事件の憶測
いやあ、何があったというわけでもないんだけど。そう続けてパパが当時を語ってくれた。
「頻繁に来ていたからそれなりに面識はあってね。豪雪で新幹線も何もかも止まってしまった日があって。それで家に泊めたんだ。心当たりならその人くらいかな。ところでどういうキッカケで会ったんだ?」
いつだって柔らかいパパの声色が突然に畏まる。十何年と昔に関わっただけの人が突然に現れたのならば無理はない。逡巡し、隠すことでもないかと思い直して電話口に応えた。
「実はね、部長だったの」
「それは凄い偶然じゃないか。あの人ならソノカを預けても安心だよね」
パパの反応は意外なほど好感触で、かえって私の方が困惑してしまうほどだった。そんな人がいるなら辞めてしまえと言われても困るところだったけれど。
「彼は真面目にやっているかな」
半分独り言のように呟かれたそれに動揺する。真面目とは程遠いことばかりをしているツカサさんの顔が浮かぶ。そんな現状をパパが知ればとてもガッカリすることだろう。
「まあ、そこそこ元気そうだよ……」
彼にも会ったのかと驚き交じりながらも「それなら良かった」なんて呑気な台詞が聞こえてくる。こんな会話をしていること自体が不思議な心地で、それと同時にパパはツカサさんと一体どんな風に関わっていたのだろうかということも気になり始めた。
「私ね、ほんの少しだけど裁判資料を見たの。パパはあんなことした人たちとどういう風に話をするの?」
「急に難しいことを聞いてくるね」
あっちもこっちも口八丁なだけならいいけど、一周回ってただの屁理屈と嘘だらけ。トラブルを起こさないような良い子だったらそもそもそんなところにはいないわけで、どこかずれたロクデナシの中に、ごく稀に普通寄りの人が混ざっている程度の世界だ。今も日々日々勉強中だと言ったパパの苦笑いが見えるようだった。
「でもパパとはちゃんとした話を……事件について本当のことを言ったって聞いたよ」
「うーん、どうなんだろうね。事実かどうか、調べようもないことだから」
「どういう意味?」
「信用するのは簡単だ。だからって何でもかんでも鵜呑みにするのはよくない。被害者がいる事実は消えないだろう」
「じゃあ嘘つきだったんだ」
「そういうことでもない。被収容者には被害に遭われた方の視点がポッカリ抜けている人が多い。でもこっちは被害者と話なんてできないんだから、聞いたままを受け止めることはしないよ。そうでなければ被害者に失礼だ」
被害者の視点が抜けているという表現は、まさにツカサさんにピッタリの言葉ではないかと思えてしまった。反省しないと言い切るほどだ、謝罪を口にする姿など想像もつかない。
「パパはどういう人だと見立てていたの?」
「なかなかの問題児だったね。あれほど処遇に悩んだのも珍しい」
ああ、と乾ききった笑いしか出てこない。
しかしパパから聞かされたのはその笑いも消し飛ぶほどのドン引きな実情だった。
懲役刑となれば仕事内容によって分化された工場と呼ばれるところで労働をする。夜間や休日を共に過ごす雑居房の同囚も同じ工場に割り振られた人たちという構図だから、二十四時間同じ顔を見続ける生活だ。工場は一度決まれば基本的に変わることはないが例外的に変更されることもある。その理由の大半は何か問題を起こしてしまったとき。
ツカサさんは方々で問題を起こしまくり始めの一年でその刑務所にあるほとんどの工場を移り尽くしてしまったらしい。そんなわけで雑居房での暮らしより仕置き部屋である懲罰房に放り込まれてる時間の方が長かったほどだ。それだけでも有り得ないのに、ラストチャンスとばかりに移った先で起こしたトラブルは行き過ぎて傷害事件に発展。目も当てられない刑期の上乗せが待っていた。
「ちっとも反省してないじゃんっ」
収容されていたのが判決よりも随分長い期間であったのはこういう訳だったのかと、謎のままであって欲しかった疑問は解消された。沸点の低い人だとは思っていたけれどここまでくると完全なる社会不適合者ではないか。
「彼には申し訳ないことをしてしまったと思ってるんだよ」
「どうしてパパがそんなこと思うのよ。大方八つ当たりかなんかで暴れてたんでしょう?」
夜に来るなと凄んだ顔が脳裏に浮かぶ。きっとあんな感じの勢いで人をぶん投げたりしたのだろう。
「ただの自棄には見えなくてね。最初から何だか雰囲気の違う男だとは思っていたが……思い返せばそもそも処遇の仕方だって見直すべきだったかもしれない」
「反省してないんだからちょっと厳しいくらいで丁度じゃない?」
「事実に基づいた罰ならそれでいいのかもしれないけどさ」
意味深で含みある言い方にわだかまりを覚える。しばしの沈黙の後に改めて訊ねてみた。
「パパはどんな話を聞かされたの」
「事件を起こした日の夜だよ……被害者に殺害を依頼されたんだと言っていた」
「えっ、裁判資料にはそんな風に書いてなかったよ」
「それがそもそも偽証だったんじゃないかな」
同じ人を殺める行為であっても、殺人と嘱託殺人ではその量刑に雲泥の差がある。わざわざ不利に傾く方へ嘯くなど余程の事情でもなければしないだろう。
「なんでそんなことしたのかな」
「被害者が死にたがる理由を説明できなければ、それこそ遺書のような証拠がなければ頼まれたことを立証できない。でもその理由をどうしても言いたくなかったからだってさ」
ここからはパパの勝手な想像だけどね――そうして聞かされたのは、被害者が死を選んだ動機の想像について。ツカサさんの態度や振る舞いから判断した想像について。トラブルを起こした受刑者達の共通点に全てが集約されていた。
「トラブルの相手は全員、所謂わいせつ事件の加害者でね……ソノカはどう思う?」
私が思い出していたのは、勝手に中身を覗いてしまった本棚の黒ファイルの存在だった。あのファイルに格納されていたのはどれもこれも『そういう事件』を取り扱ったものばかりだった。もしその女性がそういう事件に巻き込まれた人なら。もし自分がそういう事件に巻き込まれてしまったとしたら。考えるだけでとても暗く重たい気分になってしまう。私は本当に触れてはいけないものに触れてしまったのかもしれなかった。
「殺された女性は性犯罪に巻き込まれた可能性があるって言いたいの?」
「あくまで仮定の話だよ。例えば強姦罪なんてものは親告罪なのだから、その女性が存在しない今や訴えることすらできない」
パパの声には確信に似た感情が込められていた。仮定に忠実であるならその先に繋がる未来はきっと美しいものではないはずだ。
「分からなくもないけど、そんな重大なことなのに嘘なんてつくのかな」
「ソノカにこれだけ言っておくけど、本当の嘘つきほど正直者に見えたりするんだ」
その真意について私は捉えかねていた。見方を変えれば正直者ほど嘘つきだということか。ひとつだけ間違いなさそうなのは、ツカサさんは自分の衝動にだけは正直な人だ。ここは超えてはいけないという一線が存在しない人なのだ。そんな人間を法律を笠に着てどうこうしようなどと無駄な話なのかもしれない。処遇の仕方を見直すべきだったと言ったパパの思考についてはそういう結論にしておいた。
目の前で死にたがっていたから殺してあげたのだろうか。
目の前にその原因を作った人がいたから攻撃したのだろうか。
まるで破天荒な振る舞いもそう考えれば一本線に繋がって見えて不思議と納得してしまった。真実とは案外単純なものなのかもしれない。単純ゆえに私なんかが触れてはいけない領域だったと改めて認識した。




