21 時間を取り戻せ
何から話したらいいんだろう。
昂ぶった感情がひとまず収まって最初に考えたのはそれだった。
知りたいことはたくさんある。どんな生活を送っていたのか。いつ東京から戻ってきたのか。八重子とは一緒に暮らしていないのか。
十五年の空白はあまりに大きすぎて、どこから手を付けてよいか見当もつかない。
「ちぃちゃん、訊いてもいい? あのさ、」
「待って。わかってる、でも今日はだめ。帰ってゆっくり休んで」
「むりだよ。眠れないよ」
「ずっと寝てないでしょ。今夜は寝なくちゃだめ。話は明日にしよう? 私が仕事終わってから」
そっと包み込むような優しい声には抗えなかった。いいさ、一日くらい喜んで待ってやる。
千尋は路上に転がっていた傘を拾って手渡すと、自分も中に入って一希の濡れた髪や顔をハンカチで拭き始めた。もう何も言わずに、されるがままじっとその美しい顔を間近で見つめる。ふと目が合って微笑む彼女は天使と呼んでもいいほど、それはもう愛らしかった。
――この天使を俺はさっき……うっわ、やべえ!
千尋に男の欲望をぶつけようとした、その事実を思い出したのである。
あろうことか、ちぃちゃんに! この俺が!
心の中でおろおろする一希をよそに、天使は早くも次の行動に移った。
「にぃに、車はどこに停めたの?」
「え? 車?」
「代行呼ぶから」
駅南の市営駐車場と答えると、てきぱきと運転代行サービスを手配し、じゃあ行こうか、と移動を促す。偶然にも同じ駐車場に車を停めたのだそうだ。
……謝らなくていいのかな。むしろ触れないでおくべきなのかな。
一希は罪悪感を覚えながらも踏み込めないまま、千尋と傘を並べて歩き出した。
一日中降り続いた雨はいまだ止む気配がなく、明日も引き続き降水確率は高かった。せめて夕方には止んでくれるといいのに。
昔だったらこんな時は――と、不意に思い出した懐かしい出来事を口にしてみる。
「憶えてる? てるてる坊主に似顔絵を描いてあげた時のこと」
「うん、憶えてる。にぃには自分のは目がパッチリの可愛いやつ描いたのに、私のはへのへのもへじにしたの。それで私がむくれてもう一個作らせたんだよね」
「違うよ。三個だよ」
「えっ、そうだったっけ?」
「『なんか可愛くない』って三回もやり直しさせたんだよ。それ以来二度とへのへのもへじのてるてる坊主は作らなくなった」
千尋はくすくす笑いながら言い返した。
「にぃにが私をからかうからいけないんですー。食べ物屋さんごっこの時なんかいつもそうだった」
「ああ、俺がお客さんで、ちぃちゃんがコックさんのやつ?」
「うん。にぃにったら『ヘビフライ定食』とか『ピーマンのカスタードクリーム詰め』とか、変なものばっかり注文するんだもん」
「そりゃ失礼しました」
一つを思い出すと関連で次々と記憶が引き出される。うさぎを作ったつもりがなぜかねずみになってしまった雪だるま。何の種かを知らずにわくわくしながら育てた花。
そして、畳の上でゴロゴロ転がったあの夏の日の午後。
「私、オープンルームでうっかり言っちゃったね」
「あれ聞いてちぃちゃんだって確信したんだよ」
こんなふうに二人で思い出を語り合える日が来るなんて。
でも足りない。こんなんじゃ全然足りない。家族として過ごした時間も離れていた十五年間も、すべてを取り戻したい。
いつの間にか契約キャンセルの一件は頭から消え去っていた。ちぃちゃんと再び巡り逢えた奇跡と比べたら、むだに終わった仕事や久浦不動産の汚い取引など、些末の問題でしかなかった。
こうして代行の車が着くまでのあいだ、二人はすっかり過去に戻って互いの記憶を確かめ合う。現在のことに話が及んだのはたった一つ、千尋が謙三について遠慮がちに尋ねた時だった。
「お父さんは……どうしてる?」
「元気だよ。三月に定年退職して今は嘱託職員として働いてる。のんびりしたもんだよ。会いたい?」
「……会ってくれるかな、私と」
「当たり前だろ。なに言ってんの」
そこは疑問に思うところじゃないだろう。何を心配しているのか知らないが、会わせないという選択肢は一希にはなかった。
***
女の子が喜びそうな場所をとネット検索し、口コミまでチェックしたのはいつ以来だろう。
そうして見つけた店はランチ、カフェ、ディナーのいずれにも対応する、カジュアルなフレンチダイニング。個室があるのが決定打となった。
千尋もそこを気に入ってくれたようだ。ノンアルコールの飲み物で乾杯するとさっそく礼を言われた。
「個室にしてくれてありがとう。やっぱり周りが気になっちゃうから助かった」
「これで落ち着いて話せる?」
「うん。今日は今までのこと全部話すつもりで来たから。何を一番に聞きたい?」
それはやはり、あの八重子ではない母親のことだろうか。中里家の家族というのはいったいどういう人たちなのか。
「あの人はね、実の父親の再婚相手。私にとっては二人目の母親で、だから妹たちとは半分血が繋がってるの」
「えっ……実のお父さん?」
「うん。私、小学校五年の時に父親に引き取られたの」
そこで接客係が入ってきて会話はいったん止まった。差し出されたコース料理の前菜に、美味しそう、と頬を緩める千尋。重大な告白をしたわりには屈託がない。
あの八重子が娘を手放した? どうしてそんなことに。
「食べていい?」
「あ……うん、どうぞ」
逸る気持ちを抑えて一希もナイフとフォークを手に取った。
落ち着け、夜はまだ長い。それに昨日は散々な姿を見せてしまったのだ、今日はちゃんと兄として振る舞いたいじゃないか。
「美味しーい」
「よかった。今日は全部食べるんだよ。月之庄のリベンジしよう」
「うん!」
そうして運ばれてくる料理を堪能しながら、千尋は十五年間の物語を少しずつ語っていった。
あの別れの日からどうやって時を過ごし、何を思って生きてきたのかを――
謙三との離婚後、千尋とともに実家に身を寄せていた八重子は、一ヶ月もすると東京に職を見つけて移り住んだ。某週刊誌の記者である。
まずは生活の基盤を作るのが先と、幼い娘を祖父母の元に残しての上京だった。これが千尋にはひどくこたえた。
祖父母はとても厳しい人たちで、窮屈なルールを強いるだけでなく、孫の前でも母の悪口を言って憚らない。
「二度も出戻ってくるなんてご近所さんにも恥ずかしい。子供を置いて東京でいったい何をやっているんだか」
こうした環境が小さな子供に悪影響を与えないはずがない。半年後に八重子が迎えに来た時には、母親を見る目が以前とは変わってしまっていた。
お母さんは普通と違う。お母さんは恥ずかしい人。だからお父さんも嫌いになったんだ。だから私のことも要らなくなったんだ。
一希や謙三と別れた日のことは癒えない傷として千尋の心にずっと残っていた。大好きだった父や兄との生活を壊したのが、他の誰でもない、母親なのだと薄々気づき始めたのもこの頃だった。
「やっとちぃちゃんと一緒に暮らせる。これから二人で頑張ろうね」
嬉しそうに八重子は言ったが、「頑張る」というのが「孤独に耐える」ことだと理解するのにそう時間はかからなかった。
深夜の帰宅は当たり前。昼間に帰ってきたと思ったらシャワーを浴びてまた出て行く。不規則な勤務時間の母親といったいどれだけすれ違っただろう。
父や兄が恋しかった。あの家で暮らした日々が恋しかった。何度も何度も夢に見ては涙を流した。
約束を交わしては反故にされる、その繰り返しにいつしか期待するのをやめるようになって、どれくらいたっていただろうか。あるとき不意に八重子が言った。
「ちぃちゃん、お母さんね、もしかしたら本を出せるかもしれないの」
「本? 何の本?」
「以前に取材した事件をまとめた本。……たぶんまだちぃちゃんには理解できないと思う。でもいつか読んでほしいな。この世界にはひどいことや悲しいことがたくさんあって、だけど、それに立ち向かうこんなすごい人がいるんだっていうお話なの」
そしてそれを世の中の人に伝えるのがお母さんのお仕事なの。
そう告げた母の表情には一点の曇りもなかった。自分の仕事に対する思いを理解してほしかったに違いないが、残念ながら千尋の心にはさほど響かなかった。
それを読んで幸せになる人はもしかしたらいるかもしれない。でもお母さんがその仕事を選んだせいで確実に不幸になった人が三人いる。
お父さんと、にぃにと、私と。
どうして私が喜べると思うの? どうして私が応援すると思うの? お母さんはやっぱり普通と違う。恥ずかしい人だ。
東京で暮らして三年目。母と子の心はすれ違うどころか、遠ざかる一方だった。
そして千尋の生活を再び一変させる出来事が起こる。
学校の鉄棒で頭から落ちて一時意識不明になったのだ。八重子とは電話が繋がらず、緊急連絡先に名前のあった祖父のもとへ事故の知らせはもたらされた。
いきなり東京から連絡を受けてどうしていいかわからなかったのだろう、祖父母は千尋の父親に対処を求めた。容態はいつの間にか瀕死の重体ということになっていた。
父親はすぐさま新幹線に飛び乗って東京までやってきた。その頃には意識も回復し、瀕死というのも誤解とわかって、実に九年ぶりの親子交流が始まったのだったが。
娘の置かれている状況について知るや、父親は憤然として八重子に速やかな改善を要求する。それができないのなら自分が千尋を引き取る、と。
メイン料理が終わって千尋の話も佳境に入っていた。
「その頃お母さん、とある新興宗教団体の取材をしていたの。それと関係があったのかわからないけど、知らない男の人が後をつけてきたり、お母さんにあげてって白紙の手紙渡されたり」
父親が問題視した当時の状況は不穏極まりなかった。一希が心配していたとおり、トラブルは消費者団体とのそれに限らなかったというわけだ。しかも宗教団体なんてもっとタチが悪いではないか。
「それでお父さん、すぐに取材をやめろって?」
「うん。何度もお母さんを説得しようとしてた。電話じゃ埒が明かないからって、わざわざ東京まで来たのも一度や二度じゃなかった。……不思議だね、九年も会ってなかったのに。『本当はずっと会いたかったよ』って言われて、私、泣いちゃった」
それはそうだろう。孤独と危険を感じていたならなおさら父親の情愛が身に染みたはずだ。
「でもお母さん、警察には相談してるって言って、取材をやめようとはしなかった。私のことも最初は突っぱねてたけど、結局はお父さんに親権を渡したんだから、私より仕事のほうが大事だったってことだよね」
「そういう言い方はどうかな……」
それとなくたしなめはしたが内心否定はできなかった。一希でさえこれほど引きずってきたのだ、千尋が捨てられたと感じて長年不信感を募らせてきたとしても致し方ないだろう。
――母さん。あんた、何てことしたんだよ。
もし八重子が目の前にいたら問い質したい。謙三と離婚して、千尋を手放して、これが本当にやりたかったことなのか?
やがてデザートとコーヒーが運ばれてきて、中里家の人々についての話が始まる。
母親がとてもいい人であること。妹たちと分け隔てなく可愛がってくれること。祖父母もまた優しい人たちであること。
中里というのは母親の苗字で、一人娘であるため千尋の父親は婿養子に入ったのだそうだ。祖父は電気設備工事を行う小さな会社を経営しているのだが、会社は継がなくていいが中里の家は継ぐことというのが結婚の条件だったらしい。
「お父さん長男なのに、『弟がいるから大丈夫です!』って即答したんだって。それぐらい好きだったんだね。でもベストパートナーを見つけたと思う。よかったよ、私のお母さんとはさっさと離婚して。心からそう思うの」
「そっか。よかった、ちぃちゃんを引き取ったのがいい人たちで」
千尋はコーヒーカップに目を落とすと、そこに何か思い出を映し出しているかのように遠い眼差しで微笑んだ。
「妹たちと初めて会った時にね、ぎゅうって抱きつかれたの。まるで自分はどこにも行かないよって言ってるみたいで嬉しかった。それで決めたの。私はこの子たちのいいお姉さんになろうって。……にぃにが」
――にぃにが私にしてくれたみたいに。
幼い三人姉妹の情景が二十年前の自分たちと重なった。
懸命に両腕を伸ばしてアピールしてくる小さな女の子。一瞬で好きになって、それからはずっと大事な存在であり続けた。
ただ純粋に求められる喜びを千尋も知ったのなら、きっと幸せだったのだと確信できる。
あの頃の自分がそうだったように。