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小人の辞  作者: EndoArisa


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阿呆の言葉 裏面


「最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかしその又習慣を少しも破らないように暮らすことである。」阿呆の言葉より

 これを頭から信じるのであれば、最も愚かな生活は一時代の習慣を尊敬しながら、しかしその又習慣を全て破って暮らすこと、であろう。


 例えば、こんな話がある――

 ある男は昔から周囲と足並みのそろわない人間だった。そのままだと周囲の人々から取り残されてしまうので、常に普通の人間というものを意識して、そこに合わせていく必要があった。そうやって生きていく中で、彼は世間、文化や社会というものに敬意を持つようになった。自分のような人間も受け入れてくれることへの感謝からくるものなのか、それとも自尊心をたもつための防衛本能からくるものなのか、そこは分からない。

 小学校の頃はまだマシだった。彼が自身の歪みを感じ始めたのは、中学三年の時だった。周りと同じくらい勉強していたにもかかわらず、彼の成績は下の方だった。三者面談の際に担任から志望校(それも偏差値が高いわけではない)は難しいだろう、と言われたほどだった。それが、自分が周囲と比べて遅れていることに気づいた最初の瞬間だった。

 必死で勉強して高校受験はどうにかパスしたが、彼の歪みは形を変えて現れた。彼は同級生たちとの付き合い方が分からなかった。周囲に同じ中学の知り合いはおらず、彼は一から人間関係をつくらねばならなかったのだが、どうすればいいか分からなかったのだ。部活にでも入れば違ったかもしれないが、彼は勉強を理由にそれをしなかった。三年間、彼はしばしば孤独を感じながら自分の歪みを取り繕うことに、平凡から取り残されないことに必死だった。彼にとって青春とは劣等感との闘争、それも終始劣勢の戦いだった。

 彼はクラスメイトたちに敬意を覚えずにはいられなかった。自分がこれほど苦痛に感じている生活を、彼らはとても楽しそうに充実した様子でやってのけているのだから。それに自分は勉強だけで精一杯だが、彼らは勉強も部活も友情も恋愛も平然とやってのけていた。そのうえ、クラスメイトたちは彼にも平等に優しく接してくれた。彼らを尊敬すればするほど、彼は自分の歪みを意識するのだった。

 彼は母親にも敬意を払わずにはいられなかった。母は彼のために毎朝早起きして朝食や弁当の準備をしてくれた。母も仕事で疲れているはずなのに、それを三年間ほぼ毎日やってくれたのだ。彼は次第に罪悪感を覚えるようになっていた。自分なんかのために彼女に身を削ってほしくなかった。彼は自分が人生に敗北することを、この時から薄々勘づいていた。

 自分の歪みと宿命的な敗北を予感しながら彼はどうにか親を安心させてやろうと思って、結果一浪することになったが、どうにか最難関の国立大学に進学することができた。両親も喜んでくれて、これで一安心と思ったのも束の間、彼の足取りは乱れるようになった。というより、完全に止まってしまった。

 マラソンをするとして、たとえ足の遅い人でも全力を出せば足の速い人を追い越すことができるだろう。だが、それにも限界はある。体力が底をついて足が止まり、そして次々追い抜かされていく。この時の彼がまさにそれだった。

 大学に入って、彼は完全に燃え尽きてしまった。自分の専攻やその他の大学生らしい活動に一切興味が持てなかった。彼はようやく自身の歪みの正体が無関心であることに気づいた。彼は自分にさえ関心がなかった。自分の好きなものや嫌いなもの、夢中になれるものや将来の夢、そういったものを全く知らないことに気づいた。

 抗おうとは試みた。彼は講義室の机の上に毎日置かれるビラを手に取って、いろんなサークルをのぞいてみたり、いろんな職種の説明会に参加したりした。しかし、駄目だった。無理やり関心を抱いたところで、長続きしなかった。

 どうやってもクラスメイトと関わり合うという点で、高校生活は苦痛だったが、それと正反対の点、進んで関わろうとしなければすぐに孤独になってしまうという点で、大学も苦痛だった。彼は講義室や構内で自分が幽霊になったような気がしていた。

 二十歳を過ぎて、彼は酒を飲むようになった。……これ以降は、語るまでもなく察せられるだろう。彼は遅くまで酒を飲んで大学を休むようになった。休んだところで咎める人も心配する人もいなかったので、当然の末路だろう。仕送りもほとんど酒に消えた。郵便受けには未払いの光熱費やその他カラフルな封筒であふれるようになった。彼は下宿にこもって昼間から酒を飲んでいた。完全なるドロップアウトだった。

 それでも彼は世間を尊敬していた。これほど落ちぶれた人間がいる一方で、大道を進んでいく人々、当たり前のようにそれができる人々を尊敬していた。そのような人たちで形成されている社会を尊敬していた。

 大学を辞めて仕送りもなくなったので、彼は働かなければならなくなった。いろんな求人に応募しては落選されたので、彼はここでも自分の歪みを感じずにはいられなかった。結局、ある警備会社に雇われることになった。正社員ではなくフリーターという形だったが、彼にとってはかえって気が楽だった。年上の人ばかりだったし、中には彼よりもみじめな境遇の人もいたので、彼は少し救われた気持ちになった。そして、自分を含めたそのような人々の居場所を作ってくれている社会に感謝した。

 高校と大学になじめなかったのが嘘のように、その職場と同僚には打ち解けることができた。慣れない外仕事だったので苦労もあったが、彼は充実した気持ちだった。自分の人生がようやく始まった気がした。ただ、負い目のようなものは感じていた。自分と同い年くらいの若者がパリッとしたスーツを着て目の前を通ると、彼は胸が苦しくなると同時に、彼らと彼らの属する世界に敬意を抱いたのだった。

 彼は両親との連絡を絶っていた。親不孝だと分かってはいたが、合わせる顔がないと思っていたのだ。恋人もいなかった。金がないからというのは建前で、単に女性との接し方が分からなかったのだ。うっかり税金を払えなくなることもあった。だが、彼は決して社会規範や慣習を破ろうとしていたわけではなかったし、そういったものに従っている人々を見下していたわけでもなかった。

 そのような彼にも最後の瞬間が訪れた。彼は病室のベッドに仰臥していた。夜中、酔っぱらって道端に寝ころんでいたところ、車に足をひきつぶされたのだ。見つかった時には出血がひどく、助かる見込みはなかった。病院側は両親に連絡を取ろうとしたが、間に合いそうになかった。

 彼の意識はまだあった。酔いが残っているのか、痛みはほとんどなかった。うつらうつらとしながら、どうやら治療費は踏み倒せそうだな、とか気楽なことを考えていた。彼は医者や看護師がバタバタとするのを遠くに聞きながら、自分のためにここまで忙しく働いてくれる人たちを尊敬せずにはいられなかった。自分のような人間の命も他と同じように扱ってくれる人々、命を重んじる習慣や文化、そういった道徳感情を育んでくれた社会を。

――そんなお話。


芥川「侏儒の言葉」の一つである「阿呆の言葉」をもとに。

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