37話 認識との乖離
オープンキャンパスにやってきた俺はそこで速水先輩と再会した。
転校前に引っ越すことを伝えたあの日から……もう結構経つ。
「好きなの選んでいいよ」
「いや……でも……」
俺は速水先輩につれられて大学内にある食堂へやってきた。
「ほら、遠慮しないの」
「あ、はい。ありがとうございます」
ちょうどお昼時で、学食を奢ってくれるという先輩の言葉に甘えてしまった。
「学食って安いんですね」
「うん、そうだよ。外食すると高いけど、学食は500円もあれば色々なメニューを楽しめるからね」
食券機のメニューをざっと見た感じでも、500円より安いものがほとんどだった。
量もそこそこあるらしいので、苦学生にはありがたい。
俺たちはそれぞれ注文した料理を受け取ってから、空いているテーブル席に腰を下ろした。
「いただきます」
手を合わせてそう言った先輩の言葉を俺も復唱してから、食事を口に運ぶ。
「……おいしい」
「ふふっ、そうでしょ?」
先輩と一緒に注文したカレーライスは家庭的な味がした。
「ええ……とっても」
冷房が利いている広々とした学食。
こうやって食事をするだけでも疑似的に大学生になったような気がして、なんだか嬉しい。
「大和くん、ごめんね。突然誘っちゃって」
「いえ、大学のパンフレットは持ってますけど、右も左もわからなかったので助かりました」
去年、前にいた学校の文化祭が終わった直後、両親の離婚と引っ越し、そして転校が決まったことを俺はバイトを辞めたタイミングで先輩に伝えた。
文化祭から帰宅して精神的ショックと高熱で辛い時も、転校直前も、先輩は俺の話を聞いてくれて、慰めてくれて……。
「速水先輩……その、ありがとうございました。俺、色々助けてもらったのに、お礼を言えてなかったから」
「ううん、私はなにもしていないよ」
久しぶりに先輩を見たからだろうか?
バイト先で目にしていた先輩はお淑やかで庶民的で……そんなイメージだったけど。
今の先輩は大人の女性といった印象を受ける。
まあ、俺と年齢が2つ違うわけだし……大人びて見えるのは当然か。
「大和くん、何考えてるの? ぼーっとして」
「えっ……あの、先輩が……バイトの時とは違って見えてしまって……」
「へー、それって、今の私のほうが素敵ってことかな?」
今の……先輩の方が?
……どうだろう?
「そうですね、今も良いと思いますけど……俺は、一緒にバイトをしていた時の素朴な先輩が……素敵だと思います」
清楚さは感じるけど、お洒落な服装で軽く化粧をしている今の先輩はとても美しい大人の女性だ。
でも、バイトの時に見ていた着飾らない先輩の方が……俺は……。
「あの……」
「…………」
「先輩……?」
さっきまで優しい眼差しで俺を見つめていた先輩が、なぜか上の空だった。
「先輩、大丈夫ですか?」
「……うん、平気よ」
「そうですか? どこか遠い目をしていたように見えて……」
「少し暑いから……ぼーっとしていただけよ」
「暑い、ですか?」
今日も猛暑日で、確かに外は唸るほど暑い。
でも、今は冷房の利いた学食で少し肌寒いぐらいなのに……。
「それよりも、私……今日大和くんに会えて本当に良かったわ」
いつも間にか、いつもの先輩の表情に戻っていた。
静かに微笑みながら、いつも冷静で、相手を思いやるような、優しい目だ。
「あ、はい。俺も……先輩がこの大学に通っていることは覚えてましたけど、まさか会えるとは思ってなくて、驚きました」
「大和くんの転校が決まって引っ越しする前、私に連絡くれたでしょ? その時に私が言ったことを覚えてる?」
「はい……あの時も先輩は俺を励ましてくれました」
俺の心の内を聞いてくれた。
俺の弱さを知っても、なお寄り添ってくれた。
先輩は色々な言葉を掛けてくれた。
正直、精神的に不安定だった俺はそのすべてを覚えていない。
でも……俺はこの人が言った最後の言葉で、本当に気持ちが楽になったんだ。
「今の学校はどう? なにか困っていることない?」
「今は楽しいです。自分なりに一生懸命毎日を過ごしています」
新しい学校で友達ができた。
「クラスメイト達とも仲良くなって、一度皆で遊びに行ったりして、勉強会なんかも一緒に────」
毎日勉強ができている。
「最近受験を決心して、集中して勉強ができています。新居も広くはないけど落ち着いけるアパートで気に入っていて────」
毎日が充実している。
「普通に過ごせる毎日が楽しいです」
転校前の悲痛な思いが消え去ったわけではない。
それでも、俺の中で新たな素晴らしい日常がそれを上書きしてくれているんだ。
先輩は、俺にその一歩を踏み出させてくれたんだと、今になって思う。
「そう、よかったね。本当に……よかったね」
咄嗟に先輩は指先で目を擦る。
その声が少し震えていた。
いつも落ち着いている速水先輩のこんな姿は今まで見たことがなかった。
「本当にありがとう、先輩。いつも気遣ってくれて、心配してくれて」
「ううん、大和くんは私がいなくても立ち直っていたと思う。今の状況は大和くん自身が一歩踏み出したからこそ得られた結果なんだよ」
俺自身の結果?
それは違う。
俺に勇気をくれたのは……。
「最初俺は新しい学校で馴染めてなかった。馴染もうとしていなかった。でも……そんな俺に勇気をくれた人がいて……。そいつに……俺は救われたんだと思います」
俺はそいつの……雫の顔を思い浮かべる。
過去のトラウマから孤立していた俺に、雫が勇気をくれた。
「……へー、そうなんだ」
「あ……はい……それで俺は変われたかなって……」
「その人ってどんな人なの?」
なんだ?
先輩の様子が少し変わったような……。
「そいつは……臆病だけど勇気があって、まっすぐで、素敵な─────」
「ねえ、大和くん、聞いてもいいかな?」
俺の言葉を遮った先輩はこちらを眼光鋭く見つめてくる。
微笑んでいる口元と違って、目は笑っていない。
俺はこの類の目を……知っている気がする。
「は、はい……なんですか……?」
先輩の発する声がさっきより、ワントーン低く聞こえる。
「転校した学校で馴染めてなかったってことは、その間孤立してたってことだよね?」
「まあ……そう、ですね。でもクラスメイト達から煙たがられていたわけではないので……」
「そこで大和くんは勇気をくれた素敵な人と出会ったんだね。その人はクラスメイトってことかな?」
「あぁ……はい、そうです」
「じゃあ、その素敵な人とは学外で交流があったんだ」
「えっ……?なんで、そんなことが言い切れるんですか?」
「大和くんの性格上、部活や生徒会なんかには所属していないと思うんだ。ましてや転校直後の大和くんの心境を考えるとなおさらね」
「はい……入ってません」
「そして教室で孤立している大和くんは、その素敵なクラスメイトとも多分会話なんてしていないだろうし。その人とは学校以外の場所で信頼関係を深める時間があったと考えるのが自然だよね」
「たしかに……そうです」
「さっき引っ越した新居はアパートって言ってたよね? 帰宅場所がその素敵な人と同じなら信頼関係を築く機会をありそうだなぁ。それともアルバイトとか地域活動を大和くんが新天地で始めていたなら、そこで出会った可能性もあるのかな? でも当時の大和くんの心境を考えると、そういうことはしていないと思うんだ。他人と自分から関わる余裕なんてないものね。だから学校でも孤立気味だったわけだし。だったらやっぱり自宅が近いってことの方がしっくりくるなぁ」
先輩の憶測で合っている。
べつに知られて困るようなことはない。
「その通りです……。そいつとは、雫とは……同じアパートで……」
でも……。
「…………へー、雫って……女の子の名前だよね?」
さっきから気になっている……先輩の目が、眼差しが……。
「……そうです」
俺の心の中を抉りながら覗き見るような……先輩の視線が……少しだけ、ほんの少しだけ……怖いと感じてしまった。
俺はこの人に感謝している。
この人のことを尊敬している。
だから、そんな先輩に少しでも恐怖心を感じてしまったことが、本当に申し訳なかった。
そしてそう思ってしまった刹那、俺は咄嗟に先輩と合わせていた目を逸らしてしまった。
「ごめんなさい、関係ない話ばかりしちゃったね。さあ、早く昼食を済ませて校内見学をしましょう。私で良かったら案内するから」
いつもの優しい声だ。
いつもの優しい表情だ。
「……はい、ありがとうございます」
本当に恐怖心……だったのか?
この先輩にそんな感情を抱くなんて……本当に申し訳ない。
さっきまで張りつめていた緊張感がなくなっていた。
それどころか、先輩の所作を見ているだけで今は心が温かくなる。
俺たちは中断していた食事を再開して、スプーンですくったカレーライスを口に運んだ。
「もう冷めちゃってるね。カレー」
「そうですね……」
「ここの学食にはレンジがあるから温め直してくるね。貸して」
カレーライスをのせている俺のトレイを持った先輩はレンジがある学食出入口付近に向かって歩き出した。
「あっ、自分で行きますよ。先輩のカレーも冷めてるし」
「うん、いいの。私は……冷めてるのも、好きだからね」
カレーはすっかり冷めてしまっていて、俺は好きじゃない。
絶対温かいほうが良いに決まっている。
先輩は……とても温かい人だ。
この人の優しさを、強さを、直向きさを、俺は知っているんだから。
「やっぱり……少し寒いよな」
冷房がよく利いている。
さっきから吹き出していた俺の背中の汗が……冷たかった。




