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ぐしゃぐしゃ

 急激な展開に思考が追いつかない。最後のボタンまで千切れ、ブラウスを開け広げられた。そしてまた視界が回る。仰向けからうつ伏せに投げられた勢いで上半身を完全に剥ぎ取られてしまった。

「やめてっ!」

 ギリギリ手の届かない辺りにブラウスが放られる。取り返そうともがいて身体ががら空きになったところを、今度は臀部に手が当てられた。

 それをなぎ払おうと振り回した腕は空振りに終わる。一気に引き下げられたスカートが膝のあたりに絡んで動きが制限されてしまう。目一杯身体をよじって振り向こうとしたけれど、動くなと髪の毛を鷲掴みにされた。

「やめてください……」

 ミシミシと髪が抜ける音と荒々しい息遣いだけが聞こえてくる。縮こまり動けなくなって全身を固くした。そうしている内にスカートまで取り払われて、もっと恐ろしい予感に身がすくむ。頭は離してもらえたが、恐怖のあまり顔はベッドに埋めたままだ。

「着ろ」

「うぐっ」

 振り向きざま、顔面に何かを押しつけられた。さっき私が持って行こうとしたジャージだ。今度は何が起きているのか目を白黒させるばかりだった。

「ぐしゃぐしゃだろうが……」

 スカートを床に投げ捨てながらそんなことを言ったツカサさんの表情は常軌を逸しているが、また突き飛ばされたりだとかされるおそれはなくなっているようだ。

 私の横に移動したツカサさんは、おもむろに自分の汚れたシャツを脱ぐ。やはりそれも床に捨ててベッドに倒れ込んだ。泥酔しているせいか低い唸りはあっという間に寝息と代わっていく。呼吸に合わせて浮き沈みする背中に私の目は釘付けとなっていた。


 左腕とそこに続く肩から腰にかけて袈裟懸けに広がる火傷と思われる痕跡。かなり古い物に見受けられるが、ケロイド状のそれが肌に馴染むことはなく違和感だけを主張していた。真夏でも長袖を着用していた理由はこれだったのかもしれない。


 私も服を着なければとブラウスを手に取るが、再び袖を通す気になれないほどに濡れている。ボタンもどこかへ飛んでなくなってしまっているし、スカートも恐らく同じ有り様だ。押し付けられたジャージを仕方なく身に着けるしかなかった。

 捨て置かれた衣服を拾ってリビングに戻る。床の汚れからはすえた臭いがしていた。

 気紛れの寄り道でこんなしっぺ返しを食らうことになろうとは。まだ少し胸は震えていて、とは言え帰る手段もない。ツカサさんは寝てしまったからこれ以上事態が悪くはならないが好転の兆しも見えず。

 ひとまず床を掃除し部屋中の消臭ポッドを集めて並べてみた。ツカサさんの脱いだ服も洗面台に水を張ってつけ置きにしておいた。


 さて、どうしたものだろうか。ここまでやっても時計の針はそれほど進んでいなかった。ぐるり部屋を見渡して途方に暮れてしまう。

 そんな時、また私は本棚から好奇心をくすぐる物を見つけてしまった。

 一番端の一番下、つまり一番目立たぬところに差し込まれた紙封筒。異常に膨れたそれは色がすっかり褪せるほどやけている。それに似たようなものは他にいくらでもあるのだけれど、何故かそればかりが目に付いた。

 奥の部屋からはいびきが聞こえ始めている。あれほど深く酔っていれば朝まで起きることはないだろう。そろそろと本棚に近づいて封筒に触れただけで、ああアレだなと直感が囁いた。


 劇的な『何か』を求めていたわけでもないけれど、ツカサさんの事件についての裁判資料に書かれていたのは拍子抜けするほど無味乾燥なものだった。

 手にかけたのは同居人の女性、遺体は山中に遺棄した――。

 ある意味で普通の怨恨による殺人。顛末はたったこれだけだ。山に棄てるなんて今とやってることは同じじゃない。反省していないのは確からしかった。パラパラと流し読みしてもそれ以上のことは特に記載されておらず、本当にこれだけだ。

 随分長いこと逃げ回っていたみたいだけど、自首が作用したのか一審で確定したのは懲役八年。ツカサさんが言っていた年数はもう少し長かったような記憶があるが、まあいいかと資料は元の位置に正しく直しておいた。


 これで針は三十分ほど進んだ。夜明けはまだまだ先だ。時計と睨めっこをしていると、知らない内にまどろんでいった。



 次に目を開けた時には昼近くになっていた。物音がしてソファーから飛び起きると、なかったはずの毛布が掛けられていることに気付く。ツカサさんは机で新聞に目を通していた。

「やっと起きたか」

 ギロリと目線だけ向けられ、歪む口元に機嫌の悪さを察知した。毛布に触れている指に力が籠もる。

「あの、ツカサさん、昨日は一体何をして……」

「それは俺の台詞だ。夜中にいきなり来るなんてどういうつもりだよ。おまけにずぶ濡れじゃあ何事かと思うだろ」

 差し込む余地もないほどの正論だった。ツカサさんが何をしていたって、聞くまでもなく自宅で呑んでいただけなのだから。

「トラブったとか、そういうわけじゃないんでしょ」

「違います!」

「ならいいんだけどさ」

 新聞を机に置いて改めてツカサさんが私に向き直った。目は鋭く尖りっぱなしでかなり不機嫌そうだ。

「……悪かったね、片付けとか」

 ツカサさんの視線が床に注がれる。磨いた床に汚物の痕跡はない。

「具合は大丈夫なんですか」

「いつものことだから」

「いつも?」

「あれくらい酔わなきゃ寝られない」

「いくらなんでも飲み過ぎです……」

 酒に頼らなければ、それも泥酔状態でないと眠れないなんて完全にアル中のそれではないのか。素面の時ともまた違う粗暴な姿は、頭の中の深くに刻まれている。

「洋服も悪かったね。直してあるから」

 また別のところに向けられた視線の先には、壁掛けハンガーに吊された私の服があった。ボタンは全部揃えて留めてあり、ありがとうございますと頭を下げた。

「驚かせたよね」

「襲われるのかと思いました……」

 勃たねえからなんて吐き捨て、ツカサさんの顔が渋く歪む。

「連絡なしに夜中来ちゃダメ。犯しやしねえけど、ぶん殴ったりとかは保証できない」

「ごめんなさい」

 ある意味殴られる方が温いほどの衝撃体験だった。リミットの外れた激情は私なんかで捌ききれるものではない。

「それにしてもあんな酔っ払ってたのに、ずぶ濡れのこととか覚えてるものですね」

「ベロベロでも記憶だけはなくさないんだよな。だから苛まれるんだけどな」

「えっ、全部覚えてるんですか」

「Eカップ」

「さっさと忘れてください!」

 下着姿もはっきり記憶されてしまっているのか。とたんに首裏がカッと熱くなる。

 そこまで意識が明瞭なら踏みとどまってよと言いかけたが、素面でも怒り出したら手に負えないんだから無駄な要求だと飲み込んだ。

「そもそもが何しに来たの?」

「……傘。傘です」

 訊ねられてようやくここへ来た目的を思い出した。

 言う通り傘パクを実行したこと。居心地の悪さたるや酷いもので、気が滅入って電車を降りてしまったこと。そんな傘を使う気にもなれなかったらずぶ濡れたこと。ポツポツひとつずつ零すように吐き出すと少しだけすっきりする。それでもまだ残るモヤモヤに肩が落ちた。

「馬鹿じゃねえの。俺の言うことなんて聞くなよ」

「えっ、えー?」

「俺みたいな奴の言うことなんて真に受けちゃダメだ」

 なんだそれ、それってあんまりじゃない。あくまでちょっとだけ真剣に考えた時間はなんだったのか。

 ふてくされた私の気配を察知したのか、ツカサさんは口角を上げた。おちょくられただけだと気づかされるには十分だ。

「土曜日なんだし、もう少しゆっくりしていく?」

「ツカサさんの言うことはもう聞きません!」

「もうすぐテツオさんも来るってのに」

「部長が来るんですか? どうして?」

「俺の家に俺が誰を呼んでも勝手でしょ」

「ていうか、部長来るなら余計に居られないです!」


 ブラウスをひっ掴み奥の部屋に飛び込んで着替え、そしてバタバタと玄関を飛び出した。

 昨日転げるように下った坂道を同じくらいのスピードで走る。登りきる寸前、小脇に分厚い封筒を抱える部長の姿を見るまでは。

 互いが互いに気付いてほぼ同時に足が止まる。やばい、気まずい、どうしよう。私服姿の部長は新鮮であるけれど畏怖の対象であることに変わりはない。押し黙る私の代わりに口を開いたのは部長だった。

「ツカサくんの所に泊まったのか」

 なんで分かったの。その解答はブラウスに向けられた視線にあった。私は昨日と変わらぬ服装だ。それに嘘をついても十分後には「あの女、真夜中に来やがった」的な会話が繰り広げられるに違いない。

「ちょっと色々ありまして」

「よく泊めてもらえたな」

「押しかけたというか、なんといいますか」

「呑んでなかったのか」

「いいえ、正体ゼロでした……」

 部長の顔が静かに引きつる。私の顔も多分引きつっている。

「止めろと散々言ってるのにアイツ……肝硬変寸前なんだよ」

「絶対呑んだらアウトじゃないですか」

「あの野郎」

 毎夜毎夜あんな酔い方をしていれば身体を壊すに決まっていた。部長の表情が説教モードに入り、ご愁傷様とツカサさんに祈りを捧げる。

「部長はこれから何をしに?」

「彼に相談事があってな」

 濁された口調から恐らく詳しく聞くことは叶わぬだろうと悟る。でもどこか心に引っかかるものがある。

 私のバタバタとかゴタゴタの元凶は部長だった。やっぱり怖い。怖いけど会社の外だからだろうか、今なら言いたいことが言えそうな気分だ。

「ひとついいですか」

 本当は言いたいことはひとつなんかじゃ足りない。いくつもある中からひとつを叩き出した。

「あの人は一体何者なんですか。私、先輩の話聞いちゃったんですからね」

 普段は小さく睨みを利かしている目が何倍も大きく見開かれた。グシャリと音が立つほど封筒を握り潰す手があった。

「山にも連れてかれたんですからね!」

 それだけ叫んで再びダッシュした。完全なる言い逃げだ。背後から「誰にも言うな!」という声がこだました。

 ああ、やっぱり部長は事件のことを知っているみたいだ。

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