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来ないで


森の奥は、少し暗かった。木々が重なって、光が届きにくい。空気が、ひんやりしている。


私は、男の後ろを歩く。いつもの距離。でも、少しだけ息が詰まる。


そのとき、空気が変わる。静かで、遠い。


木の影の奥に、“それ”はいた。


人の形。でも、輪郭がぼやけている。はっきり見えない。近づいたら、消えてしまいそうな感じ。


私は、一歩だけ前に出る。


その瞬間、“それ”が、後ろに下がる。


「……来ないで」


小さな声。


私は、止まる。


男が前に出ようとする。


「……待って」


私は言う。男が止まる。


「……来ないで」


もう一度。


私は、ゆっくり言う。


「……行かないよ」


“それ”の動きが、少しだけ止まる。


私は、その場に立ったまま動かない。近づかない。


そのとき、視界が揺れる。


――手を引かれる。

「こっちおいで」

やさしい声。笑ってる。


うれしい。近づく。手を握る。


「いい子だね」


胸が、あたたかくなる。


次の日。


同じように近づく。手を伸ばす。


払われる。


「今忙しいの」


もう一度近づく。


「……やめて」


声が冷たい。


立ち止まる。


(……さっきはよかったのに)


胸が、ぎゅっとなる。


もう一度、手を伸ばそうとして、止まる。


「……来ないで」


視界が戻る。


目の前の“それ”が、同じように言う。


「……来ないで」


私は、小さく息を吐く。


「……怖かったんだね」


“それ”が、揺れる。ほんの少し。


私は、動かない。近づかない。


「……来ないでって言ったら」

少しだけ間を置く。

「……ほんとに来なくなると思った?」


“それ”の輪郭が、ゆらゆら揺れる。


私は、そのまま言う。


「……大丈夫」

「行かないよ」

「ここにいるだけ」


沈黙。長い沈黙。


“それ”が、少しだけ近づく。ほんの、わずか。でも、さっきより近い。


私は、動かない。手も出さない。


“それ”が、もう一歩近づく。顔が、少しだけ見える。


私は、小さく言う。


「……来てほしかったんだね」


“それ”の動きが止まる。


次の瞬間、崩れ始める。ゆっくり、静かに。


一瞬だけ、人の顔に戻る。


目が、こちらを見る。何も言わない。でも、少しだけ、安心した顔だった。


そのまま、光になって消えた。


静けさが戻る。


私は、その場に立ったまま、動かなかった。


男が、後ろから言う。


「……なぜ、近づかない」


私は、少し振り返る。


「来ないでって言ってたから」


少しだけ考えて、言う。


「……でも、本当は」

「近づいてほしかったんだよ」


男は、黙る。


私は、前を向く。


「……難しいよね」

「近づきたいのに、怖いの」

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