この恋の終わり
それからは、時間があく限りあの交差点に行った。私が見ていない時に、保さんが成仏してしまうかも知れない。
それは輝かしい日でもあり、私にとっては永遠に彼が失われる日でもある。
ようやく本日の仕事を終えて、急いで電車に飛び乗った。
よし、今日もなんとか保さんを見守る事が出来そうだ。
普通に仕事を持つ私は、保さんを見守っていられる時間は思いの外少ない。今日も仕事が終わったのは20時過ぎだった。朝から体調が悪くて仕事がなかなか捗らなかったんだから、今日に関してはまあ、自分のせいなんだけど。
今日も願わくば、保さんの姿が一目見られますように。
電車を飛び降りて、急いであの交差点へ向かう。
……今日も、いた。
保さんの透き通るような体は、うだるような熱気のなかで、アスファルトからあがるユラユラとした蜃気楼にまるで溶け込んでしまいそうに、儚げに見えた。
その姿を切なく見つめながら、横断歩道を渡っていく。相変わらず何も映していない彼の瞳。今日も私は遠慮なく彼のすぐ傍を通り抜けた。
ああ、本当にもう随分綺麗になったね。
最初見た時は血まみれで顔も分からなかったのに。
こんなに優しそうな目元をしてたのね。
睫毛も意外と長いかな。
目立ってイケメンじゃないけど、愛嬌のある可愛い顔してる。
もう、どこに汚れがあるのか分からないくらい、綺麗になったね。
ねえ私、あとどれくらいあなたに会える?
少しずつ近付いてくる彼の姿。
ふわっと、彼の姿が揺らめいて見えた。
うそ。
どうして、私を見るの?
ああ、夢かしらこれって。保さんが、駆け寄って来てくれてる。
「大丈夫ですか?」
初めて、声を聞いた。いたわるみたいな、優しい声。
しゃがみこんで心配そうに覗き込んでくる彼を見て、自分が立ち眩みで倒れかけたんだと気がついた。そうか……貧血か。
「大丈夫……ただの、貧血」
「顔色が悪い。あっちまで、渡れますか?」
彼が、差し伸べてくれる手に、震える手をそっとのせた。……信じられない。貴方と話して、貴方に触れることが出来るなんて。
前に触ろうとした時はすり抜けたのに、どうして今は触れるのかしら。これって、貴方が助けたいと思った時だけの特典なの?
理由なんてどうでもいいか。
だって私今、確かに保さんに触れてる。
少しだけ手に力を入れたら、保さんがいたわるみたいにまた微笑んでくれた。
優しい、優しい笑顔。
込み上げてくる涙をグッと堪えて、私も微笑んだ。
なんでもいい、何か会話をしたいのに、熱いものが込み上げてきて、口を開いたら泣いちゃいそう。私はただ、私を心配そうに見つめる彼の目に、なんとか微笑むことしかできなかった。
彼の手に縋りながら、ゆっくりと横断歩道を渡っていく。
永遠に続いて欲しいと願うけれど、その時間はあまりにも短くて。
横断歩道の端が近づいてくるのが恨めしかった。
「無理しないで、そこに雰囲気のいい喫茶店があるんです。時間があるなら少しそこで休んだ方がいいかも」
知ってるわ、私そのカフェからいつもあなたを見てたの。あなたもあのカフェ、知ってたのね。保さんと共通の何かを思い浮かべる事が出来るなんて、本当に夢みたい。
彼から、本当に普通のいたわりの言葉があるのが、嬉しかった。私を心配そうに窺う瞳はとても澄んでいるように見える。貴方はいつも、こんな風に人を助けてきたんだね。
私、ずっと貴方に言いたかった事があるの。
何十年も、誰にも見えない所で誰にも感謝されず、ただ人を助け続けて来たあなたに。
やっと言える。これまでの思いが、胸から溢れた。
「ありがとう、貴方がいてくれて……本当に良かった」
彼は、息をのんで……本当に綺麗に笑った。
私がこれまでの何十年の間で見た中で、最高の笑顔だった。
「ありがとう」
何故か彼の口からも、そんな言葉がこぼれた。
どうして貴方がそれを言うんだろう。でも、それが何とも保さんらしくて私は思わず笑ってしまった。なのに、目からは涙が溢れて困ってしまう。だって貴方とこんなに普通に話せる日がくるなんて、思ったこともなかったから。
目の前で、彼の体を柔らかい光が包んで、彼の輪郭が光に溶けていく。
ああ、ついに保さんの心残りの全てが、解消されてしまったのだ。
彼の魂が、天に召されていく。
その顔はとても満たされていて、幸福感に満ちていた。
目が離せなくて、滝のように涙が溢れるまま、彼が光に溶けて行くのを見送った。
好きだったの。
貴方が本当に好きだったの。
私の心の中はあまりにも色々な感情が荒れ狂っていて、そこから先の記憶はない。気がついたら家にいて、周りにはありえないくらいのビールの缶が転がっていた。
それが、私の長い長い片想いの結末だった。
今でも、この交差点を通る度、私は無意識に彼の姿を探してしまう。
もう、彼はいないと分かっているのに……それでも、路上で揺らめく蜃気楼の中に、彼の面影を探す。
いつか、私のこの思いも、薄れていくのだろうか。
彼が、光に溶けたように、この思いも……いつかは。