ハローワールド
パウダールームにある鏡の前で顔を引きつらせていると、あとから入ってきた石鍋さんが「大丈夫?」と顔を覗き込んできた。
昨夜の時点で下半身の気怠い兆候はあった。これは筋肉痛確定だなあと、履いていったスニーカーの泥を落としながらうなだれそして眠りについたのだ。朝起きれば爪先まで鉛のようで、家での化粧すら断念してフラフラと会社までたどり着いた顔は酷いものだった。
「昨日も、例のお使いだったんでしょ?」
ねえねえと好奇心の塊みたいなテンションで石鍋さんが迫ってくる。もういいかな、ぶちまけちゃおうかな。別に誰とも口止めされているわけでもないしと疲労困憊した頭で考えた。
――山に登ったんですよ、とんでもない獣道でした。途中に二メートルほどの崖のような岩場があったりしてとても自力で登れないんです。ひとりに抱えられてもうひとりに引っ張り上げてもらってやっと登りました。そんなわけで足がクタクタです。そのあとに死体を掘って埋め直すところを眺めてました。
五秒と経たずに振り返ってみれば誰が聞いても正気を疑われる話を述べていた。石鍋さんは目を丸くし、一息おいてさらに深く私の顔を覗き込んでいた。
「辰巳さん、本当に大丈夫?」
「ああ……すみません、変な話して」
「気にしないで。藤沢主任なんて今日も机で小さなおじさん飼ってるし。でも辰巳さんがその世界に行くのはまだ早過ぎる! ハローワールドもまだなのに!」
石鍋さんの言ったことの意味が分からず、今度は私が目を丸くした。ポワンとする頭の中で藤沢主任の顔を探す。そうそう、右隣の島にいる人だ。
今はとにかく多忙な時期らしく、数日前には誰かが「藤沢がパッパラワールドに入った」とかなんとか叫んでいた。脳内物質により生み出されたおじさんの見える世界をパッパラワールドと呼んでいるらしい。そこまで思い出して、私まで頭がパッパラしてると誤解されていることに気がついた。
「あとでリトビタンDあげるからね。それともレッドバウ派かしら」
「お構いなく! 大丈夫ですので!」
「本当に?」
エナジードリンクに頼らなければならない疲れではないのだ。小さなおじさんはそれで帰ってくれるのかもしれないけれど、私のパッパラワールドはリアルの延長にあるものでそれはきっと消せないから。
「今日こそプログラミング研修始めようと思ってたけど、日を改めた方が良いかな?」
「本当に大丈夫ですからっ」
「それならいいけど……」
ようやく頭をスッキリさせて事務室に向かえば、藤沢主任のパッパラワールドは佳境に入っているようだった。テンキーを凝視しながらブツブツと何かを言っている。というより会話をしている。独り言や鼻歌くらいなら珍しくないけれど会話をしているというのは危険信号だ。見かけは真顔なだけにその奇っ怪さは筆舌に尽くしがたい。私も最終的にはこうなるのかなと想像してしまい暗たんたる思いになる。
近頃は雰囲気を見るだけで、その人の修羅場具合を感じ取れるようになってしまった。やってることはシステムの新規開発であったり保守点検であったり様々なのに、みなさまどうやら期限間際にならないと本気を出せないようだ。社会人ってキラキラ眩しいと思っていたのに、そこら辺の感覚は学生とあまり変わらない。唯一の違いは投げ出すことや逃げ出すことが許されない点かも。
約束の時間になって、私は石鍋さんと一台のパソコンに向かった。
「辰巳さんは全く経験ゼロだったよね」
「お恥ずかしい限りです……」
「いいのいいの、私も会社に入って初めて触ったもん」
そう聞かされて幾分か心が軽くなる。てっきり石鍋さんも、学生時代からバリバリ取り組んできた人だと思っていたから。
「前に入門書を買ったと言ってたでしょ、せっかくだからそれを使ってみよう」
ああ、数ページ読んでやめよう、と挫折したあの本か。カバンの奥底に沈みっぱなしのそれを引っ張り出すと石鍋さんは明らかに動揺してみせた。
「これCOBOLだよ。プログラミング初めての人なんだよね?」
「コボルって何ですか。もしかして間違えたの買っちゃいましたか」
「いやいや間違いとかじゃないんだけど。てっきりCとかJavaScriptあたりかと思ってた……」
「じゃ、じゃばすりく、すくり、ぷと?」
ヤバい。石鍋さんが言っていることがひとつも分からない。ちんぷんかんぷん冷や汗たらりと流れ始め、自分の買った本に目をやる。店員さんに入門書であることを確認してから買ったはずなのに見当違いだったのだろうか。
「まあ、いっか。これで始めよう」
「いいんですか?」
「いずれやることになるんだから。英語から学ぶかスワヒリ語から学ぶかの違いみたいなものよ」
それってだいぶ違うんじゃないかとは言えず、私は黙って頷いた。このCOBOLとやらは恐らくスワヒリ語の方で、なにか新しい言語を始めようとする人間が敢えて選択するものではないのだろう。
まず冒頭にサンプルコードが載っていた。石鍋さんに言われるまま、何も考えずにそれをそのまま入力してみる。プログラミングといえば英数字が乱れ並ぶイメージで、実際に石鍋さんたちの仕事を覗き見すれば謎の数式が踊っていることが大半だった。視界に入るだけでも抵抗感が凄まじいのに、これはどちらかというと英文に近い感じがして、写すだけなら気負いなくできる。
「全部入力できました」
「オッケー。それじゃあエンターキー押してね」
人差し指で軽快に鳴らすと、画面に『Hello,world!』という一文が浮かび上がった。
「ハローワールドだ……」
ついさっき聞き覚えのある文章で、初めなのに動いたことに対して不思議な気持ちになった。
「どの言語の参考書でも、最初の例題はたいていハローワールドなのよねえ」
「他のもそうなんですか?」
「ここにいるプログラマは全員、ハローワールドに処女を奪われたと言っても過言じゃないわ」
「どういう意味なんでしょうね」
「アーメンとかナンマイダーくらいものじゃないの」
石鍋さんの何気ない一言で深淵を覗いたような気分に襲われる。祈った挙げ句の果てにパッパラしちゃうのか。藤沢主任の会話ボリュームがだんだん大きくなってるのに、誰も気にする様子もなくて。グッバイワールドしたいなあ、なんて言ったら怒られてしまうだろうか。
「私はちゃんと出来るようになるんでしょうか……」
「誰でも出来るよー。でも辰巳さんは文章がとても上手いから、クライアント向けの資料とか作ってもらいたいと思ってるの。だからソースコードの意味さえ分かるようになってくれればいいかな」
「それでいいんですか!」
「お使いだってあるわけだしさ。それに、あんな状態じゃあまともな日本語書けるように見えないでしょう……」
あんな状態と揶揄されている藤沢主任はますます酷い。ああはなりたくないけど、意味が分かるだけでいいのならそのハードルはぐっと下がった。
「あそこまで壊れちゃう人って多いですか」
「藤沢主任はちょっと極端か。まあ、凄い人ってだいたい突き抜けちゃってるし」
「……先輩も、突き抜けてましたか?」
藤沢主任を見ていると、突然とち狂って人を刺すとかしても驚かない気がする。先輩は誰に聞いても凄いとの評判だから、突き抜け具合もとんでもないのかな、なんて変な想像をしてしまった。
「先輩は別格。朝と昼と夜と夜中と明け方で、別言語の案件扱ってたり。凡人じゃそんなコロコロ頭切り替えらんないよ」
「その前に睡魔でやられそうです……」
「それだけじゃないよ。脳内プログラミングでデバッグまでしちゃうし。全部脳内で完成させた後に打ち始めるから入力速度は半端ないし、そのくせ一発完動させちゃうし」
「それは凄いことなんですか?」
「なかなか出来ないからああなるんだよね……」
目を細めてしみじみと石鍋さんは同情の視線を送る。まだ未経験だけれど、デバッグというバグ除去作業がとにかく大変なものだとは聞き及んでいて、藤沢主任はその真っ只中にあるそうだ。
「バグの原因を探すより先輩探し出したほうが絶対に早いと思うの」
それが本当なら今すぐにでも探しに行ってあげたいところだけど、絶対に連れては来られない所にいるなんて、しかも年単位で閉じ込められてしまう可能性が高いなんて、口が裂けても言えない。フラッと帰ってきたら良いですねと、願っても叶わない相槌が精一杯だった。




