第三話・前編
羽矢は夢を見た。
生まれ育った街にある小さな家の自分の部屋で目が覚めて、何事もなく父と朝の挨拶をして。
朝食を摂って、支度をして。学校に通って、見知ったクラスメイトたちと会って、教室に入ったら先生もすぐに来て。
授業をやって、校内を移動して、校庭で走って、放課後になったら部活をして。
帰宅して、父と日々起きた事で会話しあって、風呂に入って宿題をして、布団の中に入って寝て、また朝が来て学校に通って……。
そんな多くの人が必ず経験するだろう他愛も無い日常の夢であったが、今はそんな何でもない日々がひどく愛おしいと羽矢は感じていた。
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早朝。川を跨ぐ橋の下で水が跳ねる音が何度も耳に入り、羽矢は幸せな夢から目が覚めた。
目をこすりながら音がする方を見ると、リウが一糸纏わぬ姿で水浴びをしていた。水に濡れた肢体が朝日に照らされ、飛沫と共に白く光り輝いている。
「だいたん……」
それを見た羽矢は口から言葉が漏れていた。
「あ、起きたんだ。おはよ」
「え……ああ……うん……おはよう……」
リウの挨拶に応え、羽矢は力無く挨拶を返す。リウの身体を見てみると、自分と同じ胸から腹にかけて大きな傷跡があった。
やっぱり、リウも同じなんだ……。羽矢は改めてシンパシーを感じた。
「ん、どうしたの? ……ああ、まぁさか私のプロポーションに見惚れたぁ~? 興奮したの? 興奮したの? そっちの趣味でもあるの~?」
リウがニヤけた顔をして、ポーズをとったりとおどけてみせる。
「そうじゃないよ……それにその気なんて全然無いし」
「安心していいよ。胸はあんたの方が大きいから」リウはあっけらかんとした調子で言った。
「……!! ど、どこ見てるの!!」
羽矢は頭を抱えるようにして思った。知り合いに言われたら少しは嬉しいかもしれないけど、この人に言われてもあまり嬉しくないと。
「ところで……その傷ってやっぱり……」羽矢は赤面しつつも感じた疑問を口にする。
「ああ、コレ」リウは身体の傷痕を指差した後、服を着始める。「お察しの通り手術の痕だよ。といっても、別に機械とか入れられてるわけじゃないみたいだよ。よくわからないけどさ、投薬とかそういうのされてるみたい。漫画とかにあるでしょ、感情が高ぶると身体がめきめきと変わったり手術跡とか浮かび上がるヤツ」
「う、うん。確かにそういうの映画とかで見た事あるけど」
「ま、改造には変わりないけどね。どっちみち普通じゃなくなってる」
普通じゃなくなってる。その事実をリウは淡々と語った。
確かにその通りかもしれないが、羽矢は未だその実感が湧かないでいた。変な研究をされたかもしれない身とはいえ、今思えばあれは質の悪い夢だったのかもしれない。もしくは今見ている光景もまた夢の続きなのかもしれない。でも感触はあるし意識も嫌にハッキリしている。ふわふわと宙に浮いているような感触だと羽矢は現実に対して思っていた。
「……で、なんでまた急に水浴びなんてしてたの?」
「ああ、それね」羽矢が一番最初に感じたどうでもいい疑問を尋ねた時にはリウは着替えを終えていた。
「ほら、何日も風呂入ってないし汗も結構かいてたし。気になってきたんだよ……匂い、とか」
「汗が気になって……?」羽矢は思わずフッと笑ってしまった。
「? 何? ちょっとムカつくんですけどその笑い方」
「いや、そういう所もあるんだなって……女の子っぽいなって」
「それは心外。こんなんでもあたしだって女よ」
どうやら心外だったらしく、リウは眉を吊り上げながらむくれた。
彼女にも女らしい一面は一応あるみたい……羽矢はリウへの認識を少し変えようかなと思った。
** **
しばらくした後、二人はバイクを再び走らせ山沿いの道路へと入っていった。道は車線側に崖があり、ガードレールが申し訳程度に覆っていた。対向車線側には木が生い茂った山肌があった。
道中に聞き込みなどで調べた結果、新銀山町は二人が思っていたよりも近い場所にある事が解った。あの実験場は新銀山町から県をひとつまたいだ場所に位置していた事も話から推測できた。
羽矢は純粋に喜びが込み上げ気分も高揚していた。もうすぐ帰れる。そう思った時、二人は心の奥底から嬉しさが込み上がり表情から笑みが溢れ心臓は高鳴り出した。目的地まではそう遠くはない。クラスのみんなは今何してるんだろう。顔を見せたらきっと驚くだろうな。弓塚さんとか特にすごく驚きそう。クラスの事結構気にかけてたし、面倒見も良かった方だったし……きっと何があったの生きてて良かったとか、そういう事聞いてくるんだろうなぁ。
羽矢が自分の理想に浸る一方で、リウは同時に不安をも感じていた。
家族に会える事は嬉しい、だが、実際会ってみてどうするべきなのか。今頃になって事情を話すべきなのか。何を言えるのか、何故今になって自分が現れたのか、それを言えるだろうか。そもそも、家族は今でもあの街にいるのだろうか。いなくなってから大分経ってしまうというのに……。リウは悩めば悩むほど、深みに嵌っていくような気もしていた。
「リウ! 前見て前!」
羽矢の叫びでリウはハッと我に返り叫ぶ。
「おわァッ!?」
目の前には山肌が迫り、あわや激突する寸前で急ブレーキをかけると共にハンドルを急激に曲げた。バランスを崩し転倒するが、ギリギリ激突は免れた。幸いバイクにも大きな損傷は無かった。しかし、二人の心臓は別の意味で高鳴り出していた。
「や……やべぇやべぇ……」
「ちゃ……ちゃんと前見て運転してよ! こんなところで一緒に心中なんてゴメンだからね!」
羽矢は涙目になりながらリウに文句を言った。
……考えても仕方ないか。その時はその時だと今はそう思おう。リウは実際に着いてから考える事にした。今はそれでも遅くはない……そう思えていた。
リウと羽矢は共にバイクを起こし、走行を再開した。
「……しっかし、ちょっとスピードが遅いかな……」気分転換のつもりなのか、先ほどまでと打って変わってリウの声色が甲高くなった。「せっかくだし飛ばすよ。振り下ろされないよう、しっかり捕まってなよ」
「捕まってろって、リウに捕まってなきゃ二人乗りなんて出来ないし……って、ひゃあッ!?」直後、リウがバイクのアクセルを踏み込みスピードを一気に上げた。
「ちょ、ちょっと!? これは早すぎ……!!」メーターをちらりと見てみると数値が六十以上振り切れていた。
「言ったでしょ、飛ばすって! それに他に車も見当たらないし、こんなもんでしょ!」
「だからって、これじゃ事故起こしちゃうよ! というか、スピード違反! 車だってそのうち来るだろうし……」
「バレなきゃ違反でも違法でも犯罪でも無いんだよ!」
「そんな無茶苦茶な!」
瞬間。対向車線から、ちょうど車が現れる。
「うげェッ!? 今度こそヤバい…!!」リウはまたしても叫んでしまった。
間違いなく衝突すると羽矢が思った刹那、リウは咄嗟に車体を限界まで斜めに傾けた事で、車をスレスレで避ける事に成功した。
あわや、衝突は免れたが二人の顔色は生きた心地がしないとでも言わんばかりに青ざめ冷や汗をダラダラと流した。
「……っとと……さ、さすがに……飛ばしすぎた……かな……ハハ……」
「だ……だから、言ったでしょ……さっきもだけど、上の空になってると思うよ……」
「ご……ごめんごめん。気を付けるから……さ」
たぶん、とんでもない命知らずの非常識な二人組だと思われたんだろーなー……と、羽矢は呑気な事を思った。
直後、リウは反省してバイクを減速させ、スロースペース安全運転で移動する事にしたのは言うまでもなかった。
その調子のまま道路を走り続けていると道案内の青い看板が続々と見られるようになってきた。そのまま直進を続けていたら、ふと『新銀山町まで40km』と書かれた看板が目に入った。
「新銀山町……近い…………の、かな?」
「順調に進んでいけば……たぶん、直ぐに着けると思うよ」
リウの問いに羽矢はとりあえず相槌を打った。
「まぁ……順調に、行けば、な」
もうすぐ家族に会える。リウは上機嫌になる一方で羽矢は不安になった。
お父さんはまだあの街にいるのだろうか。何日も顔を合わせていないのに急に帰ってきたら普通は驚くだろうし、何があったのかまず真っ先に聞いてくるだろう。それにどう答えられる?
変な組織に拉致されて、体中を弄り回されて、変な力まで植えつけられて。
この経緯をバカ正直に全部言える自信はあるのだろうか? 何より、この話をまず信じてもらえるのだろうか?
会いたくはあった。だけど、自分の身に何があったのか、何を経験したのかを言いたくはなかった。言える自信は無かった。羽矢の心の中で期待と不安がとろけるように渦巻いていた。
「どーした? ボーッとしちゃって」リウは羽矢のそんな様子を見ておかしいと思ったのか調子を訊ねてくる。
「ん……なんでもない」羽矢は短く答える。
「そっか。ところで……」リウは腹の辺りを撫でてみる。「……お腹空かない?」
羽矢も腹を触ってみる。
「……そういえば、ちょっと空いてる、かも」
思い返してみると、ここ何日かまともな食事というものを摂っていなかった。
道中で必死にかき集めたわずかな小銭で適当に選んだコンビニのおにぎりをかじった程度だ。そのおにぎりも二、三個程度と満腹には程遠かった。
昔、テレビのニュースとかでホームレスの取材映像を見た事があるけど、あの人たちもこんな感じの生活を送っていたのだろうか。まさか自分たちがこういう風になるなんて、本当思ってもいなかったなぁ……。
羽矢が物思いにふけ妙な気持になる中、リウは続けて聞き出してくる。
「ねぇ……もし、このまま何もなくて無事目的地に着いたらさ、まずはコンビニとかで買い食いでもしない?」
「お金どうするの。もうあんまり残ってないよ」
「なに、自販機でも漁ってみれば百円玉くらい転がってるもんでしょ。小学生の頃、よくやってたもんだよ、ガシャポンにハマっててお目当ての景品出ないか躍起になってたもんだから。それで近くにあった自販機のつり銭口に手を突っ込んでみたら小銭がちょっとあって、それからヤリまくるようになってさ……」
「そんな昔話は聞いてないしどうでもいいし……」
その直後。
「……痛ッ!!」
羽矢は頭に強く鋭い痛みを感じ、思わず声を上げた。
「えっ!? もう追手が来たの!?」
リウは咄嗟にブレーキをかけバイクの走行を止め、首を左右に回し辺りを見るが、周りにそれらしい姿は見当たらなかった。
「こっちは何も感じないんだけど……もしかしてただの頭痛じゃないの? 貧血とか」
「そんな……わけ……な……痛い痛い痛い!!」
痛みは激しさを増していき、羽矢の顔もみるみる青ざめ、口から嗚咽が溢れ出ていく。
「だ、大丈夫……?」リウは羽矢の容態を案じるが、その直後に彼女も敵の気配を感じ取った。「……!」
後ろを見ると、遠くから五台もの黒いバイクが追いかけて来ている事が解った。
リウはバイクを再び動かし、アクセルを踏み込み加速させる。
「しっかり捕まっていなよ! どんだけ辛くても、指が食い込むくらいキツくしとかないと、ゴロゴロ転がってっちゃうからね!」
羽矢は頭痛に耐えながらも、リウの言うとおり両腕を強くリウの身体へ巻き付けた。