傘パク
入門書の例文を参考にあれこれと進めていけばいつの間にかとっぷり日が暮れていた。百聞は一見に如かずじゃないけれど、触ってみれば全く意味不明ではないみたい。それでもゼロから何かシステムを組み上げるなんて想像すら及ばない世界だ。
定時が近付き、アルバイトや小さな子どものいる社員からパラパラと帰宅をし始めた。石鍋さんはトイレだろうか、ふらりと席を立つ。
空はどんよりしていて、私は『傘パク』のことを思い出してしまった。
とりあえず、傘は持たずに来た。でも一階にはコンビニだってあるからそんなことをしなくても大丈夫。一方で、やらなかったら烈火の如く怒り狂うツカサさんの姿も想像できる。全てにおいて独特すぎる軸足で生きる彼の逆鱗にこれ以上触れたくもない。キーボードを叩く手が止まり、黒いコンパイル画面に空よりどんよりした己の顔が反映していた。
ビニル傘ならきっとバレないぞ。
どうせ他にもやる奴いるんだから。
盗られる方が鈍臭いだけだろ。
反省なんかするなよ。するなよ。するなよ。
ああ、うるさい声が耳で鳴る。頭を振るとその声がシェイクされ脳みそをグチャグチャにかき回してくれた。
「はい、お疲れ様」
コトンと軽快な音で缶のミルクティーが置かれる。つい先ほど席を外したばかりの石鍋さんからの差し入れだった。
「ありがとうございます!」
石鍋さんはというと眠気も吹き飛ぶ無糖ブラック。今度お礼返しせねばと記憶にしっかり留めた。
「雨が降り始めたよ。予報だと二時間くらいで止むらしいけど」
止むまで二時間、もうしばらく参考書と睨めっこしていればあっという間だ。雨が止んじゃったので傘パクする理由がなくなりました、そうだこの作戦でいこう。そんな思惑は簡単に打ち砕かれてしまう。
待てど暮らせど雨足は一向に弱まらない。それどころか終電時間が迫るほどで、石鍋さんも流石に帰宅準備を始めていた。それに従い私も身支度を整える。
藤沢主任はさておき、今日は悪天候も相俟ってほとんどの人はとっくの昔に帰っている。今フロアにいるのは私を含めてわずか六人。傘立てにはビニル傘が三本。この時点ですでに計算がおかしい。この三本はそれぞれ誰のものなのか。誰のものだとしてもこの人数しかいないから傘パクなんてしたらバレバレだ。
他の人たちも帰宅の動きを見せている。ひとりが事務室を出て行くその手には折り畳み傘。また別のひとりは電話をしながらカバンに荷物を入れていた。
――じゃあ出口で待ってるよ。後輩がさあ、途中まで乗せてやってもいいかなあ。なんて会話が聞こえてくる。
「いいなあ、新婚さんじゃなかったら私たちも乗せてって頼むのに、流石に奥さん怒るよねえ」
石鍋さんも聞いていたのかそんなことを呟いた。奥さんのお迎えがあるふたりが消え、これで人間三人に対して傘三本。過不足はなくなった。
「すみませんねー、ちょっと借りますねー」
その内の一本に石鍋さんは手をかけた。間延びした声に私は身動きが取れなくなった。
「どうしたの? もしかして辰巳さんも傘ない人?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「早く帰ろ。電車なくなっちゃう」
石鍋さんの言葉で頭にこびりついていた罪悪感は消し飛んでいた。ちょっと借りるの感覚が足取りを軽くして、傘立てから抜き取る手にも躊躇いはなくなっていた。
「今朝、電車の中で置き忘れちゃってさー。つい最近買ったばかりだったのに惜しいことしたな」
傘を借りた理由について石鍋さんはそう述べた。勝手に人の物を持ち出したことについての反省より、置き忘れた傘の所在ばかりを気にしている。
私はといえば、勢いで持ち出してしまった上に流れであたかも自分の物のように振る舞ってしまっている。どっちも最低だけど、より悪い方を決めるなら満場一致で私だろうか。
「その傘、本当は誰のなんでしょう」
「さあね。でも余ってた傘だし大丈夫でしょ」
そう言ったきり、話題は全く別のことに移ってしまう。その内容はまるで頭に入らず曖昧に相槌を打つばかりだ。その間にも罪悪感が少しずつ膨れ上がって握る柄にズシリと重みを感じていた。
悪いことをするってどんな気持ちなのだろう。
数分後にはケロッと忘れてしまうようなことばかりなのだろうか。
ツカサさんは反省などしていない、反省なんかするなと言い切った。ごめんなさいと口に出せないもどかしさは確かにある。絶体絶命の窮地に追い込まれているはずの例の先輩は、今頃どんな言葉を口にしているのだろうか。
「……じゃあ再来週の日曜日! 待ち合わせ場所はまた連絡するね」
「えっ、わ、分かりました」
途中下車した石鍋さんが降り際にそんなことを言った。出掛ける約束でもしてしまったようだけど、それが何なのかはさっぱり思い出せないほど気もそぞろになっていた。
ふと視界に入った頭上の電光掲示に流れる次の停車駅はいつものお使い場所がある場所だ。ひとりになった途端に握りしめたビニル傘が得体の知れぬ獣のように感じられて取り落としそうになる。
家に帰れる最終電車だったはずなのに、無意識に次駅で降りていた。最終電車を見送ったホームはがらんどうとしていて、いま私と同じ電車から降りてきた人や点検中の駅員の数名しかいない。たちまちひとりでいることが不安になって地下を走り出す。
地上を出ると雨足は心なしか強くなり本降り状態に戻っていた。マンションまでは数百メートル、傘なんて要らないか。
「あーっ」
傘なんて要らない、と思っていたが思いの外濡れた。滴る水をハンカチで拭っても身震いしてしまうほどだった。
こんな時間に起きてるのかな、起きてても寝てても鳴らしたら激昂するかな。震える指で部屋番号を呼び出してみる。少し間を置いてマイクのランプが点灯したから名乗ったが応答はない。その代わり耳障りな雑音だけ聞こえ、オートロックも解除された。スピーカーが故障でもしているのだろうか。不安ばかり膨らんでいく。
最上階で止まっているエレベーターを待つのももどかしく階段を駆け上る。扉をノックするがやはり反応がない。オートロックが開いたのだから私のことは認識しているはずとドアノブに手をかけた。
ピシャリ。靴を脱ぎ踏み出した一歩目が液体で滲む。褐色の水が廊下に零れて臭気を放っていた。二歩目が踏み出せなくて顔だけリビングに向けると、床に投げ出された足だけが見えた。
「ツカサさん……?」
声を掛けても返事がない。全身総毛立つのは雨に濡れたせいではなかった。
液体を踏みつけながら床でひっくり返ってるツカサさんに駆け寄った。臭気の正体は傍らに転がるウイスキーボトルと上半身を汚す吐瀉物だ。
「起きてください!」
酔いが回りすぎて赤黒くなるほどの飲み方が普通なわけがない。ツカサさんが呻き声を上げながらノロリと起き上がるが、酩酊状態では安座になるのが精一杯の様子だ。
「着替えた方がいいですよ」
「あー、ああ……」
グラグラ身体を揺らしたりなんかして、こちらの話が通じているのかも怪しい。そういえば初めてここを訪れた時、着替えるためにツカサさんは奥の部屋に行った。何かしら服があるはずだとその部屋へ入ってみた。
六畳ほどの部屋はベッドがあるくらいで荷物がまるでない。その上に脱ぎ捨てたままのジャージがあった。寝間着代わりにしているものだろうか、それを手に取りリビングに戻ろうとした時だった。
蹴り飛ばしたかのような音を立てて扉が開く。もたれかかるようにしてそこに立つツカサさんの目は完全に据わり、ただならぬ形相になっていた。
「……なに、してんだよ」
「着替えを」
全てを言い終わる前にいきなり胸倉を掴まれた。視野が半回転したと思ったらベッドに突き飛ばされていた。服はまだ強く掴まれたままで身動きが取れない。
真っ赤に充血した目に睨まれ息を呑む。アルコール臭を撒き散らしながら顔が近付いてきて思わず顔を逸らしてしまう。その瞬間、ブラウスのボタンが弾け飛んだ。




