ああ、愛しのブラッスリーポール・ボキューズ
本当の金持ちとは、ジャージで朝の銀座や麻布を犬の散歩で闊歩している人間である。犬はいい。小型のマルチーズやチワワも可愛らしいがやはり目を引くのは大型プードル。シベリアンハスキーや土佐犬なども良い。あれは『オレは一等地に住みながら、これだけの生き物を飼える余力があるんだぞ』という無言の圧とステータスを醸し出している。ちなみにワタシは柴犬が一番好きだ。
さて、七月三十日の今日、ワタシは東京駅に降り立っていた。いつも美食ライターの取材は一人で行うが、今日は担当編集が同行する。女性だ。ガールフレンドというような浮かれた関係でも年齢でもないが、同い年の彼女とはプライべートでも食事に行くくらいは気心が知れている。
「サエキさん」
少しハスキーな声に振り返るとベージュのワンピースに身を包んだタナカ女史がそこにいた。ちなみにワタシは白シャツにチノパンという格好だ。デートではない。決して。今日の店はやや気を遣う店ということだ。
東京駅を歩き大丸百貨店に入りエレベーターに乗る。そう、今日の行先は百貨店の上にあるのだ。
――ブラッスリーポール・ボキューズ大丸東京――
高級ホテルやレストランを経営するひらまつグループの比較的カジュアルなフレンチレストラン。ドレスコードは建前上ないが家着で行けば浮くこと必須。男の一人飯でも同様だ。その為タナカ女史に同行を頼んだ次第である。四十代のオジサンは意外と繊細なのだ。
入店すると広めの席に通された。白いテーブルクロスがかけられた席に磨かれた銀色のカトラリーが輝く。今回はスープ、前菜、メインディッシュ、バゲット、デザートからなるセミコースランチ。ウェイターにワインリストを渡される。タナカ女史と相談の上ロゼの泡をグラスで注文。薄いシャンパングラスにベビーピンクのスパークリングワインが細かな泡を内包しながら注がれてゆく。そっと口をつけると、飲み頃に冷えた液体が滑らかに喉を流れ、木苺の香りが鼻を抜ける。舌先には炭酸の細かな泡が一粒一粒感じ取れるようで、甘くなくかつフルーティーなこのワインにアクセントを与えていた。さすがひらまつ。ワインのセレクト、状態管理にこだわりを感じる。
正直、これをボトルで頼んでしまいたい衝動に駆られたがタナカ女史の『次はメインに合わせて赤白どちらにしましょうか』の声で我に返った。ワタシは仕事できたのである。そして、ひらまつは居酒屋ではない。窓際の席で談笑する上品な老夫婦を見習って紳士でいなければ。
オマール海老のスープが運ばれてきた。真白な器に輝く朱色。散らされたパセリの緑が鮮やかだ。スプーンですくい一口飲むと、海老の香ばしさとクリームの優しさが一度に広がった。
続いて、前菜は温野菜のバーニャカウダ仕立て。人参、アスパラ、ベビールーフなどを使った色とりどりの野菜が蒸され目に鮮やかだ。横に添えられているバーニャカウダソースをつけて口に運ぶ。居酒屋のバーニャカウダは正直臭くて苦手だが、ここのバーニャソースは臭みがまるでない。スパイスの香りはするのに主張しすぎないまろやかさがメインへの期待を駆り立てる。
いよいよメインディッシュの仔牛の赤ワイン煮込み。白い器に赤茶色く光った仔牛の肉が盛り付けられてやってくる。このために赤ワインをセレクトした。まずは赤ワインを一口。思ったほど重すぎもせず、口の中に軽やかな酸味と渋みが広がった。バラだろうか?鼻孔をくすぐる香りの中に華やかさを感じる。
いよいよメインにナイフを入れる。肉質は柔らかく、すっと引くだけでほどけてしまう。
滴るソースが垂れないよう慎重に口に入れると、柔らかな肉の旨味、野性的な肉汁、しっかりと煮込まれたソースが絡み合い口の中でハーモニーを奏でた。メインに合うワインを、ソムリエがなぜ軽めのものを薦めたのか完全に理解する。この脂身とうま味、これに軽めの赤ワインが加わることで、このメインディッシュは完全体となるのだ。肉、ワインと交互に口にしていくうちに、皿もグラスも空になってしまう。
いよいよデザート。クレーム・ブリュレ。念のため誤植ではない。大きくて浅い皿いっぱいに入ったブリュレは、褐色のキャラメリゼに覆われている。それを、スプーンで崩しながら少しずつ口に運ぶ。カップに注がれたコーヒーとクリームが口の中で蕩け、いよいよ食事も終わりだと哀愁の余韻を奏でる。
さながら、この味はアヴェマリア。余談だがひらまつのコーヒーカップには持ち手に穴がない。作法に則り摘まんで飲んでほしいという意思を感じる。
セミコースという名前ながら、なかなかの満足感で店をあとにした。この味をどう表現しようか思案していたら、タナカ女史がつぶやく。
「サエキさん、美味しかったですね。特に肉とプリン」
満足する食事とは、ときに人間に語彙力を失わせるものなのかもしれない。
―了―




