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残光の箱庭  作者: 米田
1章
2/85

1

 猫の歌を歌っていた。

 私の好きなものだから。猫も、歌うことも大好き。林の中の誰も来ない場所で、私はひっそりと好きなものを楽しんでいた。誰も猫をいじめないし、私の歌を下手だなんて笑ったりもしない。

 足元で私にじゃれついていた野良猫たちが、背後で草を踏む音がした瞬間に蜘蛛の子を散らしたように逃げていった。

 一体誰がこんなところまで来たんだろう。


 私は歌うのをやめて、立ち上がって振り向いた。

 ――綺麗な人。背の高い女性が立っていた。艶やかな長い黒髪に、優しさと知性が滲んだ黒い瞳で私を射抜く。

 もしかして、こんな素敵な人に私の下手くそな歌を聴かれたかな、と思って不安になる。何かを言われるのでは、と思って身構えた。

 夏の終わりのぬるい風が私たちの間に吹いて、一度瞬きをする。黒髪が風に揺れ、お姉さんは少し驚いたように目をパチクリと瞬かせ、口を開いた。


「歌、上手だね」


 そう言われて、体の力が少し抜けた。

 だって、ずっと不安だった。人前で自分の本当に好きなことなんて言わなかった。否定されるのが怖かった。これ以上否定されてしまったら、私はきっともう立ち上がれなかった。

 何だか胸がいっぱいになってしまって、すぐには言葉が出て来なかった。

 葉が擦れる優しいざわめきの音が耳に残って、夕陽の柔らかな残光が瞼の裏に焼き付いた。




******



 眠い目を擦る。あれ、何をしていたんだっけ。

 最近やけに眠くて、記憶が途切れてしまう。朝早く学校に行って、学校が終わったらバイトに行って、家に帰ったら家事もしないと。

 おかげで寝不足なんだよなあ。そのせいかな、と欠伸を噛み殺す。母親にも言われてしまった。注意力が散漫だと。この間は家族全員分のお弁当をシャッフルして入れてしまったみたいで、長々と説教されてしまった。早く寝たかったのに。


「穂乃果!起きたの?!起きたなら、家のことやりなさいよ!全く、いつまで経っても使えないんだから……」


 階下から母親の叫び声が聞こえた。ハッとして起き上がる。そっか、私家に帰って寝てたのか。もう起きる時間かあ。何だかフワフワしてしまって、現実感が無い。まだ夢の中にいるみたい。

 でもそんなことも言ってられない。私は息を吐いて立ち上がった。


 朝の支度をして、洗濯機を回し、家族全員分の朝食を用意する。それに、お弁当も。ご飯を食べ終えて後片付けをし、洗濯物を干して、バタバタと学校へ行く準備を整える。私の通っているところは実習多めだから、メイク必須みたいな雰囲気無くて良かった。朝の時間足りないもん。それに、私ちょっと化粧って自信無いや。


「いってきます」


 家族に向かって毎朝そう言うけれど、誰からの返事も無い。いつものことだけれど、毎回ちょっと寂しいな。そう思いながら靴を履いて家の外へ出ようとすると、母親が厳しい顔をして私の方へ寄ってきた。


「ちょっと、そろそろ忙しい時期になるんだから、あんたも畑手伝いなさいよ」

「え、でも学校もバイトもあるから難しいかも……優真じゃ駄目なの?」

「何言ってんの!あんた受験控えてる弟に手伝わせる気?!朝早く起きな!」

「今より?厳しいんだけど……」

「じゃあ学校辞めな」

「ええ?!それはおかしくない?!」

「そもそも将来畑を手伝うために行かせてんだから、こっち疎かになるならそんなとこ辞めな」

「……分かった、分かったよ。早く起きるから」

「ふん」


 そう言って、足を踏み鳴らして奥へ去っていく母親を、溜息を吐いて見送った。私が家の外で楽しく忙しそうにしてるのが気に食わなかったのかな。これ以上睡眠時間減らせないよ。

 トボトボ家から出て、私は自転車に乗る。大学まではかなり遠い。ここから山を越えなければいけないので、朝からかなりの運動量だ。


 私が住んでいるところはかなり田舎だ。農業が盛んで、辺り一体畑や田んぼだらけ。親もあんな感じで俗に言う毒親というやつなんだろうけれど、この村でずっと生きてきた人間の価値観がアップデートされることってあるのかな。長男である弟を贔屓して可愛がって、女である私には面倒事を押し付ける、みたいなのがここでは合理的なんだと思う。分からないけれど。

 私の家庭の話をすると、学校の友達は困った顔で他の子と目を見合わせて黙ってしまうので、何となく察してしまった。みんなとは違うんだろうなって。


 でも、だからと言って私の人生が不幸だってレッテルを貼られたら、それには絶対にNOと言い返せる。

 優しい友達と日々一緒に過ごせたり、なんだかんだ喧嘩をしても優しい弟とアイスを半分こして食べたりとか、近所の野良猫が子猫を引き連れて会いに来てくれたりとか、海外ドラマが豊作で夜通し観ちゃったりとか。それに親には下手くそだとずっと言われてきたけれど、歌を歌うのが好きなんだ。だから、こっそり1人で歌っている時もとっても幸せ。

 些細なことでも幸せを感じられる私って、お得な人間だ。


 だから両親に無理矢理入れられた農業の専門校卒業後、この村を出ることを反対されていてもそれならそれでしょうがないと割り切ることが出来た。もちろんこの田んぼと畑と山が一面に広がる村から出て都会での生活に憧れることもあるけど、出れないなら出れないでそれはいいかな、なんて思ってた。

 例えば夕焼けで染まる黄金色の畑とか、季節で変わるこの景色のことを案外嫌いではないし、都会でやることがあるのか?と聞かれれば強い目的意識も無かった。歌うのは好きだけれど、自分が特別な人間じゃ無いことはちゃんと分かっている。どうせ憧れだけでこの町を出て行ったって、ドラマみたいにうまくいく訳ないんだ。

 それに家族のことで限界が来たら、親の言うことなんて聞かずにこの家を出ちゃえばいい。都会じゃなくても、どこか私が過ごせる場所へ。大人になったらそういう選択肢も持てるんだ。そんな切り札を持つために、私は睡眠時間を削ってバイトをしている。


 ふと視界の端に映った林に目をやる。あそこが野良猫の溜まり場になっていて、高校生の時はよく餌をやりに行っていた。今は忙しくてなかなか会いに行けないけれど、今度時間をとって会いに行きたいな。

 あの林には猫だけじゃなくて、ちょっとした思い入れもある。あの綺麗な女性、レイさんと出会った場所だ。


 レイさんの話をするには、ちょっとこの村の人気トピックも押さえておかなくてはならない。

 ここ最近、村の近辺に新幹線の新しい駅が出来た。こんな田舎に、何で?と思ったけれど、噂では名のある名士が裏で手引きしたとか何とか。噂だから、本当のところは分からないけれど。

 それでこの辺りの開発が少しずつ進むことになった。例えばショッピングモールだとか、企業の工場とか、研究施設とか。変化に弱い村の人々はそれを嫌がって、近隣の市町村と手を組んで建設反対運動なんかも始まった。私からしてみれば、便利になるし新しい人が移ってきて賑やかになるから良いことづくしなのに。

 そんなピリピリした時期に、この村にどうやら新しく家が建つらしい、と噂が流れた。それがとんでもない大豪邸らしく、かなり大規模な地鎮祭も行われたし、工事の挨拶回りで、村人全員の家を建設会社の社員が訪れたらしい。

 反対運動の渦中だったので、その豪邸もきっと関係者の家だとか何だとか言って、村人から徹底的に嫌われた。うちの父親も、あんなでかい家は景観を壊して良くない、なんて真剣な顔をして言っていたっけ。

 結局その豪邸は出来上がってしばらくしても人が住む様子が無かったので、みんな飽きて話題にもしなかった。新しい火種が無ければ、燃え上がることもないんだよね。


 そんなことも忘れて私が林の中で猫と戯れてご機嫌に歌を歌っていた時、私は道に迷ったその豪邸の住人と出会ったのだ。それがレイさんだ。

 レイさんは海外の大学の卒業を控えてて、就職活動中だったらしい。日本の会社に就職するつもりも無かったけれど、帰省がてら親が建てた別邸と近くに建つ製薬会社の研究所を見に来たそうだ。元々別邸が建ったのも、その研究所にレイさんが務める可能性もあるから、というのが理由の一つだったみたい。

 別邸があるくらい実家が太くて、頭も良くてこんなに美人で、本当にドラマや映画の中の人みたいだな、と思った。ってレイさんを褒めたら肩をすくめながら、でも道に迷っちゃったから格好付かないねと言っていた。それを聞いて、褒められ慣れてる人の返しだなって思った。だからこそ、レイさんはお世辞で歌を褒めたんじゃないんだろうなって、嬉しかった。


 そんな出会いも、もう数年前か、と懐かしく思う。

 あの時連絡先を交換して少しやり取りしてそれっきりだったけれど、何故か今私はレイさんの元に通っている。

 それは、えっと、何でだっけ。ああ、やっぱり最近頑張りすぎたかも。スッと思い出せない。

 えっと、そう、結局レイさんは日本に就職することになって、あの豪邸に1人で住むことになったんだけど、多忙だったから身の回りのことが疎かになってしまったようで、お手伝いさんを探していた。それで私にバイトに来ないか、と打診してくれて、破格の時給に私は飛びついたんだった。

 再会したレイさんは髪をバッサリ切っていて、前髪もセンターで分けられていて大分印象が変わった。一瞬ちょっと誰か分からなかったくらいに。

 それから私はレイさんの家でご飯を作ったり掃除をしたり、洗濯をしたり。家で家事をするより大分楽だった。だって量も少ないし、それに設備が全部新しい。食洗機や乾燥機に入れちゃえば終わっちゃう。これであんなに高いバイト代もらっちゃって良かったのかな。


 さて、今日はレイさんの家でバイトの時間だ。レイさんの家の長い長い廊下を歩いて、ボーッとしながら窓を開ける。換気をして、それから家の中を掃除して――……


「待って、何してるの?!やめて!」


 鋭い声が飛んできて、私は後ろから羽交い締めにされる。そのまま後ろに引っ張られて、踏ん張ることも出来ずに倒れ込んだ。


「うわ?!」


 驚きで掠れた声が出た。ゲホゲホ、と咳き込んでから、慌てて下敷きにしてしまった人物の顔を覗き込んだ。


「れ、レイさん?!」

「…………」

「大丈夫ですか?!ごめんなさい、重かったでしょ私!開けちゃダメな窓でした?!わーごめんなさい、ちゃんと確認すれば良かった!」

「えっ……?」

「すぐどけますね!……あ、あれ?」


 手を付いて立ち上がろうとするのに、力が上手く入らなくて座ったまま動けなかった。びっくりして力が抜けちゃったのかな。

 私の下から抜け出して、レイさんが手を差し出してくれる。その手を握ると引っ張って立ち上がらせてくれた。


「…………」

「ありがとうございます。疲れてるのかな……」

「…………」


 レイさんは私の手を握ったまま、私の様子を見て怪訝そうに眉を顰めて黙っている。何も返事が無いので、少し不安になってきた。もしかして、私は何かこの家の重大なルールを破ってしまったんだろうか。カオナシを招き入れちゃったとか?


「レイさん……?どうしました?」

「いや……え……?起きたの……?」

「え?起きてますよ?換気したくて、窓を開けようとしただけで」


 話の途中で、私は正面から思い切り抱き締めた。突然のことで驚いたけれど、美人に抱き締められるって全然悪い気はしない。でも力いっぱい抱き締められてるので、ちょっと、かなり苦しい。


「あ、あのー……?」

「よかった……!起きないかと思って、私……!」

「え?起きてますよ、ずっと」

「そう、そうなんだけど……」


 いまいちレイさんが言ってることの意味が分からない。私はちゃんと約束通りの日に来て、家事をこなしてるのに。ふと、視線を落として自分の体を見る。


「え!?何でパジャマなの?!」

「あ、それは」

「だって私、学校の帰りだったのに!私服だったはず……」

「…………」

「まさか眠すぎてレイさんの家で無意識にパジャマに着替えちゃいました?!」

「覚えて、無い……?」

「何がですか?」


 私の肩に手を置いて、レイさんが体を離した。私を見つめる瞳が不安げに揺れる。何か私は重大なことを忘れてるらしい。

 レイさんは私のおでこに手を当てて、それから手首の脈を測る。慣れた手付きでそれらが行われて、お医者さんみたいだなってちょっと思った。

 難しい顔をしてしばらく黙ってから、レイさんは口を開いた。

 

「……熱出して、倒れてたんだよ。だから、異常行動で窓から飛び降りようとしたのかと……」


 そう言われ、私は驚きで叫んでしまう。だって、え?私今日授業受けてそのままここに来たのに?

 スマホを見ようとしてポケットを触るけれど、そういえばパジャマだ。入っているはずがない。


「え、え?!全く記憶に無いです!」

「そ、っか……」

「ご、ごめんなさい……最近バイト漬けで疲れてて、睡眠時間足りてなくて……」

「バイト?」

「あ、レイさんの家でお手伝いする以外にも、バイト入れてるんです。単発のコンビニの夜のバイトとか、あとラーメン屋さんとか。他にも短期でいろいろ……」

「…………」

「待って、私ここでバイト中に熱出して倒れちゃったってことですか?!」

「え?うん……」

「うわー!ごめんなさい!お手伝いに来てるのに、迷惑かけちゃった!」

「迷惑じゃないよ。気にしないで。……記憶が、あの、無いってことなんだよね……?注射したことも、熱が出たことも……」


 注射?そんなに高熱で、夜間救急にでも連れて行ってくれたのかな。どうしよう、本当に記憶が無い。記憶が無いことをちょっと怖くも思ったけれど、熱でふわふわしてる時って記憶は曖昧になるかも。


「そうですね……いつも通り朝起きて学校で授業受けてバイトをしに来たのに、気付いたら何故かパジャマ着てたって感じです」


 そう言うと、レイさんの顔から色がサッと消えた。顔が歪んで、今にも泣き出しそうだった。よくよく顔を覗き込むと、記憶の中のレイさんより線が細くなってやつれている気がする。え、私のせいかな?!看病のせいで、疲れさせちゃった?!

 私は慌てて話しかける。


「あの、でも、私元気ですよ!確かに、最近寝不足でフラフラで記憶飛んだりしてたけど、今は寝たからかスッキリしてますし!過労だったんだと思います!」

「…………」

「本当ですよ、レイさん!」


 精一杯腕を振り回して、元気なことをアピールする。レイさんはまだ不安げな顔をしていたけれど、一応は納得してくれたようだ。暗い顔のまま、何度か頷いて私を見つめる。


「でも、一応検査はさせてね。採血とかするけど良いかな」

「それは、はい、勿論……ここでですか?」

「うん。そこの部屋で待っててもらえる?すぐ準備してくるね」

「すごい、レイさん、お医者さんの資格も持ってるんですか?」

「……そうだね」

「えー?!すごい!かっこいい!頭がいいんですね!」


 私がそう言うと、レイさんは目の前の部屋の扉を開けながら自嘲気味に口元を歪める。


「頭だけ良くてもね」


 あれ、と微かな違和感を覚えた。褒められ慣れてるから、軽く流してくれると思ったのに。仕事が忙しくて疲れちゃってるのかな。だから自信を無くしてしまって、そんな風に返事をしてしまっているのかな。


「レイさんみたいに、綺麗で頭も良くて、スタイルのいい人でもそんな風に卑屈になっちゃう時があるんですね」

「嫌味に感じた?」

「ううん。そんな人でも落ち込んじゃうことあるのかなと思うと、可愛いなって。そしてそんな姿を見せてくれるの、嬉しいな。えへへ」


 私がそう言うと、レイさんは面食らったような顔をする。そして顔を赤くした。うん、やっぱり可愛い。


「ホノカちゃんって、たらしなの?!」

「それ、よく言われますねえ」


 私はレイさんが押さえてくれている扉の中へ入る。中に置いてあるソファへ腰掛けた。


「そういえば、レイさんの夢を見ました。寝てる間に」

「それは、さぞかし悪夢だったんじゃない?」


 またそんな風に言う。私は首を振った。


「ふふっ初めて会った日の夢ですよ。大事な思い出なんです。あれが私の人生のハイライトかも」


 レイさんは驚いたように私の方を見て、そして眩しそうに目を細めて微笑んだ。その表情がやけに悲しそうに見えて、私は声をかけようか迷った。

 迷っているうちに、扉は静かに閉じてしまった。

2026/3/4にプロローグおよび1話の大幅改稿をしました。元の話はブログに格納してあります。

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