好き勝手
とにかく、そしてひたすらに部長から目を逸らし続けていた。休み明けの月曜日、何食わぬ顔を装って出社してみたものの、穴ぼこだらけになりそうなほどの鋭い視線を感じ続けている。職場はいつもと何ひとつ変わらず正常運転をしているけれど、私と部長の間には緊迫した空気で満ちていた。
ついに呼び出しを受けたのは仕事があらかた落ち着いた夕方前だった。石鍋さんが打ち合わせで席を外していたタイミングで、知らぬ間に背後に立っていた部長に肩を叩かれた。
「ちょっと来なさい」
肩に置かれた手がそのまま腕を掴み、ほとんど引きずられる形で事務室から連れ出された。離してくださいと抗議しても部長が歩みを止めることはない。
連れられたのは廊下の一番奥にある給茶スペースだった。休憩時間ではないから人影はなく部長と完全にふたりきり。
「どれにするんだ」
自動販売機へ小銭を流し込みながら部長がぶっきらぼうに言った。緑茶でと控えめに答えれば、ガタンと音を立て一缶転がり出てきて、それを無言のまま差し出される。続いて部長が選んだのはラインナップの中で一番甘いミルクココアだった。
「誰かに話していないだろうね」
「……いえ」
「そうか」
他人に言えるわけないでしょう。言ったところで信じる人などいないでしょう。私だって信じなかったことだろう。山中であんなものさえ見なければ。
「でも、訳の分からないまま黙っておくつもりないですからね」
自分でも驚いた。誰彼構わず吹聴して歩くつもりなど毛頭ないけれど、あえてハッタリをかませてみれたことに。間違いなくこれは誰かさんの悪影響だ。
「あの人は何者なんですか。巻き込まれて、迷惑ですよ……」
「それについては申し訳ないと思ってる。でも口外はしないでくれ」
常にそれで固定されていたはずのつり上がった眉が八の字に下がる。そんな顔をされるとまるで私が困らせているみたいじゃない。
「人に言ったりはしないです、けど……どうして私が。他に人はいるじゃないですか!」
「誰でもいいことじゃないのは分かるだろう」
「私でいいなら誰でも同じじゃないですか。私なんか、先輩の顔すら知らないのに」
「他の人ではダメなんだ」
曖昧で煮え切らない回答に焦れったさを覚えた。部長に噛み付くなんて数日前の私だったら絶対に考えられない行為だ。
「それならご自分で処理したらいかがですか」
「ツカサくんは私には本当のことを言わないからね」
はあ、と疑問と困惑織り交ざる声が出てしまう。嘘と欺瞞に満ちた輩であるのは私だって分かっている。
「それが私に何の関係が……」
「私は昔、君の父上に会ったことがある」
「……え?」
「小学生の君の写真を見せてもらったこともある。今でもその面影があったから面接に来た時は驚いたね」
度肝を抜かれるとかはこのことか。突拍子もない告白に心拍数が跳ね上がって手先が震えるのを感じた。
「ちょっと待って下さい、どういうことですか!」
「どうもこうもこの件についてはそれが全てだ。他の奴よりは事情を理解してくれるかもしれないという期待を押し付けただけだよ。……まあ、父上は私のこともツカサくんのことも覚えちゃいないだろうがね」
目を伏せた部長が深く息を吐いた。パパとふたりを繋ぐ接点があるとすれば心当たりはただひとつだけだ。
「父のことを調べたんですか」
「そんなことするわけないだろう。こちらが一方的に記憶しているだけだ」
「いつ会ったんですか」
「最後に会ったのは十五年ほど前、新潟だ。その時に大変お世話になったんだよ」
十五年前、確かにパパは新潟で働いていた。そこにツカサさんがいたとして不思議はない。それならば部長が新潟に行く理由になる。
しかしこれは真に受けて良い話なのだろうか決めかねた。作り話のようでいて、わざわざ部長とツカサさんが口裏合わせをするような内容でもない気がする。だったらやはり事実なのかもしれなかった。
「父とのことがあったから私を採ったんですか」
「否定はしない。でもあくまで一要素だ。決め手になったわけではない」
「誤魔化さなくていいです。はっきり言えば良いじゃないですか、そんなツテでもなければ就職出来ない女だって!」
いじけ半分で思わず叫んでしまった。パパと部長に何があったかなんて知りたくもないけれど、私を採用することで少しばかりの借りをパパに返した気でいるに違いないのだ。
「そういうところがダメなんだ!」
「本当にはっきり言わなくても……。でも分かってるんですよ、先輩の評判聞いていたらどう考えたって私が不釣り合いなことくらい」
その考えが悪いんだと吠えた部長の表情は、さきほどまでの憂えたものではなくていつもの怒り狂っている調子に戻っている。
「自分を低く見積もり過ぎなところがよくない」
「誰だってこうもなりますよ。先輩の凄い話ばかり聞かされていたら。どうせみんな、心の中じゃあ私と比べて馬鹿にしてるに決まってるんです」
何を勘違いしているのか。わざわざ半歩近づき言い放たれてたじろいだ。
「彼も人なり予も人なりという言葉があるだろう。初めから突き抜けた奴なんていない」
「それにしても先輩は別格の扱いじゃないですか」
私はそんなんじゃないと口を結ぶ。知識だって経験だって、やる気があってもそんなところまで到達するなど不可能だ。
「君は三十社も落とされたと言っていたね」
「……すみません、本当は三桁超えてます」
頬をひくつかせた部長の顔に、凝視しなければ分からないほどの小さな笑みが浮かんでいた。
「そんなことだろうと思ったよ。そのくせ喚き散らす元気があるなら大したもんだ」
「はあ」
「彼は君よりしくじってる。高校を留年した上での入社だよ」
今どきいるのか、そんな人。有名私大を出ている石鍋さんすら大絶賛の人物なのだから、てっきり大学院は当然に出ているようなエリートを想像していただけに意外な話だ。
「この会社は大卒の方が多いだろう。なのに高校留年なんて彼も相当卑屈だったね。たかだか数ヶ月就活が長引いたくらい大した問題じゃない」
「でも、仕事はできる人なんですよね。先輩プラマイゼロじゃないですか。私なんて……」
「だったら君もそうなればいいだけだ。ちょっとしくじったことのある人間は、順風満帆な奴にガッツじゃ負けないんだよ」
そのガッツに期待したんだが外れだったかねと、部長はさらなる追い討ちをかける。
「それともなんだ、三桁超えはただの時間の無駄遣いだったか?」
「それは……」
「今は無駄でも構わん。無駄のままで終わらすのは自分次第だ」
あの長すぎる就活の日々は三歩進んで二歩下がったまま明後日の方向へ寄り道をしている気分だった。きっと今にとっては無駄の限りで、ここからひっくり返せるものならそうしたい。自分次第という言葉が脳内でリフレインする。
「無駄なんて嫌です。誰かさんには小馬鹿にされっぱなしですし」
「その誰かさんは人生を無駄遣いしまくっているがな」
鼻を鳴らしながら部長が吐き捨てた。ああ、確かに私や先輩など比較不能なほどしくじっている人だ。ついでにひねくれたアル中とくれば負ける気はしない。下を見て自信を付けるなど褒められたことではないが、自分の悩み事がちょっと可愛く感じられるほどだった。
「君の父上に聞かれたら怒られるかもしれないが、彼をこれ以上足踏みさせるような状況にしたくない。だからどうにかしようとツカサくんと画策していたんだけどね」
そこで部長は言葉を詰まらせた。部長の言わんとすることは理解できる。恐らく、せめて実刑は免れるようにしたいとかそんなところだろう。
「わざわざ道案内したのはツカサさんですよ? 被害者のいるところに」
「そこまでは良かったんだ。ただ想定外の状況になってしまったから、誰にも言うなと頼んでいる」
「想定外もなにも死体が発見された時点で結論は同じじゃないですか」
言ってることもやっていることもまるで分からない。ましてや私を巻き込むなど意味不明にもほどがある。
「実際に現場へ行ったなら分かるだろう。あんなところまでどうやって死体を運ぶっていうんだ」
「確かに、それはそうですけど……」
「そういう矛盾をツカサくんが仕掛けておいたというのに」
つまるところ請け負ったツカサさんは、先輩では運ぶことが出来ない場所を選んで捨てたということのようだった。
「アイツ、現場まで被害者を連れ込んでその場で殺害をしたなんて勝手な供述をしたらしい!」
「ツカサさんが協力した意味ないですね……」
自分で墓穴を固めていくような先輩はちょっと理解したくないし、それじゃあツカサさんはどうやって運んだなんて、頭部だけよそに転がっていたことから推測すれば血生臭い方法であること間違いなし。そんな諸悪どもに関係させられた私はどういう立ち位置でいろというのか。
「秘密にするのは分かりましたけど、私がいたところで状況は変わりませんよ」
「変えてもらおうなんて思っていない。理解者でいるだけでいい」
「そんなアバウトなこと頼まれても困ります」
「無理は承知なんだよ。ツカサくんは未だに自分の事件について本当のことを言わない。それでどこかが壊れてしまっている。でも何故だか君の父上にだけは話をしたらしい。だから勝手に期待を押し付けているだけだ。彼もやはり、ツカサくんと同じように本当のことを黙ったままだからね」
部長の言葉を幾度となく反芻してみる。勝手な期待はとても肩に重く、私は俯いたまま何も言えないままだ。
その夜、私はパパに電話をかけてみた。メールのやり取りは頻繁だがこうして話すのは久々だ。わずか二コールで出たパパの声はとても弾んでいる。私からの電話がよほど嬉しかったのか、仕事はどうだ、馴染めているか、息抜きもきちんとしているかとお喋りがいつまでたっても止まらない。たっぷり言いたいことを言い尽くしてもらってから本題を切り出した。
「パパに聞きたいことがあるの。新潟にいた時に会った人を覚えている? 面会に来ていたパパと同世代の男性。相手はその時、二十代半ばかな」
「うーん、そんな組合せは大勢いるからなあ。それがどうかしたのか?」
「パパに会ったことのある人がいてね。とても世話になったからよろしく伝えてって言われたの」
名前や、それが上司であることは伏せ、当たり障りのない建前で反応を伺った。そんな人いたかなあという呟きを置いてパパは記憶を手繰り寄せていた。
「ああ、そういえばひとりだけよく覚えている人がいるよ。確か名前は、佐渡さんって言ったかなあ」
受話器に触れる耳の辺りでざあざあと血の流れる音が大きくなった。まさか本当の話だったなんて。




