにいつまでもオコチャマやなあ。

そんなボケされたら、もおよおツッコまんわ」

ツマラナそうに優美は廊下の暗さの中にまた溶けて行ってしまう。

ひとりぽつんと残された宵は、暫くぼーっと立っていたけれど。

念のため自分の腕やシャツを引っ張って嗅いでみる。

もし定常のカケラがどこかにくっついてるなら、大切に保存するのに。

「…そおやなあオレ、いつまでも中途半端やんなあ」

宵の目元にじわりと涙が滲んでくる。

こんな小さな寺でも、毎日細々とした仕事が山積みで忙しい。

と言うか、雑用に没頭して感情を後回しにしている。

冷静になるとネガティブな迷走に陥ってしまうから。

(定常はいっつも優しい。

こっち来るンも福祉協議会の仕事とか難しいコトしとるのに。

わざわざオレと会う時間を作ってくれとお。

周りからも期待されとる若手僧侶やし、ほんまやったら今頃…)

ちっぽけな立場である自分には、勿体無さ過ぎる恋人。

そう思うと優美の「止めたらエエのに」が重くのしかかる。

(でも、でも…どないしてもオレ、定常を手放せへん…)

色んな感情が渦巻き飲み込まれて動けなくなりそう。

宵はごしごしと目元を拭うと、部屋へ戻るのは止めて本堂へ向かう。

こういう時は読経するしかナイ。

迷いが在るから悟りが生まれると思うし。

悩みが在るなら問い掛け続けるだけだから。



本堂へ渡る廊下の窓から、宵は深夜の沈黙をぼんやり眺める。

山門傍の大きなイチョウが夜空に届きそうなほど枝を伸ばしていて。

ちょうど春先の新芽が伸び、数週間もすればキレイな緑色が溢れる。

イチョウは樹齢500年か600年と言われ、この古寺で唯一誇れる存在。

ついぷぷっと宵は思い出し笑い。

(定常がこのイチョウ見上げて言うとったなあ)

「500年か600年て随分なサバ読みだな。

5か6かじゃなくて100年の差って、大違いだろ。

まあそんな長い時間の中なら、1秒の出来事なんて塵と同じだよな」

そして本堂の近くなのに秒キスをして来たから宵は慌てたけれど。

定常の肩越しに枝葉を広げるイチョウは2人を覆って隠してくれた。

(オレの我欲や執着は、仏さまもイチョウもとっくに知っとおコトや。

せからそれでエエんや)

ゆっくり手を合わし深く息を吐くと、薄暗い本殿で宵は読経を始めた。



結局そのまま本堂で朝を迎え、いつもの掃除まで終わらせて宵は台所へ入る。

朝食は優美が作ってくれるけれど。

あんまり優美は料理が得意ではないと言うか食事への興味が薄い。

ご飯を炊いて味噌汁を用意すると、宵が作ったおかずを並べるだけ。

もともと父親の暁の方が料理は得意で、手軽な精進料理を宵に教えてくれた。

暁が大本山に戻ってからは、宵が常備菜を作って冷蔵庫に置いているけれど。

その減り具合から見ると優美は朝食しか食べてないよう。

ただ甘い物なら食べるので、宵は団子やおからの焼き菓子も作っておく。


今朝も優美はちょっとだけ白米を食べると、もうおからクッキーをパクつく。

「今日も塾行くん?」

「夕方少しだけな。採点の手伝いがあるねん」

「ほんなら昼は時間空けといて。4丁目の広川さんが法事の相談したいて」

「え?広川さん家やったら来年やろ」

「長男の海外赴任が決まってんて。

単身や無うて、家族も一緒に渡独するんでそんな度々帰って来れんし。

他の孫のお受験も続いとるから、今のうちに済ませたいんやて」

「へえ」

「どーせ広川さん夫婦は一日置きに墓参り散歩来とるし。

法事いう形だけ整えたいんやろ。

親戚連中それぞれ都合あるンなら、集まれる時にやるしかナイやろな。

もお時期なんてどおでもエエやん。こんなん気が済むかどうかやねんから」

「まあそおやなあ。キモチのンが大切やんな」

「きっと話長いで~。

そおは言うても、ほんまは子供らぁに言いたいコトあるやろしな。

たっぷり愚痴聞かされるワ」

ずずっと熱い緑茶をすすりながら、優美はちょっとイジワルに笑う。

「塾バイトん前に、駅寄って誰かさんの見送りしよ思うてもムリやな」

「っつ」

宵の箸からボトっと漬物が落ちる。

宵からはっきりとは報告してないし、優美からも確認されてナイけど。

どうやら優美は、定常とのコトを知ってるみたいで。

時々こんな風にチクチク言ってくる。

「広川さんの都合に合わしてエエんやろ?

話聞くだけやったら私が相手しとくで?」

そのくせ、さらりと「誰かさん」の話題は流れて行くから。

定常とのコトを反対しているのか、応援されてるのかもよく判らない。

「あーそおやなあ。

せっかくご夫婦で出向いてくださるンやし。オレがお話聞かせて貰うワ」

ふんわりと宵がいつもの穏やかな笑みを浮かべると、逆に優美は興醒め顔。

「あっそ。ほんま中江のニンゲンは真面目過ぎてツマランわ~」

その勢いで優美はぽいぽいぽいっとクッキーを全部食べ切ってしまう。

「それ気に入ったん?」

「まあまあやな。胡麻入っとおのがエエ感じや」

「ほんま?よかった」

もう一度宵はニコっと微笑む。

定常も気に入ってくれとぉとエエなあ、と思いながら。



案の定、法事の日程を決めるだけのはずが広川夫婦のお喋りは延々と続き。

時間ギリギリになって宵は塾に出勤。

小テストの採点を手伝い、解説ノートを作りながらつい考えてしまう。

(広川さんの話聞いて何んか暗ぁなってまうなあ。

ウチみたいな小さな寺は、この先こんな話が増えるんやろなあ。

お子さんやお孫さんは地元を出て就職先で家庭持って。

行く行くはそっちに両親呼んで同居してお墓も移して。

先祖代々からの地元つながりはソコで終わってまう。

そらぁやっぱり生きとる人の都合とか願いのンが、この世では優先やし。

世の中の流れて、小さな愚痴だけで変るモンちゃうしなあ)

と、スマートウォッチに着信サイン。

シンプルモデルで画面が小さいので、スマホでメッセージを確認する。

定常からだった。

仕事が入って見送りに行けないことは既に連絡済み。

「胡麻味旨かった。また連絡する。

ろくに寝てないだろうから今日はしっかり休めよ」

そんなあっさりしたメッセージだけど、宵には何よりも染み入る言葉。

帰路の新幹線内は協議会関係者と一緒だから、きっとまだ仕事モード。

そんな中、隙を見てメッセージを打ってくれたに違いない。

世の中の流れ・背負う役割・規範や規律そんな目盛りで固定される日々だけど。

(定常も頑張っとお。

オレもしっかりせんと。

どおにも出来んコトに引きずられんで、今出来るコトをやるだけや)

メッセージをじっと見つめていると。

いつもそう言ってるだろ?そんな定常の声まで聞こえる気がしてきて。

宵はふふと笑う。

とりあえず目の前の採点業務を終らせて帰宅して睡眠をしっかり取ろう。


でもそんな時に限って、講師のリーダーが申し訳無さそうな顔で宵の席へ来た。

「すんません中江さん。

昨日キャンセルした竹内くんが時間欲しい言うとって、いけます?」

「え…と今からですか?」

「いや次の講座が終わってからやから、90分後ですかね」

うわあと思うけれど。

バイトの身で断れるワケ無いし、昨日のキャンセル理由も気になるし。

宵は頷くしかない。

「それやったらこの採点も終わってますし、丁度良えです」

「助かりますワ~」

ほっとして戻って行くリーダーの背中を見送って、宵は自習室を予約。

「今出来るコトせんとな」

小さな声で自分に言い聞かせながら。



最近はどこの学校にもカウンセラーが配属されているけれど。

そのステージはあくまで学校生活。そこから先は社会福祉や医師とかに替わる。

そうして線引きしておかないとキリが無くなってしまうから。

でも逆に、学校生活では兆候を見せない生徒だと何も始まらないワケで。

子供達だってそんな仕組みをよく解ってる。

親つながりや学校という小社会内で知られたく無いコトは、表に出さない。


ここの塾経営者は、じゃあ学校や家とは別枠を作ってみようと。

個別指導という名目で予約を募ってみたら。

いつの間にか、予約枠は必ず埋まるほどの静かな人気になっている。

正社員講師だと講座で顔を合わすのが気まずいコトもあるし。

専門家を呼ぶと費用が掛かるし、あれこれ塾方針にまで口を挟まれるのは不快。

でも、まだ若くて謙虚な坊さんを時々呼ぶだけなら大したコトにはならないはず。

神職関係なら信用出来るし、損得勘定も心配無用。

そんな流れで宵がバイトを始めてみたら。

温和な笑顔の宵を前にすると生徒の警戒心は緩むし。

成績や友達付き合いとかはっきりした悩み以外にも。

漠然とした不安や、どう言葉にしてよいか判らない焦りとか。

こんなんジブンだけやろか?と飲み込むしかないモヤモヤレベルでも。

どんな話題にも宵は穏やかに耳を傾けてくれるから。

生徒はとにかく外へ吐き出せる。

そうすると、遠回りだったり、ピッタリくる言葉がなかなか見つからなくても。

モヤモヤは段々とカタチになって行って。

大抵の場合、何回かの個別指導を経験すると。

すっきりした顔になって、具体的になった問い掛けを手にして進んで行く。

だから宵はいつも(指導って講座名変えてくれへんかなあ)と思っている。

指導なんて全然してなくて、子供達が自分で気付くだけだから。


ただこの竹内くんのモヤモヤ度は測りにくい。

これまでも、予約をしては急にキャンセルしたり。

教室にやって来ても、ただ教科書の質問だけだったり。

自分の内側にあるコトを外へ出すのをまだ迷ってる雰囲気。

だから宵も、答えがある質問には応えるけれど他は何も言わないで。

その時を待っている。



追加業務で帰宅が遅くなることを優美に連絡して。

宵が教室へ向かうと、もう明かりが付いてるから宵は首を傾げる。

(消し忘れやろか?)教室予約は空欄だけどノックしてドアを開けると。

教室の真ん中に予約生徒竹内くんの背中が在った。

でもその背中は居心地悪そうで小さく見えるし。

わざわざイスの向きを変えて背を向けられると、拒否されてるよう。

「竹内くん?ずいぶん早いなあ」

「さっきの数学、小テスト解答終わったら退室してよかったンで」

「そおやったんや。ごめんな待たせてもて」

「こないだオレ勝手に帰って、先生待ちぼうけやったやろ。おあいこや」

「そおやで。何んか急用やったん?」

会話は普通に成り立っているけれど、竹内くんの正面にはイスが無い。

間近で顔を合わせたくないサインに思えたから、宵は少し離れて座る。

斜め方向から見る竹内くんの表情には疲労感が滲んでいた。

宵は頭の中で、生徒資料の内容を振り返ってみる。

通常なら資料を広げたりメモを取ったりするけれど。

何んとなく視線を外すことが出来なくて。

竹内くんの表情も口調も動作も全て神経を払うべきな気がする。


くるくるシャーペンを回しながら竹内くんはボソっと暗い声を出す。

「なあ、中江先生の神様って仏様なん?」

「そおやで。オレお寺の住職やし」

「先生の仏様って怒ったりすんの?」

「え?」

「神様から言われた通りのコト出来んかったら、天罰が下るンやろ?」

その口調に、宵は違和感がもやっと沸く。

天罰が下るなんて言い方は大袈裟な舞台台詞みたいだし。

何処かで聞いたか言われた言葉をそのまま口にしているぽい。

いつもなら生徒が語るペースに合わせるトコロだけど。

もう少し竹内くん自身が考えているコトを引き出したくなってしまう。

「そおやなあ…。

歴史の講座で習う通り、世の中では色んな神様が信仰されとって。

ヒトは、神様の名前を使おて裁いたり戦争したりして来とおけどな。

オレが思うンに。

神様や仏様はヒトを傷付けたりせえへん。

ヒトを傷付けるンは、いつもヒトやで」

「そらあそおやろ。それくらい判っとるワ。

神様てカタチが無いんやから、殴ったり武器使おたりするワケ無いやん」

「うん、その通りや。

せやからな、もし竹内くんが畏れとるモンが在るんやったら。

それは竹内くんが信じとお神様なんか。

それとも天罰て言うとおヒトなんかを、見間違えせんよおに…」

宵の言葉は途中で遮られてしまう。

竹内くんはガタタっとイスを蹴飛ばす勢いで立ち上ったから。

そして何かを振り解くように声が大きくなって。

「オレはっ!カミサマなんか信じてへんっそんなん要らんっ。

せやのに、なんで居なくならんのやっ!いっつも居るんやっ」

「そおなん?

信じてへんのに、何んで「居る」て思うん?」


いつもは緊張させない為に、生徒の顔を見過ぎないようにしているけど。

今はそうも言ってられず、宵は竹内くんの変わりように注意を払う。

だって竹内くんは宵を見ていない。

机には参考書やノートが広げてあるけど竹内くんの視線は別の方に向いて。

表情には怒りと苦しさが混ざっていて。

誰に向けられた声と感情かは解らないけれど、どんどん激しくなる。

「いっつもいっつも!

カミサマが見とるとかカミサマは知っとるとかっ!

そんなカミサマは暇なんかっ!こっち見ンなっ!口出しすんなっ!

カミサマがずうっと居るから、みんなおかしくなって貰うたんやっ」

「竹内くん、それてお家ン中の話なん?」

ぐるん!と急に竹内くんは頭を宵に向けると。

今度は顔が恐怖で引き攣っていたから、宵まで冷や汗が浮かぶ。

「し、知らんっ!

家ん中も外も、ここもアカン。もおずっと見張られとるんや!」

ガチャガチャと机の上の物を乱暴にバッグに放り込んで竹内くんはドアへ走る。

「ちょ、ちょお待ってっ。

竹内くん待ってや、話すん邪魔してごめん。なあ待って…」

(失敗してもた)時間を巻き戻したい思いで、宵は腕を伸ばすけど。

半分開いたまま振り回された竹内くんのバッグが宵の顔を直撃。

ペンケースやガムとかがバッグから飛び出し、宵もひっくり返ってしまう。

ぶつかった机やイスごと倒れて派手な音が響いたけれど。

竹内くんの耳は全てを拒否して、振り返ることなく走って行ってしまった。


「っつ痛てて」

頬や背中やあちこち痛むけれど、よろよろと身体を起こして宵は床に座り込む。

「はあ…やってもた」

幸い講師室は離れているので音は届かなかったよう。フロアは静まり返ってる。

ふうと深く息を吐き出すと、宵は散らばってる文具品を拾って机を直して。

ゆっくりと頭の中を整理する。

(ここもアカンて思われたンはマズかったなあ。もお話してくれへんかも。

家でも学校でも話出来んコトを話して貰うための場所やのに)

「…オレのあほ」

打撲の痛みも忘れるくらい落ち込んで、しょんぼりと宵は講師室に戻った。


講師室には生徒の忘れ物BOXがあって、拾った日時や場所をメモって収める。

今回ははっきり竹内くんの持ち物だと判っているけど。

(オレから直接受け取りたくナイかも知れんし)

そんなコトを思いながらペンケースをBOXへ収めようとしたら。

ファスナーが半分開いていて、閉めようとすると何かが引っ掛かる。

(何んやろ?四角?シャーペンの芯ケース?)

摘まみ上げて見ると、それは透明なプラケースで。

中には小さな金属の襟章みたいな物が収まっている。

(あれ?この形なんか見たことあるよーな??何ンやったっけ?)

記憶を探ろうとしたら。

背後から大きな声が飛んで来た。

「わ?中江さん!その顔どないしたんですか?コケたんですか?」

「あ、や。えーと…はい。さっき教室で躓いてもて」

すっかり忘れていたけれど。

指摘されると急に打撲の痛みが主張し出して、頬や背中がずきずき痛む。

「冷やした方がエエんちゃいます?保冷剤ありますよ?」

「ありがとございます。でももお帰るだけなんで。

家帰ってからちゃんとします。お気遣いありがとございます」

心配してくれる講師の様子からすると、かなり頬の傷が目立っている感じ。

痛みよりも恥ずかしさが大きくて、宵はペコペコ頭を下げて退室した。

もう講座が終わって誰も居ないフロアのトイレで、鏡を覗き込むと。

確かに耳の下から頬骨の辺りが擦りむいた傷で赤く腫れ出していた。

「うわあ」

みっともなくて宵はガックリ頭を垂れてしまう。

(竹内くんのバッグで擦った傷かあ。コレ色変わるやろなあ。

目立ってまうけど…まあ眼鏡が無事やったから。まだマシやんな)

そしてふと思ってしまう。

(定常と会うた後でよかった…こんな顔しとったら、よお会われへん)

生徒への対応を失敗した上に、この傷。

落ち込み過ぎて顔を上げられないし、じわと目元が熱く湿って来る。

大学時代からいつも要領の悪い宵が課題の提出期限でドタバタしてると。

定常が自分の頭をガシっと抑えてじっと目を見て落ち着かせてくれた。

あの骨ばった大きな手が頭のてっぺんに在ると、地に足を着けてる気がして。

心強かった。

その感じを思い出してみる。

「…あかんオレ。しっかりせんと」

きゅっと唇を結んで、宵は冷たい水で何度も顔を洗った。




「うわ何ン?そのあほ面」

帰宅した宵はそおっと自分の部屋に入ってしまうつもりだったのに。

寝間着姿の優美と廊下で鉢合わせ。

「た、ただいま」

ヘラっと誤魔化し笑いをしたものの宵自身もちょっとマズイと気付いてた。

原付で通勤しているので、自宅の駐車場に着いてヘルメットを脱いだ時。

ズキーン!と痛みが頭に響いたから。

ヘルメットで抑えられてた痛覚が一気に巡るカンジ。

「教室でコケてもて。机にあちこちぶつけたンや」

「どんくさいなー」

「うん、せやけど眼鏡は壊れてへんし。冷やしとくワ」

優美は顔を近付けてジロジロと宵の顔から腕や背中を探るように見回して。

もう一度内出血で変色し始めた頬の傷に戻って、しかめ面。

「おまけにベタベタしたモンくっつけとるし」

「え?何んか付いとお?」

「あーそっちの指先もなん?

ちょお、そのベタ取ったるから。汚い手ぇであちこち触らんとって」

「別に何ンも付いてへんけど。まあ手洗って来るワ」

「洗うただけで取れるワケ無いやろ」

鬱陶しそうな顔つきで優美は手を大きく広げて、いきなり宵の頬を叩く。

それから宵の両手をパンパンと荒っぽく払うから。

「わっ何んっ?」

突然のコトで、無防備そのままな宵は面食らってしまう。

「ほら風呂入って着替えてき。背中の打ち身に湿布貼ったるワ」

「うん。色々ありがとおな」

「さっさとし。私もお寝たいんや」

「うん」

さっきの誤魔化し笑いとは違って、今度はにっこりと宵は微笑む。

恋人の定常の手とは違うけれど。

母親の手も、宵に特別な力強さを分けてくれる気がする。




部屋へ向かう宵の背中を見送った後。

優美の表情は一変する。

古い家なので廊下は元々薄暗い。

でも突然ぽかりと優美の足元が真っ黒な闇になる。

その暗さはあまりにも深くて遠くて、まるで星の無い宇宙空間。

そして優美の瞳も同じ闇色になり。

顔から首元までジワジワ蝕むように闇は広がって行く。

白髪と寝間着に縁取られてることで、辛うじて優美の存在が成り立つだけ。

寝間着の袖がついっと伸ばされ、その先に握りしめられた拳がぼんやり浮かぶ。

そしてそこからベタついたモノがぼとぼと足元の闇の中に落とされて行く。

その手の握力は、その勢いのまま周りの闇を取り込み握り潰しそう。

でも、その力のせいで空間までぐらついたトコロで優美が拳を開くと。

ゆっくりと全てが元に戻って行く。

闇に、照明のほの明るさと廊下や柱の輪郭が現れ。

白髪が縁取る小さな面積は、肌の色と目鼻と口がある優美の顔になり。

寝間着の袖口からは細い手とその先に指が10本。

優美はちょっとその指を眺め、思い出したように指先を動かすと。

爪が現れ、年齢相応の皺まで浮かび上がった。

そしてその手で自分の顔を確認しながら小さく独り言。

「コレで全部戻ったンかなー。

まあ足りんモンあったら、明日の朝化粧する時でええか。

そんでええと何んやったけ。そおやあの子の湿布用意せんと」

あーめんどくさ、そんな文句を溢しながら優美は薬箱がある部屋へ向かった。





(次の塾バイトは週明けやんな。

それまでに竹内くんが落とし物取りに来てくれとるとエエんやけどなあ)

そんなコトを思いながら、宵は台所で常備菜作りをしている。

幸い頬の傷はそんなに腫れずに済んで絆創膏だけ。

でもやっぱり顔を合わせにくい。

台所の床には新聞紙や広告チラシに包まれた野菜がいっぱい。

この辺りは元々畑が広がっていて、今では庭付き一戸建住宅地に変っている。

そんな家庭菜園持ちのご近所さんから、採れたて野菜のお裾分けをよく頂く。

「なあ、また菜っ葉貰うたでー」

紙包みをかかえた優美が台所へ入って来た。

「母さんは葉物なんでも「菜っ葉」やな。わ、大きい小松菜やあ。

キレイな緑で美味しそうやで、お揚げさんと炊こかな」

受け取った紙包みを広げて宵はニコニコ、から目が大きく見開かれる。

「これ…」

「毛虫でも居った?」

小松菜を包んでいた紙はたぶん駅前とかで配られていた物で。

里山近くの休耕地を宗教団体が購入することに反対する内容。

荒廃農地対策のヒトツとして珍しくは無い話題だけれど。

印刷されている宗教団体のシンボルマークは、宵にあの出来事を思い出させた。

「そおや…竹内くんのペンケースに在ったやつ…」

ファスナーを閉めようとした時に引っ掛かったプラケース。

あの中に収められていた小さなブローチは正にこれ。

と言うことは。

竹内くんが言っていたカミサマはもしかして…。

宵の頭の中はそんな推測でぐるぐるしてしまう。

「急に何んよ?そのカミさんに改宗すんの?」

「するワケ無いやろお」

「あら珍し。そんなムキになるコトかいな」

あはははと優美が声を出して笑うけど、それこそ珍しい。

表情や声が大きく変わることなんてあまり無いのに。

そして目を細めていつものイヤミたっぷりな声で言う。

「どおせ何ンかを信じるんてなあ「ヒトが言う」て書くやろ。

言いようが違うだけやんか。

どれも大して変わらんし、どれも同じでも無いんや。

どっかに飾られたカミさんを皆で拝んでもなあ、願うコトは皆別々やし。

返って来るコトもそれぞれ違う自己満足やろ。

ヒトが信じるもんなんて、好き勝手でエエやん。

あんたが、どんな神さんや仏さんを拝んどっても。私は気にせえへんで」

「母さん、まあたそんな意地悪なコト言うて…」

本堂の隣でそんなコトを言われると。

さすがに宵も渋い顔になってしまう。


でもまあ優美の辛辣さはいつものコト。

勿論こんな態度を見せるのは宵にだけで、外面は全然ベツモノ。

夫が不在でも寺を護り続ける健気な妻として振舞っている。

だから若輩者な宵よりも、檀家さんやご近所さんから信頼されてるけど。

本当の姿は誰が知ってるのやら。


「全然意地悪ちゃうで。

ヒトが信じとおコトに、優劣は無いし善悪も無いてコトや。

どおやめっちゃ寛容やろ。

どんな評価も真偽も、そのヒトの胸の内で決めればエエんやし。

誰かに押し付けることちゃうし、押し付けられることでも無い。

どおぞみなさまお好きにて言うとるだけや。

それに。

そお言うたら、惚れたハレたも似たよおなことちゃうん?

私から見たら堅物で面白味も無い男でも、あんたはアレが良えんやろ。

スキスキて唱えとったら、あんたン中でそーゆー価値に成ったんやんな」

「ちょおっもおっかあさんっ!」

途中からすり替わった話題に、宵は真っ赤になって汗が浮かぶ。

「あははは」

さっきの嘲笑う声ではなくて、今度はほんとに楽しそうに笑いながら。

優美は台所から出て行こうとして、思い出し顔で振り返った。

「そおや。

そのIK教に改宗する件でな、本通りの佐藤さんが相談あるンやて。

明日か明後日ココ来るらしーんで、よろしくな」

「えっ!改宗?

本通りの佐藤さんとこて、代々のお墓もウチにあるんやで?」

「ご先祖さんまでは知らんよお。

養子縁組したヒトがな、IK教の信者らしーてな。

IK教祖サマの恩恵を墓ン中にも分けたいんやって」

優美は世間話の軽さで喋っているけれど。

そんなレベルの話じゃないから、宵の額にはさっきと違う汗が浮かぶ。


そして小松菜を茹でる為にお湯を沸かしていたコンロを止めて。

IK教の記事が書いてあるクシャクシャの紙を丁寧に広げて目を通す。

怯えていた竹内くんの姿を思い出しながら。

それから優美をじっと見つめた。

「それめっちゃオオゴトな気ぃするねん。

母さんが知っとおこと教えてくれへん?」

「あんたが自分から関わって行くん?珍しーなー」

面倒臭そうに優美は応えて、少し思案顔。

「…まあエエわ。広川さんの奥さんに声掛けてみたるワ。

あの白いプリンみたいなやつ、すぐ作って。奥さんアレ好きやし」

「何んで広川さん?」

「佐藤さんがやっとる貸駐車場、広川さん家の裏やからな。

まあオモロイ話聞かせて貰えるで。きっと」

ふふふと微笑む優美から冷たい空気がすうっと流れて。宵の頬を撫でた。




その日の昼過ぎ、誘いに行った優美が広川さんと一緒に戻って来た。

広川さんの奥様は膝痛持ちなので、自宅のソファに座って貰って。

緑茶と黒蜜をかけた豆乳プリンでおもてなし。

優美が笑顔でお相手して、宵は居間の隅っこにちょこんと座る。

「あらまあ嬉し、私これ好きなんよー。遠慮無くいただくわあ」

「広川さんとこはお孫さん達がよお遊びに来られとおから。

お茶請けかてオシャレで流行りなお菓子召し上がってんやろお。

ごめんなあ、こんな手作りおやつで」

「いいやあ、私らはこーゆーのがホっとすんねん。

イマドキの子ぉの食べ物て大変やで。煎餅とか羊羹とか食べへんねん。

オトリヨセや言うて遠くの菓子屋から、わざわざ送って貰うんやで。

自分ン家の冷蔵庫はいっぱいやからてクール便の宛先をこっちにしてなあ。

そんで私らあは、孫が来る時間に合わせて解凍せなアカンねん。

ほんまもお喫茶店の店員みたいや」

文句を言ってるようだけど、広川さんの口調も表情も楽しそう。

ご夫婦とも70歳前後でまだまだお元気だし。

奥さんは明るくて人付き合い良くてお喋り大好き。

旦那さんは去年まで自動車通勤して仕事を続けてたほど。

その仕事も引退してからは、ほとんど毎日ご夫婦で散歩して。

膝痛がある奥さんの休憩がてら後竺寺に寄ってくれる。


「今日は旦那さんお出掛け?車無かったもんなあ」

優美がお茶に口を付けながらさり気なく話題を切り替えると。

「家居るよ相撲観とるねん。今ええとこらしいてTVから離れられんて。

観終わったらココ迎え来てくれるんや。

言うてへんかったっけ?会社勤め終わった時に車は処分してん。

そおや車言うたらなあ。めっちゃカンジ悪かってんで!佐藤さんとこ!」

優美が垂らしたエサに、広川さんは喰い付いてくれた。


「わたしら年齢も年齢やし。

息子も嫁さん達もいつでも車出してくれるしで、ウチの車処分したんや。

そしたらなあ突然やで。

佐藤さんの親族や言うオバサンが家来たんや。

しかもスーツ姿のオッサン2人も連れて。胡散臭いんやなんのって。

どこで聞きつけたンか知らんけど。

車処分したんなら駐車場は要らんやろから、そこん土地売ってくれ言うんや」

「え?」

広川ご夫婦はよく寺に来てくれるから宵もそのお人柄は知ってるけれど。

ご自宅へ出向いたことは無いので話の流れが見えてこない。

会話の外から黙って聞くだけのつもりが、つい声が漏れてしまう。

でもソコは地元繋がりが長い優美がフォローする。

「あぁなあるほどぉ。

佐藤さんの貸駐車場て、表道路からいったん横道入らんとアカンもんな。

もし広川さんの駐車場譲って貰おて繋げたら、表道路から直接出入り出来るワ。

今は出入りが直角でぶつけそーやから、駐車スペースも広めやけど。

表道路から余裕持って出入りしたら契約車数も増やせそおやしなあ。

佐藤さんにはエエコト尽くめや」

世間話のノリで優美が応えたのに。

広川さんの顔にはホンキの嫌悪が混じって来る。

「それだけや無いんやで。

息子の海外赴任も知っとって、寂しいやろとか言い出して。

この先娘夫婦ンとこで同居考えるンなら、この家ごと買い取るとか。

息子の赴任話て、その前ン日に本人から電話貰ったトコやで。

まだ誰にも言うてへんのに。

お父さんと玄関先で立ったまま話聞いとってんけど。

もおな失礼とか礼儀知らずとか言うより怖あなってもて。

何んか2人とも動けへんで。

そしたらそん時や。優美ちゃんからの電話が鳴ってなあ」

「ああ法事の話?」

「そおや、その音でお父さんも頭ハッキリしてな。

3人に帰れ!て怒鳴ったったんや。

今度この家や家族に近寄ったら、地上げ屋の脅迫やて警察呼ぶで!て。

めっちゃ嫌な思いしたんでなあ。

お父さんと2人で、糠漬けに使うはずの塩全部その辺に撒いたったワ」


話のクライマックスを過ぎて。

とりあえず宵の肩のチカラもふうと抜けて。

ちらりと優美を見ると、飲み干して空になった湯呑を宵に向けて来た。

「なあ紅茶淹れてや。

カステラもあったやろ、持って来て。広川さんも紅茶でええ?」

「頂くわあ。話過ぎて喉乾いてもた」

「あ、はい」

宵が席を立とうとすると、優美の声が追加される。

「そろそろ広川さんの旦那さんも来られるやろし。カステラは3人分な」

「いやいやそんな、迎え来るだけやし」

イヤな思いを吐き出したからか、広川さんはいつもの明るい感じに戻ってる。

でも優美は、宵にも広川さんにも見えない角度でニヤリと笑う。

「なあ広川さん。

実は私らんトコにも、佐藤さんの養子って初めての話があってな。

そん人が今度ココに墓のことで相談来る言うとるんやけど。

何んやと思うぅ?」

「ええっ」

「旦那さん、最近まで銀行でお仕事続けとったんやから。

何んかお耳に入ってへんやろか?

今の奥さんのお話聞いとったら、どおも真っ当な関係とは思えんで。

いややわあ、めっちゃ不安やわあ」

わざとらしく優美は目線を下30度にして前髪で表情に影を作ると。

それは一度怖い思いをした広川さんから同情頂くには効果十分で。

「優美ちゃん…。

そんなコトなっとったんや、そらあ不安や判るわあ。

これからの話はなナイショやで。私から聞いたて言わんといてな」


そんな空気になってしまうと。

いっそ宵は席を外してしまいたくなるけれど。

じっと優美が宵をキツイ視線で貫いて無言で語ってくる。

「自分から関わるて言うたやんなあ?」

宵はきゅっと唇を結ぶと静かに立ち上がって広川さんへ笑顔を向ける。

「和紅茶いうてやさしい味わいの茶葉なんです。

お薦めなんで、是非旦那様も一緒に味わってください。

すぐご用意しますンで」

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